恋猫
マンションの壁に切り取られた四角い海が、午後の陽光を受けてきらきらと輝いている。
駅前から海に向かって続くゆるい下り坂の途中にあるこの家は、二階から海が見える。最近は背の高いマンションが増えて視界は狭くなってしまったが、みゆきはこの景色が好きだ。幼い頃からこうして海をみつめてきた。
「さて、どうしたものか……」
みゆきはため息と一緒にそんな言葉を吐き出した。
やっぱり海は何も応えてはくれない。
みゆきはジャージの上にウィンドブレーカーを羽織ってキャップを目深に被り、階段を下りる。出汁のいい香りがした。白い猫が足にまつわり付いてくる。
「キコちゃん」
みゆきは猫の名を呼び、抱き上げる。台所に立っていた母の綾子が声をかけた。
「関西の人だろ、お鍋なんだけど、やっぱり薄味がいいかねえ」
綾子は背を向けたままだった。みゆきはキコのアタマをなでる。
「ねえ」
綾子は振り向く。みゆきの格好を見て驚いたように大きな声で「どうしたの、そんな格好をして」と言った。
「別に、ちょっとジョギングに行ってくる」
みゆきはキコを床へ置く。短い廊下を玄関に向かった。キコがそのまま付いてくる。
「ねえ、何時ころ見えるのよ、達也さん」
綾子が尋ねる。綾子の声は特徴がある。かすれ気味のハスキーヴォイスなのだ。かすれも近頃は年齢とともに磨きがかかっている。得意のカラオケで、十八番は『伊勢佐木町ブルース』、湯河原の青江三奈(註1)と言われているらしい。
みゆきは上がり框に腰を下ろしてシューズを履く。
立ち上がって、綾子を見る。めずらしく白い割烹着を着ている。よく見ると割烹着の下は着物だった。同窓会やみゆきの入学式卒業式、そういう大切な時に綾子はいつも和服だった。自分で着付けができることも、自慢のひとつだ。
(まずいなあ、気合入ってる)
そう思いつつ、「夕方って言ったでしょ」とぶっきらぼうに応える。
「夕方って、何時よ」
その問いに応えず、みゆきは玄関の引き戸に指を掛ける。キコが足元にいる。
「愛想がいいと思ったらそういうことね」
みゆきはキコを抱き上げて、その目をみつめた。金色の瞳がみゆきを見ている。
「外へ出ちゃだめよ、クルマが危ないからね」
キコを綾子に渡す。
「オス猫が迎えに来とるからねえ。もともと外で飼われとった猫だから、出たいんでしょ」
綾子はキコの眉間に鼻をくっつける。「キコちゃんも、恋の季節だねえ」と言った。キコは応えるように、短く鳴いた。
「当て付けか、まったく。とにかくその子を外に出さないでよ」
「はいはい」
引き戸を開けて外に出る。
「あ、帰りに魚清さんに寄ってお刺身もらってくれる。お代はもう済ませてあるから」
小さな庭を通って路地にでる。振り返ると、古い木造二階の建屋が見える。元々祖父母が住んでいた家だ。築なん年になるのかは、みゆきにも分からない。少なくとも今年三十三歳になるみゆきより、ずっと古い。
ウインドブレーカーのポケットからスマートフォンを取り出す。メールをチェックしたが、佐々木からの返信はなかった。みゆきはポケットにスマートフォンを仕舞う。大通りに出る。ゆるい坂の歩道をゆっくりと走り出した。
冷たい空気が頬を切る。すぐに駅前のロータリーに出る。JRの湯河原駅。この町に来る人も出て行く人も、たいていはこの駅を利用する。みゆきも地元の小、中、高校を卒業して、この駅から東京へ向かった。東京の短大を出て、企業に就職をして、そして恋をして結婚をした。しかしわずか一年で離婚。結局この駅へ戻って、以来十年になる。
駅を過ぎてそのままバス通りを走る。お店がまばらに並ぶ商店街が続いている。みゆきが小さな子どもだった頃、このあたりの商店街は今よりもっと人通りも多く、賑やかだった記憶があった。駅から遠ざかるにつれて、シャッターが降りたままになっているお店も目に付いた。
東海道線と続いて新幹線のガードをくぐる。右手にこんもりと茂る木立が見える。五所神社だ。左側に御神木の大楠を見て、みゆきはさらに走る。
佐々木達也とは去年の春に知り合った。みゆきが勤務する介護老人福祉施設が導入した新しい管理システムの開発会社のシステム・エンジニアだった。みゆきが施設側の担当者となり、導入前に何度か打合せを行い操作のレクチャーを受けた。達也はシステム稼動時には二日にわたって運用の立会い指導をした。新システムへの切り替えは特に問題もなく順調に進み、施設を運営する法人の幹部からもねぎらいの言葉をいただいた。
仕事がうまく行った高揚感もあって、達也が東京へ戻る夜、どちらからともなく「お祝いをしよう」ということになり、ふたりだけで食事をした。
駅前から少し離れた、お魚のおいしい居酒屋だった。お店はもちろんみゆきが選んだ。
