第1話 第3章 お嬢様の秘密5
ジャックはすぐに教師を抱き起こしにかかった。それほど強く抱きついていたわけではなくすんなりと離れた女教師に、手に持っていた何かを口元に持っていき、含ませた。
「遅くなり、申し訳ありません。メルヴィル様」
「いや、いい。先生を保健室に連れて行け」
「かしこまりました。マコト様、こちらはお願いできますか」
水浸しになった教室と、端にかけてある掃除道具を目で指し示すジャック。
「わかりました。掃除はしておきます」
「お願いします。では」
そのままぐったりとする教師を抱えて、ジャックは出て行ってしまった。
「えっと……お着替え、は」
「いや、いい。少し裾が濡れているだけだ」
少し、とはいうものの、メルヴィルの華奢な太股にべしゃりと纏わり付いているスカートの裾とタイツは寒そうだ。気温は低くは無いが、風邪をひきそうである。
「じゃ、じゃあこっちに腰掛けてください」
「……?構わないが」
濡れていない椅子を持ってきて座らせると、自分の着ていたスーツの上着を膝にかける。これで少しはマシだろう。
「こんなもので申し訳ありませんが、少しは暖かいでしょうか」
「ああ……。ありがとう」
前触れなく上着を脱ぎだしたまことを不思議そうに見つめていたが、それがそのまま自分の膝にかかったところを見て、ぽかんとした様子で礼を言った。
「君は、寒くないのか」
「いや、走ってきたから少し暑いくらいで。あ、も、もしかして汗臭かったですか!?」
「……ぷっ。いや、それは問題ない」
汚いものをかけてしまったかも!と急に焦りだしたまことを見て思わず噴出したメルヴィルは、そのままクスクスと笑っている。今日は、笑われてばっかりだ――。
「では、ぱぱっと掃除してしまいますね!」
むっとする気持ちを抑えつつ、かけてあるふきんを手にとって床に向かう。テーブルには器があるし、何か理科の実験みたいなものをしていて、こぼしてしまったのだろうか。それにしては、器に入りきるとは思えない量の水がこぼれているみたいだけど……。水をふき取ってはバケツにしぼる作業を繰り返すまことを見て、メルヴィルがぽつりと呟いた。
「マコトは、魔法は使えないのか」
「はい。元いたところには、そもそも魔法なんてありませんでしたし」
「魔法が使えれば、そんな風にいちいち布でふき取ったりしなくても良くなるぞ?」
「便利そうですけど、使えるとは思えません」
きゅ、とぞうきんを絞って水滴を落としながら話すまことは、テキパキと動いてすぐに床とテーブルはきれいになった。それ以外どうしたらいいかもわからないまことは、少し考えて、自分も椅子を持ってきてメルヴィルの隣に座った。
「メルヴィル様は、お水をきれいにする魔法、使えるんですか」
「……いや、……」
「そうですか。難しい魔法なんでしょうか?」
「そんなに、高度なものではない」
小さな声でボソボソと話すメルヴィルは、朝みた自信満々な様子とは違う。聞かないほうがよかったかも、とそこで会話は途切れてしまった。
「……」
「……」
「……マコト、平気なのか」
「へっ?」
沈黙を破った問いは、意味がわからなかった。寒いか、ということだろうか。それなら、全然問題なかった。もうしばらくたつのに、相変わらず少し暑い。最初に感じた花の香りもまだ残っているし、窓を開けたいくらいだ。
「まだ暑くて。窓を開けちゃいたいくらいなんですけど……」
「いや、そういうことではなくて……窓くらい、開ければいいだろう」
「いえ、いいんです。そんなにこの香りも嫌いじゃないし。あ、もしかしてメルヴィル様はあんまり、ですか」
「……香り、か。ボクにはわからんな」
「え」
最初ほど充満はしていないが、この香りがわからないのはさすがに信じられない。鼻でも詰まってるんだろうか。
「マコト、今どんな香りがするんだ」
「お花、の香りでしょうか。ちょっと甘い感じの。ちょっとフルーツの香りも混じったような……」
嗅いでいると、少しボーッとするような香りは、嫌なものではない。
