67.扶桑料理屋
「今日は助かったよ、テトラ」
「……なんのこと?」
学園から少し離れた歩道で、俺はテトラに感謝を口にしたが、彼女は不思議そうに首を傾げる。
どうやらクォートと六花の手合せに突入して、強制終了させたのは、テトラにとっては大したことではなかったようだ。
リズがお手上げ宣言したから、絶望感がハンパなかったから、テトラの登場はかなりありがたかったんだけどな。
俺は伝わらなかった感謝の気持ちに、少しガッカリしつつ、周囲を確認する。
まだ日暮れには余裕がある時間帯のためか、人通りは程よく多い。とはいえ、テトラと並んで歩いても邪魔になることはない。
「まーいいや。とりあえず、話は烏兎に着いてからにしょうか」
「うん。そうだね。それに急がないと席がなくなるよ。最近、烏兎はますます人気店になっているみたいだから」
「扶桑料理って珍しいし、春陽さんの腕もいいし、人気が出るのは当然の結果かもね」
「よし、リンタロー、急ぐよ」
「ちょ、ちょっと、待って!」
テトラが俺の手を掴み、駆け出そうとする。
肌から伝わる少しひんやりとした彼女の体温。
ただそれだけなのに、俺の心臓はバクバクと大きな音をたて始める。
狼狽する俺をよそに、彼女は満面の笑みを浮かべながら、駆け出す。
「ほらほら、リンタロー。走って走って」
「ま、待っ……」
息を弾ませるテトラ。陽光に彼女の金髪がキラキラと輝き、俺の心臓はますます鼓動が激しくなってしまう。
テトラに腕を引っ張られるが、足がうまく動かず、俺は躓きかけてしまう。
次の瞬間、ふわりと甘い香りと柔らかい感触に包まれるような錯覚に陥る。
「リンタロー、大丈夫?」
「――ッ!」
息のかかるような距離に心配そうなテトラの顔があった。
ただそれだけなのに、一気に顔が耳まで熱くなってしまう。
距離が近いことは何度かあったし、初めてのことじゃない。
なのに、慣れる気が全くしない。むしろ慣れることが出来るヤツなんているのか。
「だ、大丈夫、だから」
「なんか、リンタロー、顔が赤くない? 風邪でも引いた?」
「だ、大丈夫! ほんとに大丈夫たがら!」
俺のおでこに向かって伸びてきたテトラの右手を慌てて掴む。
そして、彼女と密着した体を引き剥がそうと体勢を立て直――せない。
「ちょ、て、テトラッ!」
俺は反射的に声をあげてしまう。
テトラから離れようとした俺の体を、彼女は俺の体に回した左腕に力を込めて引き寄せる。彼女の右手を掴んでいたはずの俺の左手は、いつの間にか絡め取られ、逆に彼女の右手に掴まれていた。
俺たちは社交ダンスでもしているような体勢――俺が女性ポジション――になりながら、テトラは眉根を寄せて、俺の顔を覗き込む。
「もー、本当に大丈夫なの? リンタロー、すぐ無茶するじゃない。イヤだよ、リンタローが無茶する姿を見るのは……」
「……ッ!」
テトラの潤んだ瞳に見つめられ、俺は呼吸すらまともに出来ない。
ただ瞬きもせず、テトラの瞳に魅入ってしまう。
雑踏の中にいたはずなのに、すべての音が遠退いていく。
「テトラ……」
「リンタロー」
俺の口から自然と言葉がこぼれた言葉に、テトラが俺の名前を返す。
頭の中が真っ白になってしまう。
俺は――
「おやおや、お二人さん。こんなところで見つめあって、みんながドギマギしている」
「ッ! あ、アリシアさん!」
「な、なんで、貴女がここに!」
突然、思考に割り込んできた聞きなれた声に、俺とテトラは弾かれたようにはなれる。
俺たちのすぐ横で、軽食屋兼バー『ワイルドベアーの巣穴』の看板娘であるアリシアさんがニヤニヤと笑いながら立っていた。
ヤバい。
ヤバすぎる。
なんでまだ明るい街中の歩道で、俺はテトラと見つめあっていたんだよ。
自分自身に訊ねたところで分かるはずはない。
唯一確実に分かるのは、アリシアさんがスゴく楽しそうな顔をして、俺とテトラを眺めているということくらいだ。
「いやー、テトラっちって意外と大胆だねー」
「な、な、な、何を――」
テトラは言い終わる前に、アリシアさんに正拳を打ち込む。彼女はニヤケ顔を崩さずに、軽やかなステップで一撃をかわす。
一瞬、悔しそうな顔をしたテトラだったが、大きく深呼吸をした後、身なりを整えて、アリシアさんに向き直る。
「……どうして、アリシアさんが、ここにいるのですか?」
「さすがはテトラっちだねー。切り替えが早い。おねーさんがここにいるのは、シノ様に頼まれたからだよ。ソーマくんもちょっとそばにきてくれるかなー」
俺は恐る恐る、テトラは警戒心むき出しで、アリシアさんに近づく。
俺たちが近くに来たことを確認すると、アリシアさんは、どこから拾ってきたのか黒い子猫を抱き上げる。
「あーあーあー、シノ様、聞こえますか? ソーマくんとテトラっちを見つけたよ」
『わざわざ確認せずとも視えておるのじゃ』
黒猫がシノさんの声で喋り始めた。
俺は驚きに目を見開くが、テトラはそれほど驚いた様子はなかった。
「お師様、また使い魔を変えたんですか?」
『ハズレじゃ。こやつは前々からこの辺りを徘徊させておる使い魔の一体じゃ。ま、誰かさんたちのお陰で注目の的じゃ。さくりと用件を伝えるとするかの』
子猫が「にゃ~」と猫らしく鳴くが、俺にはシノさんがニヤついている姿が見えた、気がした。
テトラを横目で見ると、外向けの顔――感情を表に出さない冷たい笑顔――になっていた。
かすかに口元が震えていたが、俺はあえて気づかなかったことにする。
『所用で工房を留守にするゆえ、夕餉は外で適当に済ませて欲しいのじゃ。あと妾の分は持ち帰りで頼むのじゃ』
「承知しました、お師様。お師様の分が必要ということは今日中にお帰りになるのですか?」
『その予定じゃ。金はガルムの娘に預けておる。釣りは不要じゃ』
子猫が「にゃにゃー」と鳴くと、アリシアさんの手からスルリと抜け出し、どこかに走って行ってしまう。
子猫の姿が建物の陰に消えると、アリシアさんが口を開く。
「というわけで、烏兎に出発だよ」
アリシアさんが姿を現してから、烏兎なんて単語を口にしてないはず。アリシアさんは、一体いつから俺たちを見ていたのだろうか。
疑問はわいたが、俺とテトラはアリシアさんの言葉に素直に従うことにした。