達也は滋賀県の出身だった。神戸の国立大学の理工学部を卒業してまだ二年目の二十四歳。システム・エンジニアとしてはまだ見習いの身だったが、高齢者や障がい者福祉に役立つシステム開発に携わって行きたいと熱く語ってくれた。高齢者福祉に携わるみゆきにとってもともと関心のある話題、話しが弾んだ。
離婚後湯河原へ戻って、みゆきが最初に勤務したのは病院だった。通信講座で勉強して医療事務の資格を取った。しかし医療は当然のことながら医師、看護師などと身分の区分が厳格で、医療事務から上へ進むことが非常に難しい。みゆきはいろいろと調査した上で介護施設へ転職した。介護ならば働きながら資格を取って、上へ進める。介護ヘルパー2級から始めて今は介護福祉士の資格を取得している。来年はいよいよケアマネージャーの受験資格を得ることができる。ケアマネージャーは介護保険制度において最も重要な資格で、医師が治療計画を立てるように、要介護者の介護プランの立案ができる。
子どものころからまず計画を立てて、まじめにコツコツやるのが身上のみゆきだった。
ふたりだけのお祝い会は楽しかった。瞬く間に終電の時間となってしまった。
東京の吉祥寺まで帰る達也を、みゆきはホームで見送った。
「また、会ってくれる?」
みゆきにとって、それは達也の意外なひと言だった。
みゆきは一瞬だけ達也をみつめ、そしてすぐに笑ってみせた。
「またまた、社交辞令と受け取っとくわよ」
発車を知らせる音楽が鳴る。
「違うんだ、そんなんじゃない」
確かに達也はそう言った。
だが、みゆきは応えなかった。
八歳も年上でバツイチ。簡単に踏み出せる恋ではなかった。
しかし、翌日達也がくれたメールをきっかけにやりとりを重ねるうちに、ふたりの距離は次第に近づいて行った。休日に何度か新宿や渋谷で映画を見たり食事をするようになった。そして去年9月、みゆきの誕生日を達也のマンションの部屋でふたりだけで過ごした。
以来何回かみゆきは達也の部屋に泊まった。
しかし、ふたりには微妙な距離感があった。付き合っているかと聞かれれば、付き合っていると思う。しかし、その先へ進む気配がなかった。
みゆきは母に心配させるというか、過度な期待を抱かせるのが嫌で、達也のことは気取られないようにひた隠しにしてきた。
発覚のきっかけは去年の大晦日。男がいそうなことは薄々感じていたらしい綾子は、酔いに任せてみゆきに正面切って訊いてきたのだ。
みゆきは達也のことを話した。施設のシステム入れ替えで知り合ったこと、国立大学を出て、大きな会社に勤めていることなども、つい話してしまった。
「家庭もちの男と付き合ってると思ってたわよ」
そう言って綾子は、安堵したように深く息を吐いた。
誤解が解けて、そこで終わればよかったのだが、それで終わらないのが綾子の悪い癖だった。
「一度くらい連れて来なさいよ」「六十までには孫のひとりも抱かせてちょうだいよ」と、 そんなことをぶつぶつと言いつつ紅白歌合戦を見ている。
「松田聖子はいくつの歳でさやか(註2)を産んだっけ」とか言うものだから、ついみゆきも言い返してしまう。
「わかったわよ、連れて来るわよ」
「いつ?」
「……達也さんの予定も聞いてみないと」
「早い方がいいから、年明け早々、一月中に」
「わかったわよ」
お互いいったん言い出したら引けない性格。こうして一月最後の土曜日の夕方に、達也がやって来ることが決まってしまった。
――しかし、そううまくいかない事情があった。
去年のクリスマス・イブ、ふたりで迎える初めてのイブになるはずだったが、達也の仕事に都合でキャンセルになった。それから年末に一度、横浜で食事をしたが、何となくぎこちない印象が残った。
それからメールは何度かやりとりしたものの、今年になってから会ってはいない。
このまま自然消滅か、とも思いつつ、綾子からは「今週末は?」と、せっつかれる。
思い切ってメールを出したのが、今週はじめ。
『……今度の土曜日、ウチに来ませんか?』
今のところ返事はなかった。
左手に川が見える。千歳川だ。ここ湯河原は神奈川県の西の端、この川向こうはもう静岡県になる。そしてこのあたりから先が湯河原の温泉郷になる。老舗の旅館が並んでいる。
バス亭をこえると広い駐車場がある。湯河原温泉観光会館だ。みゆきは、ほとんど歩くようにして駐車場に入る。奥に小さなトンネルがある。くぐると正面に小さな滝があった。清涼な水の香りがする。みゆきは階段状になった山道を、今度はゆっくり登った。
なん組かの家族連れとすれ違う。やがて、幾重にも重なった赤い鳥居が見えてきた。
鳥居は小さい。みゆきは軽くかがんでくぐる。正面にこれも小さな祠があった。