「そう、か。そんな香りなのだな、コレは」
「……?」
少し躊躇して、ふ、と息を吐いてまことに向き直る。
「ボクはたまに、その『花の香り』をさせていることがあるらしい」
「どういう、」
カタ
「この『香り』はーー」
肩に、絹糸がさらりとかかり
「嗅いだ者を虜にし」
宝石の瞳が、眼前にせまる
「惑わせる力があるらしい」
濃密に香る、花の香り
「それはボクの望むと望まざるに関わらず」
言葉を零す唇から、目が、離せない
「突如、顕れる」
見つめられたまま、動けない。言葉が出ない。細く息をする度、花の香りが脳に刺さる。
「まるでお伽噺の悪魔のようだ。人を惑わし従わせる、怪しい術だ」
ふー、ふー、と自分の吐く細い息が響いている。じわりじわりと近づくメルヴィルの顔にはなんの表情もない。それがかえって美しい造形を際立たせて、視線が離せない。気づけばまつ毛が触れそうなくらいに宝石の瞳が近づいている。離れなければ、と思うのにもう体は言うことをきかない。
「お戯れが過ぎますよ、メルヴィル様」
いつの間に部屋に入ってきていたのか、ジャックの声が間近に聞こえた。つまらなそうな顔をして離れていくメルヴィルをそのままぼーっと眺めていたまことの肩がポン、と叩かれた。
「マコト様、しっかり」
そこでやっとまことは大きく息を吐いた。止まっていた時が動き出したような感じだ。
「先生は医務室にお任せしてきました。帰りましょう」
「そうだな。マコト、ふざけて悪かった」
何でもなかったように明るい声でメルヴィルが手を差し出す。握った手は、水に濡れたからか、冷たい。
「……はい、メルヴィル様」
促されて立ち上がったら、少し立ちくらみがした。そんなに長く座っていただろうか。手を支えてくれたいなかったらふらついていたかもしれない。
「マコト様、こちらをどうぞ」
「飴玉……」
ジャックがまことの手に握らせたのは、翡翠色の飴玉。簡単に紙に包まれたそれは手作りだということがわかる。
「飴玉、やっぱり持ってるじゃないですか」
「いつも、ではありませんよ。溶けてないですから、お召し上がりください。スッキリしますよ」
促されて含んだ飴玉は酸味勝ちで、柑橘とハーブの香りがした。もやっとしていた頭が少し冴えた感じがする。
「おいしいです。不思議ですね、本当にスッキリします」
「お褒めに預かり光栄です。さあ、行きましょう」
三人か教室を出る頃には、花の香りはしなくなっていた。メルヴィルにも、何か知っているらしいジャックにも聞きたいことはいろいろとあるが、ドっと疲れた気がして無言でついていった。
もう殆どの生徒が帰宅しているようで、校舎は静かだ。
「本日の自習は、いかがでしたか」
「何とかうまくいった。少し力んでしまったな」
「なるほど、それで」
「このまま調子が戻るといいがな……」
自分の手を握ったり開いたりしながら眉を寄せる表情は苛立たしげだ。
「何か、怪我とかされてるんですか」
「いや、そうじゃない。……」
心配になって声をかけてみたが、メルヴィルはまことの方を見て逡巡した。
「いずれ、知れることだ。 ボクは、今、殆ど魔法が使えないんだ」
「あ……ごめんなさい、嫌なこときいて」
「いや、いいんだ。嫌なことではない。ただ、情けないんだ」
少し視線を下げてつぶやく横顔は、夕日に照らされてきれいだったが、切ない表情にも見えた。
「ローラント次期領主ともあろうものが、魔法が使えないのは笑いダネだ。まだごく近い親戚にしか知れていないが、じき他の領主たちにも知れることだろう」
「焦っても仕方ありません。メルヴィル様はまだお若いのですから、ゆっくりと学ばれては」
私達が勉強や体育ができないのとは、意味が違うのだろう。幼さが残る顔立ちに、複雑な表情が浮かんでいるのがちぐはぐだ。
「…私、魔法のこととか、領主のこととかわかりませんけど…勉強します。だから、もし良かったらその…また、教えてください、メルヴィル様」
「……?」
