84.魂③
「我ガ狂っているト? 僥倖! 僥倖ゥ! ギョウコウッッッ! 狂ってわずにハいられるカ! 狂わズにいられるハズがなきかな!」
仰け反りながら、千蔭が笑い狂う。
彼の目には涙が滲み、瞳の中には悲嘆と歓喜が渦巻き、双眸は狂気でギラギラと煌めいていた。
千蔭の哄笑が空間中に響き渡り、ビリビリと肌を叩く。
空間が震える様な錯覚に、俺は立ち眩みのように体がぐらついてしまう。
足を踏み出して、なんとか平衡感覚を保っていると、視界の隅にテトラが剣を抜き放つ姿が映る。
「貴様っ! お師様に何するかぁ!」
石畳に踏み込みの跡を残しながら、テトラが千蔭に突撃する。
流れるような動きで、彼女の剣が千蔭を薙ぐ――
ギィィィィン!
甲高い金属の擦れるような音が響く。
凪いだはずのテトラの剣は、大きく軌道が逸れ、剣圧が天井を斬り裂く。
「ほウ、得物ヲ飛ばさないトハ、なかなかダナ」
いつの間にか千蔭の左側に握られたカタナを見て、俺はテトラの剣筋を千蔭が逸らしたことを理解する。
テトラは剣の勢いに逆らわずに、独楽のように回転しながら、バックステップで距離を取る。
「チッ、しゃらくさい……」
体勢を立て直したテトラの頬には、赤い筋が描かれ、滲んだ鮮血がポタリと床に落ちる。
柳眉を寄せるテトラの表情は、悔しさが見て取れた。
「我ノ目的は、御屋形様の還御だけダ。ここで退けば、見逃してやろうゾ、小娘。先程の戯れで力量差ガ分からぬ程、愚かではなかロウ」
「……格上相手に怯むような臆病者は、リリーシェルにはいない。已より強き者に挑むこと。それこそ至上の喜び」
「ほホう、大陸の野蛮人にモ、少しは気骨のある者がいるのダナ。だが、浅はかな考えデ命を無駄にするのハ愚かダ」
千蔭は、ゆっくりと眼前までカタナ――光を反射しない漆黒の刃――を持ち上げる。
目を凝らしても輪郭をハッキリと捉えることが出来ないカタナは、何かしら魔術を付与されているようだった。
千蔭は無造作にカタナを振り下ろす。
いや、遅れて聞こえてきたヒュンという風切音で、俺は千蔭がカタナを振り下ろしたことに気づくことが出来た。
石畳には真っ直ぐに線が刻まれていた。
カタナの切れ味か、千蔭の実力か、石畳が紙切れのように簡単に切れたことに、俺は戦慄を覚える。
「……妾の愛弟子に何するのじゃ」
シノさんの静かな一言。
同時に周囲の空気が硬化した様な圧迫感に全身が包まれ、身動き一つ出来なくなってしまう。
冷たい汗が、肌を伝っているのがハッキリと分かる。
殺生石に拘束されつつあるシノさん。それでも、彼女が種として圧倒的な格の違いがあると、俺の本能が悟る。
しかし――
「御屋形様、そう睨まないでいたダキたい。我ハ少し戯れただけのコト。御屋形様モよくお戯れになっていたデはありませんか」
「戯れと弄ぶを同程度と思うでないのじゃ。戯れとは、この程度のことをいうのじゃ」
胸元まで宵闇色の光りに包まれていたシノさんが、無造作に右腕を持ち上げる。
それだけで上半身を包んでいた宵闇色の光が四散する。
彼女は胸元から紫色の扇子を取り出て開くと、口元を隠しながらコロコロと笑う。
「――ッ! なんダト! 殺生石ノ錬成は、完璧のハズだ! 御屋形様だとしても、簡単には解除が出来ないハズ!」
「戯れというたであろう。ヒトの子が必死に考え、作り、妾に見せてくれたのじゃ。すぐに壊しては憐れであろう。所詮は良く出来た模造品じゃ。妾を困らせたくば、原物を持ってくるのじゃ」
「こんなハズでは! こんナはずでは! 我ガ錬成した殺生石ハ原物と同じ効果があるハズ! 扶桑で神と畏れられた魔獣すら封じるコトが出来たんダ! 出力ヲ上げれば、そんな余裕モ言えなくなるハズだッ!」
千蔭が叫ぶと同時に殺生石から漆黒が溢れ出す。
殺生石を見ていた瞳の奥がチリチリと痛む。たぶん、殺生石に一気に注ぎ込まれた魔力に反応したのだろう。
「こ、これ以上、御屋形様に狼藉を働くな! 切り捨てる!」
「一族ノ悲願を邪魔するナッ! ――〝悉ク跪ケ〟」
「っ! くっ!」
千蔭に斬り掛かった六花が、突然跪く。
六花は、瞬時に自分の身に起きた事を理解し、千蔭を睨みつける。
「な……に、を某に……した……」
「稀に現れル愚か者を御すための仕掛けダ。如何に才能に恵まれようガ、悲願の達成に必要なモノが分からぬヤツが十八代目に選ばれるとはナ」
千蔭は六花を見下ろして嘲笑する。
仕掛け、と千蔭は言った。
一族に属する者の動きをコントロールする暗示でも行っていたのだろう。
もしかすると春陽さんも近いことをされていたのかもしれない。
言うことを聞かない自分の体に対する怒りか、千蔭に対する怒りか、六花の目は血走り、噛み締めた唇からは血が滴る。カタナの柄に掛けた右手は小刻みに震え、カチカチと鍔が鳴る。
「下衆……が……」
「ほんとそう。救えない」
六花が憤怒の混じった言葉を吐き捨てると同時に、テトラが神速の踏み込みで、千蔭に向かって斬り込む。
「邪魔ヲするなッ!」
「王国で好き勝手しているのはそっち。本気の私を簡単に倒せると思わないことね」
耳のピアスを指で弾くテトラ。そして、彼女の瞳が淡く輝き始める。
テトラの〝神の恩恵〟――未来視の魔眼を解放した合図だ。
「お師様に! 無礼を働くなっ!」
「――ッ! 図に乗ルなッ!」
千蔭の技量はテトラよりも高い。
だがそれは、十全の状態という条件がある場合に限る。
彼は、右手で殺生石を持ち、発動させているため、自由に動けない。
特殊効果のありそうな黒刀だけど、左手一本で本気のテトラを圧倒できるはずがない。
千蔭の斬撃は鋭さを増しているが制限のため精細さを欠く。
対してテトラの動きはキレを増し、悉く千蔭の攻撃を回避し反撃を加えていく。
「邪魔ヲするなと言っているだろうッ! 見逃すつもりだったガ、後悔しろッ!」
千蔭が叫ぶと同時に黒刀を射出する。
弾丸のような速度で、一直線に飛翔する黒刀を、テトラは上半身を捻って躱す。
最小の動きで回避した彼女は、流れるような動きで黒刀に剣を振るう。
彼女の未来視の魔眼は、千蔭の攻撃の意図を読み取ったのだろう。
テトラの振るった剣は、的確に黒刀を斬り落とすはずだった。
しかし、剣は床を斬り裂くだけで、黒刀をすり抜ける。
まさか黒刀に付与された特殊効果か!
俺の視界は、勢いを衰えされることなく、黒刀が王国の結界の要――巨大な水晶に突き刺さる瞬間をハッキリと捉えていた。
「て、テトラっ! 結界が!」
「フははハッ! これで王国中ノ結界は消失すル!」
「チッ、しゃらくさい!」
千蔭の哄笑が周囲に響き渡るのだった。