みゆきはジャージのポケットから用意の小銭を出して、屋根に載せる。この祠には賽銭箱がなかった。軽く柏手を打って、みゆきは目を閉じて静かにお祈りをした。
祠の隣には狸の石像がある。ここは狸福神社。みゆきの最近のお気に入りの場所だった。
みゆきは目を開ける。後からやってきた若い女性のふたり組が、狸福神社の由緒を記した白い看板を眺めている。
由緒によれば、猟師に追われて矢傷を負った雄の狸がこの地の温泉で傷を癒していると、そこへ焼けどを負った雌狸がやはり傷を癒そうと現れた。二匹の狸は温泉に通ううちに恋仲になり、ほどなく夫婦となったという。二匹はこの温泉の恩を忘れることなく、人に化けては湯河原温泉のすばらしさを説いて廻ったという。
みゆきはふたたび身をかがめて、鳥居をくぐる。振り返ると、ふたり組の女性が、頭を下げて何やら真剣は感じでお祈りをしている後ろ姿が見えた。
みゆきは微笑む。
夫婦となった狸の由緒から、この狸福神社は縁結びの神社、パワースポットとして旅行雑誌やインターネット上に紹介されている。近ごろは良縁を望む若い女性の姿が、見られるようになった。
みゆきもこの狸福神社が気に入っていた。小さくて可愛らしい。何やら大げさではないところが、好きだった。
湯河原出身のみゆきは、実はこの神社を知らなかった。
教えてくれたのは、意外なことに自宅近くの中華料理屋のおばさんだった。
湯河原の新名物、B級グルメメニューの坦々やきそば(註3)を食べた時、お店のおばさんが言った。
「狸福神社は、ほんとにパワースポットだから、行ってみらー」
坦々やきそばと狸がどうして結びつくのかもよく分からなかったが、今まで知らなかった地元のパワースポットに興味がわいた。
それから何度も訪れ、最近では自宅から往復で五キロほどになるので週一度のジョギングがてらお参りをしている。
坦々やきそばとの関連は、
♪ たんたんたぬきの……
の歌からだということも、後で知った。
スマートフォンが鳴る。メール着信だった。
(お、早速ご利益か)
みゆきは急いでポケットのスマートフォンを取り出す。操作する指ももどかしく、新着メールを確認する。が、メールは綾子からだった。
(何だ……)
と落胆するが、とりあえずメールを開く。
『亀がタマゴを産みました!どうしよう』
「――ったく、知るか」
スマートフォンをスリープにする。ポケットに仕舞って、階段を降りた。観光会館の前を通ってもと来た道を走り出した。
(へー、あの亀、メスだったんだ)
みゆきは、何となく亀に親近感を感じた。亀はおととし、祖母の葬式に来たみゆきの従弟の子、母綾子の兄の孫の大輝を退屈しのぎにたまたま開催していた五所神社の夏祭りに連れて行った時に、夜店でみゆきが掬ったのだった。従弟の妻、つまり子どもの母が亀というか爬虫類が嫌いで、自宅に持って帰れなかった。「ゼッタイ持って帰って飼うんだ。それまで預かっといて!」という大輝に、「じゃあ、それまでお姉ちゃんが預かっとくからね」と言ったものの、案の定大輝からはその後何の音沙汰もなかった。
以来亀はずっと、あの家の一階のトイレの脇の水槽に暮らしている。
(母、そして自分、ネコのキコ、亀まで……女ばかりのあの家で、みんなひたすら男が来るのをこれからもずっと待ち続けるのだろうか? 孵るあてのない卵を産みながら)
母は、結婚したことのない人だった。
そう言えば、みゆきは綾子にきちんと説明していないことがあった。
それは年の差だ。
「で、いくつなのさ達也さん」と、母親としては当然年齢を聞いてくる。
「八つ違い」
「ふーん、まあ大人だねえ、初婚?」
みゆきはうなずいた。それで結局、八つ年下だとは、つい言いそびれてしまったのだ。
湯河原の駅へ戻る。真冬の夕暮れは早い。海から昇って山に落ちる湯河原の夕暮れは特に早い。午後三時を回ったくらいだが、気温が下がってきた感じがした。みゆきは駅前の長い階段を下りる。駅前の通りの海側は崖のようになって、急な斜面になっている。下りきると平坦になっていて、そのまま海まで続いている。
魚屋の魚清は、海の方へ少し向かった路地にある。ここまでは観光客はあまり来ず、主に地元の人たちが魚を買う店だった。
魚清の前にはところ狭しと干物が干してある。この店の干物はみゆきも大好物だった。
店番はおらず、みゆきは声を掛けた。
「すみませーん」
三度目でようやく男が顔を出した。魚清の主人だった。もう七十は超えているだろう。このあたりのお店は、年寄りが多い。
「おーみゆきちゃん、なんか大事なお客さんが来るんだって」
「――えっ」
みゆきは驚いて、それ以上の言葉が出なかった。