「こんな、おばさんに片足突っ込んだ女でも、がんばれば新しいことも覚えられるかなー、なんて」
「何が言いたいんだ」
「つまりその〜…」
励ますつもりで言ったのにあまり伝わらない。あれですよ、とか意味のない言葉がポロポロと出るが、そんな様子を見てメルヴィルは目を細めていく。
「メルヴィル様より大人でも勉強すると言うのだから、メルヴィル様のような聡明な若者はなんの心配もない、ということですよ」
微妙な雰囲気を目だけ向けて眺めていたジャックがさらりと助け舟を出してくれた。思わず手を打ってそうです!と言ってしまったまことを見て、メルヴィルはやっと口元を緩ませた。
「まさか、君がボクの心配をしたというのか!」
「うう、だってあんまり暗い顔なさるから…!お世話になる身ですし、何も言わずにはいられなかったんです」
「君、おせっかいだな」
「言われなくても知ってます!もう、人の優しさを無碍にする人は知りませんからね」
「君に何かされずとも。ボクを誰だと思ってるんだ」
夕日にキラキラと照らされた瞳がまこととジャックを照らす。
振り返る勢いそのままに舞う髪はまるで舞台の幕のようにぱあっと開く。
「ボクはこのローラントの次期当主、メルヴィル・キャンベルだ!しかと目に焼き付けるんだな、このボクを!」
威風堂々、石畳に通る声で宣言するその姿に、まことは息を飲む。思わず正座して深々と頭を下げたくなるような衝動にかられ、スカートを落ち着きなく撫でた。横ではジャックが恭しく胸に手をあてて頭を下げている。まるでそうすることがとてもいい案に思えたまことは、見様見真似で胸に手をあてる。不思議な高揚感で鼓動する響きを感じた。
メルヴィルが頭を下げる従者二人を満足げに見止めると、今度こそ三人は帰路についた。
揺れる馬車の中では行きとは打って変わって静かな時間が流れていた。まことがジャックに飴玉の作り方を聞いてささやかに盛り上がっていると、メルヴィルが思い出したように割って入った。
「そういえばジャック、今日まことに渡した飴玉は、初めて見る色だったな。一体何が入っていたんだ」
「そうなんですか」
「ああ、まるで結晶花のような色だったな…」
「まさか!結晶花なんて入れていたらマコト様はただでは済みませんよ」
面白いジョークのように手を振って笑うジャックになぜかゾッとした。
「そうだろうとも、そんなことをしたら今頃マコトは呑気に馬車に揺られていることもなかっただろう」
「ちょっと!その飴食べちゃったの、私なんですけど!怖いです」
「ご心配なく。あの飴玉に入っていたのはいただき物のハーブですよ。ちゃんと私も味見しましたから」
「なら、いいです…」
「今度ボクも食べてみたいものだな。まだあるのか」
「飴玉はもう…材料の方は、まだ手に入ると思いますよ」
「もらったと言ったな」
「ええ、ミアさんから。と言っても、ミアさんのお宅でもらったものらしいですが…たくさんあるからおすそ分けに、と」
「ミアか…確かに、あの家は農家ではないからな。結晶花以外にあんな色を出すハーブがあったとはな」
ミア、と聞いて今朝の出来事を思い出す。快活で、なんだかカワイイ子だった。
「ミアさんは、誰からもらったんでしょうね」
「そこまではお伺いしていませんね。また明日にでも聞いてみるといたしましょう」
「あの、飴をつくるとき、もし良ければご一緒してもいいですか」
「もちろん。もっとも、しばらくは忙しいかもしれませんが…」
「できるときで大丈夫です!ありがとうございます」
「ほお、ではボクはマコトが手ずから作ったものをいただくとしよう」
ニヤ、と笑いながら話しかけてくるメルヴィルからはあまりいい雰囲気が出ていない。今朝の猛烈なからかい攻撃を思い出して身構えたが、ちょうど馬車が停止した。
「あ、着きましたね!お開けします!」
背中に二人の苦笑を感じながらも、そそくさと先に馬車を開けて出た。ジャックが通り過ぎるとき、ほのかに飴の香りがした。
やっぱり、とジャックの上着のポケットを見つめると、ジャックは肩をすくめて苦笑した。