魚清の主人が背中を向けて、大きな冷蔵庫の扉を開けている。すぐに大皿を持って来た。
みゆきは大皿を受け取る。ずしりと重い。ラップ越しに中が見える。
ヒラメにアジ、カンパチ、マグロ、タイに貝やエビもたっぷりあって豪華だった。
干物に入ったビニール袋を渡された。両手がふさがっているので、それを指にひっかける。
「あかイカの刺身をサービスしといたから」
魚清の主人は金歯をのぞかせて、笑いながら言った。
「今夜はうちのうまい刺身を食べて、明日の朝はうちの干物を食えば、絶対に大丈夫だ。もう逃げられねーら」
ぱん、とみゆきの背中を叩いて、魚清の主人はげらげら笑った。
みゆきはようやくのことで作り笑いを浮かべて、魚清を後にした。
「――まったく、お母さんはどういうつもりなのよ。魚清さんなんかに言ったら、ご近所の人全員に言ってるのと同じことじゃないの」
大皿を両手で持ち、干物の袋を指にひっかけて、ジャージ姿のみゆきはずんずんと歩く。綾子に文句を言わねば気がすまなかった。
――と、中華料理店の前で声を掛けられた。
「あら、みゆきちゃん」
見やると、玄関あたりを掃除していたのか、おばさんがみゆきを見ている。坦々やきそばの幟旗が幾つも、まるで戦国時代の戦場のように並んでいる。
「聞いたわ、魚清さんに。ご利益あったらー、狸福神社」
「――!」
みゆきに狸福神社のことを教えたのは、このおばさんだった。
「は、はい、有難うございます」
適当に応えて、みゆきはそそくさとその店を後にした。
短い坂道を登って、みゆきは自宅に戻った。玄関の引き戸を開けると、大きな声で怒鳴った。
「――お母さん、どういうつもりよ! 何で魚清さんに達也さんのことなんか言うのよ」
台所から綾子とキコが顔を覗かせる。
ふたり(?)とも目をまん丸にして、みゆきを見ていた。
「ごめんなさいよー、つい言ってしまったのよ。お祝い事ですかなんて聞かれたものだから、いえね、みゆきにお客様なんですよって」
「大事なお客様って言ったんでしょう」
「言ったかもねえ」
「そんな言い方すれば、誰でも勘ぐるでしょう」
綾子は黙ってしまう。
みゆきはシャワーを浴びて、着替えをして軽く化粧をした。グレイのスカートに白いブラウスを合わせている。コタツに座って、ネコのキコを膝に乗せた。
「まあ、来ればそれでいいじゃないの、達也さんが」
綾子は続けて言う。
「だって来るんでしょう達也さんは」
今度はみゆきが黙ってしまう。
「来ないの?」
みゆきはムッとして反駁する。
「来るわよ」
沈黙が流れる。電車が駅に到着する音がする。
この家は駅からも近い。夜は特に電車が入ると音で分かる。
「今って、夕方?」
もう外は暗くなっていた。みゆきは壁掛けの時計を見る。もうすぐ五時になる。
みゆきはうなずく。うなずくしか、なかった。
綾子はため息をついた。リモコンを取って、テレビをつける。バラエティー番組の、今の雰囲気に場違いな感じの笑い声が響いた。
「お腹、すいたねえ。ちょっと食べる?」
みゆきは首を振る。
「ねえ、ほんとのこと言いなさいよ。あんたたち別れちゃったんじゃないの?」
「なんてこと言うの、違うわよ」
「……じゃあ、付き合ってるって思ってるのは、あんたの方だけで、実は向こうはそう思ってなかったとか。想像妊娠ならぬ、想像交際」
「そんなことない、もうやめてよ」
綾子はチャンネルを何度か代える。歌番組らしいところで止める。中年なのに妙に若く見える男性歌手が歌っている。綾子は大のファンだ。「やっぱりいいねえ、福山くん(註4)は。やっぱり男は四十過ぎないとね」と、独り言のように言った。
みゆきはキコのアゴの下を指で撫でている。キコはごろごろとノドを鳴らしている。
ふと、キコが気持ち良さそうに閉じていた目を開けた。
まん丸の金色の目が光っている。耳を澄ますと、家の外から別のネコの鳴き声が聞こえる。
「彼が来たか?」
その言葉に綾子が反応してしまう。
「えっ、達也さん来た?」
「違うわよ、キコちゃんの彼」
「なぁーんだ……」
このネコは一昨年の暮れに突然やってきた。ある日気がついたら家の中にいて、追い出してもまた入ってきた。仕方なく食べ物をあげていると、そのまま居ついてしまったのだ。子猫ではなかったが、まだ若いネコだった。今はもう娘ざかりだろうか。
その年の夏に祖母が亡くなって、亀が来てネコが来た。亀はともかく、このネコは何となく祖母と無関係には思えなかった。
祖母は礼儀作法にきびしい人だった。みゆきが物心ついた時分はもう定年で引退していいたが、地元で小学校の教諭を長年務めた。キコにはどことなく凛とした気品みたいなものがあって、みゆきは祖母を連想することがあった。
(そういえば亀のタマゴ!)
「お母さん、タマゴどうしたの、亀のタマゴ」
「ああ、あそこ」
綾子は台所のテーブルをアゴで示した。
みゆきはキコを膝から下ろして台所へ立った。ひんやりした空気を感じる。ダイニングテーブルがあって、鍋の具材やそのほかの様々な料理が並んでいる。さすがに刺身は冷蔵庫に入れられているようだった。
タマゴを探したが分からない。
「どこにあるの?」
「えー、あるでしょ、そこに」
「ないよう」
「もう、ちゃんと探したの?」
綾子が文句を言いながら立ってくる。
「ほら、そこにあるじゃない」
指で示す先には、確かに白いタマゴらしきものがお弁当にちょっとした副菜を載せるのに使うアルミホイルのケースに入れられていた。
「嫌だお母さん、ウズラのゆで卵かと思ってたわよ」
白いやや細長いタマゴは大きさといい形といい、ウズラ卵の水煮によく似ていた。
「どうしようか?」
綾子が真顔で聞いてくる。
「どうするったって、どうしようもないでしょうよ」
「暖めてみる?」
「何言ってるのよ、暖めたって孵るわけないでしょう。オスがいないのに」
「あは、そりゃあそうだわ」
みゆきは亀のタマゴを手に取った。
「どうするの?」
「庭に埋めてくる」
そうだね、それがいいわ、と綾子はうなずいた。
ゴミと一緒に捨てるのは忍びない。土に還してあげるのが理にかなっているように思えた。
みゆきは玄関に向かう。
キコが先にいて、爪を引っ掛けて引き戸を開けようとしていた。みゆきの顔を見上げて、「みゃー」と鳴いた。
みゆきはキコを抱き上げる。後から付いてきた母に渡した。
「出してやりなよ。彼が迎えに来てるんだろ」
キコが鳴いている。
みゆきは引き戸のロックをはずして外へ出る。
寒気が身に沁みる。母が使っていた園芸用の小さなスコップを見つけると、それで庭の片隅に小さな穴を掘った。白いタマゴを埋めると、土を掛けた。
居間に戻る。
キコが母の隣に尻尾を前脚に揃えて行儀よく座っていた。
金色の瞳がみゆきを見つめる。
母がコタツに入ってみかんを剥いていた。
みゆきもコタツに入る。
「キコちゃん、おいで」
キコは近づいて来ない。
みゆきは仕方なく、みかんを取って剥き始める。
「おまえ、何か意地になってないかい」
「だって、クルマが危ないもの」
「そうじゃなくってさあ」
みかんを口に含む。甘い果汁が広がる。
「だいたい、ちゃんと連絡はしたんだろうね、今日のこと」
みゆきはうなずく。
「いつ、どうやって」
「月曜日にメールした」
「返事は?」
みゆきは答えない。みかんを食べ続ける。
綾子がみかんを取り上げる。強い口調で言った。
「返事はあったの?」
みゆきはうつむいて、それから首を横に振った。
「返事ないの? じゃあ来ないじゃない。どうするのよ、この料理、午前中からずっと作ってたんだから、ビールだって昨日から冷やしてさあ」
「まだ分からないじゃない、新しいプロジェクトのメンバーに選ばれて、ものすごく忙しいって言ってたし」
年末に会った時にそう言っていた。訪問介護向けに、携帯端末を使ったシステムの企画に携わっていて、連日残業続きだと。
「いっくら忙しくたって、メールや電話する時間くらいはあるだろうに。だいたい四十も過ぎてるんだろ、そのくらいの分別はある――」
「――二十五歳」
みゆきは遮って言う。
綾子は、口をあんぐりと開けたまま、みゆきを見ている。
「達也さんは二十五歳なの」
「あんた、八つ違いって、八つ年下だったの!」
みゆきはうなずく。
「なんでそんな大事はことをちゃんと言わないの」
「だって、お母さんが勝手に年上だって決め付けたんじゃないのさ」
「そりゃあ、八つ違いだって聞けば、普通年上だと思うでしょうよ」
綾子は深いため息をついた。
「二十五だって同じだよ。気持ちがあれば電話かメールくらいするでしょ。だいたい冷静になって考えてごらんよ。そんな国立大学を出て、大手の会社に勤めてる人が、言っちゃ悪いが八つも年上の、しかもバツイチの女を選ぶかい? 万がいち選んだとしても、向こうの親だって黙っちゃいないよ。反対するに決まってる」
「――もうやめて」
みゆきは両手で耳を覆う。
(――そんなことはわかってる、わかってるよ)
涙がこぼれてきた。達也の前ではどんなことがあっても見せないと決めていた涙が、あふれてきた。
「……ごめん、悪かったよ、言いすぎた、ごめんなさい」
綾子はみゆきの肩を抱く。
みゆきは綾子の腕を押し戻す。涙を拭いて、顔を上げた。
「決めた。あたしは、達也さんを待つ」
綾子はみゆきの顔を見つめる。「だからさあ、今朝からずっと待ってるじゃない」と独り言にように言った。
「化粧直したら、タヌキみたいだよ」
みゆきはうなずいて、居間の隅に置いてあった通勤用のバックから化粧道具を取り出すと、化粧を直し始める。小さな鏡を覗くと、アイラインが滲んで確かにタヌキのようなクマができている。狸福神社のタヌキを思い出して、みゆきは少しおかしかった。
綾子はテレビのチャンネルをくるくると変える。報道番組が多い。
「待つにしてもさあ、時間を決めようよ」
みゆきは壁掛け時計を見る。午後六時を回っている。
「東京から来るんだったら、新幹線使ったって一時間ちょっとはかかるからさ、電車に乗ったらメールなりで連絡よこすでしょうよ。まあ七時だね、七時までに何も連絡なかったら、達也さんは今日は来ない」
みゆきは仕方なしにうなずいた。
本当は明日の朝まででも待っていたい気分だった。
「――そうだ」
綾子は何か思いついたように、両手を打った。
「七時過ぎたらさあ、この料理持って、うわチャンに行こう!」
「うわチャン?」
「知らんの、カラオケスナック・うわさのチャンネルよ」
「ああ、あの店、たしか十年くらい前に店名変わって、スナック・エジンバラじゃなかったっけ。まあ、どっちみち最低のネーミングだけど」
「あの店はうわさのチャンネル(註5)よ。昔しさあの店名を聞きつけて和田アキ子とデストロイヤー(註6)がお忍びで来たんだから、ほんとだよ」
「デストロイヤー、誰それ?」
「知らんの? 白覆面の魔王(註7)よ、四の字固めでさあ、馬場と死闘をたたかったのよ」
綾子は空手チョップの真似をしてみせる。
「ぜんぜん知らんわ」
「まあいいわ。うわチャンのみんなにあたしの精魂こめた料理を振舞ってさあ、今日はパッと行こうよ」
「……」
「パァーっとね」
結局、七時になっても達也からの連絡はなかった。みゆきが「あと三十分だけ」と泣きついて、準備もあったので八時前にみゆきと綾子は家を出た。
キコが玄関に付いてくる。
「にゃー」と何度も鳴いている。
「行かしてやりなよ。この子だって女だ」
みゆきはうなずいた。
引き戸を開けて、キコを外へ出す。キコは一度だけ振り向いてふたりを見ると、すぐに駆け出して暗闇に紛れてしまった。
「クルマに気をつけるんだよ」
家の前の坂道を降りて、五分ばかり歩くと看板が見える。『カラオケスナック・エジンバラ』
「やっぱりエジンバラじゃない」
みゆきはそう言ってみたが、綾子は応えない。木製の重厚な感じのドアを押して、ふたりは店内へ入った。
カウンターとテーブル席が三つ四つほどの小さなお店だ。奥にカラオケセットと、ステージがある。先客が三人ほどいる。みんな男性で、何とひとりは魚清の主人だった。
すぐに気付いて、声を掛けてくる。
「あれ、みゆきちゃん、お客さんは一緒じゃないらー、どうした?」
(――最悪だ……)
みゆきは、つくり笑いでごまかす。
事前に持ち込みの連絡をしていたので、お店の方で小皿を用意しておいてくれた。綾子が手馴れた感じでカウンターに重箱の料理を並べている。
「おい魚清、うるさい。今日は黙ってあたしの料理を食べて、飲みな」
綾子に言われ、魚清の主人は黙ってしまう。
「ちょっと借りるね」
綾子はカウンターの内側へ入り、何やらテキパキと動き始める。鍋の準備をしている。
みゆきはカウンターに座り、ビールを飲んでいる。元々お酒は強い方ではなく、すぐ顔が赤くなってしまう。でも今夜ばかりは、少し飲みたい気分だった。一応、カウンターにはスマートフォンを置いてある。
色白のふくよかな感じのおばさんが、確かこの店のママさんだった。ママさんも含めて、この店の年齢層は高い。常連の中では、たぶん綾子が最年少レベルらしい。
ママさんが、持参した料理を取り分けてくれる。刺身や胡麻和えなどがみゆきの前に並ぶ。
「あれ、この刺身、おれがおろしたやつじゃないか?」
咳払いした綾子に睨まれて、魚清の主人は首をすくめた。
すぐに出汁のいい香りが漂ってきた。
鍋は小鉢に取り分けられる。綾子がカウンターの内側から小鉢を差し出した。まず出汁をひと口含む。昆布とカツオ、そして鶏肉から出たうま味が複雑に絡みあった出汁は本当においしい。鶏肉のつみれ鍋だった。
綾子は調理師で管理栄養士だった。
もう長いこと町の小学校の給食センターで働いている。
元々パート職員だったのだが、途中で二年間専門学校に通い栄養士の資格を取得する。それから復職して実務経験を積み、調理師と管理栄養士の資格を取った。正職員となって、今に至っている。
最初のパート職員を始めた時に、もうみゆきは産まれていた。
みゆきも通っていた町で唯一の県立高校(今は廃校になってしまったが)の頃から、綾子はこの時代に流行った『竹の子族』(註8)と言われるダンスチームに入っていて、毎週の日曜日には二時間をかけて湯河原から原宿まで通っていたらしい。高校卒業後、小田原の農協へ就職するが、竹の子族への熱は収まらず、それどころか中心メンバーのひとりと深い仲になり、農協も辞めてしまい駆け落ち同然にその男と東京で同棲を始めてしまった。やがて、その男とは破局して、綾子は大きなお腹を抱えて湯河原へ戻った。
その男は、実はその後芸能界にスカウトされていて、どうやら芸能界でデビューするためには、綾子の存在が邪魔だったようだ。
そんな話しを、みゆきは祖母や母の兄の叔父に、そして当の母から断片的に聞いている。
父親のいない子どもの寂しさは嫌というほど分かっていたので、自分はきちんとした家庭を作り、子どもを育てようと心ひそかに決めていた。
短大を出て、大手建設会社へ就職。そこで出会った先輩は有名大学卒のエリート社員だった。二年ほどの交際期間を経て、結婚した。交際期間中は分からなかったが、彼には暴力癖があった。要するにDVだった。
痣だらけになって湯河原へ帰ったみゆきを、綾子はもう夫のもとへ戻さなかった。
離婚はすぐ成立した。
湯河原に戻ってからのみゆきは、綾子をお手本にしたのかも知れない。
この湯河原から出て行きたくてしょうがなくて、出て行った挙句に男選びに失敗して湯河原に戻り、そこから地に足を付けて必死に生きてきた。
まったく、似た者親子だと、みゆきは思う。
「さあ、歌うよ」
綾子がステージに立っている。魚清の主人が声を上げた。
「いよっ、待ってました。湯河原の青江三奈!」
曲はハスキーヴォイスの母の十八番、『伊勢佐木町ブルース』の替え歌だ。
♪ あなた知ってる~ 湯の町湯河原~
浜の並木に~ 潮風吹けば~
花散る夜を~ 惜しむように~
駅前通りに 灯がともる~
恋と情けの ドゥ ドゥビ ドゥビ
ドゥビ ドゥビ ドゥバ~ 灯がともる~
綾子が歌い終わると、お店は拍手に包まれる。
地元でしか受けない宴会芸だ。
「みゆきちゃん、携帯、鳴っとったらー」
ママさんが教えてくれる。
あわててカウンターに載せてあったスマートフォンを手にする。
メールをチェックする。
(――発信者名は佐々木達也)
メールタイトルは、『Re:湯河原へ来ませんか?』
みゆきの送信に対する返信だった。本文を開く。
『……ごめん。』
これだけだった。
(――これじゃ、何もわからん)
何に対しての『ごめん』なのか。
今日来られなかったことへ、なのか。
やっぱり別れたいということなのか。
「どうしたん?」
綾子が隣の席へ戻る。
「達也さんからメール来た」
「――えっ!」
メールを開いたまま、みゆきはスマートフォンを綾子に渡す。
さっと読んで、「これじゃあ何も分からんねえ」と言った。
「まあ、あれこれ考えても仕方ない。今夜はパーッと行こう、パーッと」
そう言って綾子はみゆきの肩を叩いた。
威勢のいい音楽が聞こえてくる。
「あたしが原宿のホコ天で踊ってた曲だよ~」
綾子が立ち上がる。
ステージへ向かう。
♪ ウッ! ハッ!
ウッ! ハッ!
ウッ!ハッ! ウッ!ハッ!
ウッ!ハッ! ウッ!ハッ!
何だかよく分からないけど、元気が出そうな曲だった。
みゆきはグラスにビールを注いで、ぐっと飲み干した。
立ち上がった。
綾子はステージで和服のまま踊っている。なんだかよく分からない踊りだった。
♪ ジン ジン ジンギスカン~
ヘイ ブラザー ホー ブラザー
ナイス ブラザー ゴー ブラザー
ジン ジン ジンギスカン~
ヘイ ライダー ホー ライダー
ナイス ライダー ゴー ライダー
若者ならワッハッハッハ
チャンスだ今 ワッハッハッハ
一緒に手をかざせ
「よし、あたしも踊るぞ!」
みゆきもステージに向かって歩きだした。
――翌朝。
みゆきはネコの鳴く声で目を覚ました。
ふとんの中で大きく伸びをして、はっとする。
「――キコちゃん!」
あわてて起き上がる。階段を駆け下りて玄関に向かう。
曇りガラスの引き戸の向こうに、小さな白い影が写っている。
引き戸のロックを外して開ける。白いネコが飛び込んで来た。キコはみゆきを通り越して台所の方へ向かう。追って行くと、餌入れに顔を入れてキャットフードを食べている。
「お腹すいたんだねえ」
みゆきは水入れの水を代え、フードを足した。
綾子はまだ寝ているようだった。
みゆきは階段を上がって二階へ行く。枕元に置いていたスマートフォンを手に取った。達也からメールの追信はなかった。見直してみたけれど、あのメールは見間違いではなかった。
『……ごめん。』
(何と返信したらいいのだろう?)
いい考えはまったく浮かばなかった。
立ち上がって、窓を開けた。
冷たい風が吹き込んでくる。
マンションに切り取られた四角い海が見える。
晴天だった。海は朝陽を受けてきらきらと輝いている。
みゆきはその海を、本当に美しいと思った。
達也とのことがどうなるにせよ、この先どんな運命が待っていてどこで暮らすことになっても、きっと自分はこの街をずっと大好きでいるに違いない。
そんなことを思った。
――と、その時だった。
スマートフォンの着信音が鳴った。
画面を見る。電話の着信、発信者は佐々木達也。
その名前を、みゆきは見つめる。
大きく息を吸った。とりあえず勇気を出そうと思った。
「――はい、みゆきです」
海に浮かんだきらめきを見つめながら、みゆきはそう応えた。
※註1 青江三奈 …… 歌手、1941年~2000年、ハスキーヴォイスで著名な昭和を代表する女性歌手のひとり。「伊勢佐木町ブルース」の他に「長崎ブルース」など。
※註2 さやか …… 神田沙也加、歌手、女優。1986年~、松田聖子の娘。ちなみに聖子24歳の時に出生。
※註3 坦々やきそば …… 湯河原のご当地B級グルメ。坦々麺の辛味をやきそばにアレンジ。湯河原の24の店舗で食べられる。柑橘系と温泉玉子系の二系統あり。辛さの調節が可能。
※註4 福山くん …… 福山雅治、歌手、俳優。1969年~。中年女性にファンが多い。中年女性ファンはなぜか「福山くん」と呼ぶ。
※註5 うわさのチャンネル …… 娯楽テレビ番組、正式には「金曜10時!うわさのチャンネル!!」1973年~1979年、日本テレビ系列。出演者は、和田アキ子、ザ・デストロイヤー、せんだみつお他。
※註6 デストロイヤー …… ザ・デストロイヤー、プロレスラー、米国人。1930年~、覆面レスラーとして、足四の字固めを武器に力道山やジャイアント馬場と戦った。
※註7 白覆面の魔王 …… ザ・デストロイヤーの異名。白い覆面を被っていたことに由来。当時のプロレスラーはユニークな異名を持っていた。著名なところでは、人間風車=ビル・ロビンソン、黒い呪術士=アブドラ・ザ・ブッチャーなど。
※註8 竹の子族 …… 1979年頃~1980年代前半迄。最盛期は1980年。原宿、代々木公園の歩行者天国でチームと呼ばれるグループごとに主に原色をあしらったユニークな衣装で踊る風俗、または参加者の総称。ラジカセから流す曲は、「アラベスク」「ヴィレッジ・ピープル」「ジンギスカン」等の80年代キャンディーポップスと言われる曲目が主流だった。
(了)