第2話 第2章 乙女の熱情4
まことは灯りの灯る廊下を早足で抜けて、渡り廊下へ出た。もうすっかり暗くなった邸の庭、そこから続く森、少し欠けた月を見て、ハアッと息を吐き出した。喉の下で心臓がばくばくいっている。
「はあ、つい、出てきちゃったけど……大丈夫かな、二人」
あわや大怪我というところだった驚きが勝って部屋を飛び出してきたが、ジャックはずいぶん怒っていたし、ケンカにはなってないだろうか。ちら、と後ろを振り返ってみるが、その先は閉ざされた大きな観音開きの扉があるだけで、風に揺れる木々がザラザラと音をたてていた。
(マクガイアさんと、ここで話したっけ)
あの夜は満月だった。渡り廊下の、胸元まである壁に手をついて月を見た。まことの背中から風が吹き寄せてきて、ほどけてしまった髪を揺らしている。首に手をやると、少しひんやりとした丸い指先が触れた。いつもどおり産毛の感触があるだけで、傷があったというのが信じられない。
「マコト様」
「……ジャックさん」
いつの間に来ていたのだろう。ジャックが控えめな声で呼びかけた。揺れる髪を押さえながら自分が来た方を見ると、ジャケットを風に揺らすジャックが立っていた。
「マコト様、申し訳ありません」
「……いいえ、突然あんなふうに出てきてしまってすみません」
「なぜ、マコト様が謝るのですか」
「突然だったでしょう」
「そんなことは……」
ゆるく首を振るジャックは一歩まことに近付く。
「本当に申し訳ありませんでした。そばに居ながら」
「ジャックさんこそ、そんなに謝らないでください。ほら、もう何ともないですし」
後ろ髪を押さえて、ジャックに首を見せる。夜の風がひんやりと首筋を撫でている。
「痕など残らなくて良かった……マコト様、召使い、やめても構わないのですよ。もとは、お客様ですし」
「そういえば、"試用期間"でしたね。マクガイアさんにお聞きになったんですか」
「はい、勝手ながら」
「正直あれは、二人に追い詰められて言っちゃっただけなんですよ」
「あのお二人は、いつも強引ですから……」
はあー、とため息が聞こえた。優しくてまじめそうなジャックだから、いつも手をかけさせられてるんだろう。もっとも、マクガイアさんは全てわかって、可愛がっているんだろうけれど。
「ですから、本当にやりたいかどうか、試したいなんていうのは考えてなかったです」
「ですが、今回のことで怖い思いをなさったでしょう」
「まあ怖いというか、正直少し呆れてしまいました」
二人の間を風がゆるく通り過ぎていく。
「メルヴィル様、14歳でしたね」
「左様でございますが」
「私は24歳です。メルヴィル様は、私の10年前では全く比べ物にならないくらい賢い人だな、と思います。だから、メルヴィル様が確信があったと言うなら、危険はなかったんでしょう」
急に年齢なんてカミングアウトされて驚いているのだろうか?ジャックは見動きもしないし黙っている。
「それに、私を傷つけたかったわけではないんじゃないかなーとは思うんです。だって、14歳の女の子がそんなこと思いますか」
「ですが、その……あまりに自分勝手なことを」
「そうですね。確かにびっくりしましたし、ちょっと怒ってます」
そう言うとジャックが息を詰める音が聞こえた。
「だから、明日の朝は思いっきり起こしてあげます。寝てようがお構いなしです!それで、怖かった、って言ってやりますよ」
「では、マコト様は」
「召使い、続けます。まあ、そんなに大したことはなくて。こっちでは仕事ができるわけでもないから、やることが欲しいんです」
「マコト様……貴女という方は。そういうことでしたら、私も明日は気合を入れて上掛けを剥ぎ取らねばいけませんね?」
空気がちょっと笑う。
「はい。だからもう寝ましょう。メルヴィル様は?」
「ティーセットのお片付けをお願いしておきました」
「……大丈夫ですか?」
「大丈夫でしょう。さすがにトレーを運ぶくらいはできますよ」
「ふふっ本当ですか」
茶目っ気のある言い方をしたジャックに思わず笑うと、自分の肩がふっと軽くなったのを感じた。
「……ありがとうございます、ジャックさん」
「何がでしょう?」
「ジャックさんと話して、落ち着きました。自分で思ってたよりびっくりしてたみたいです」
「マコト様のお役に立てたのなら何よりです。ああ、気温も下がってまいりましたね。お部屋にお戻りください」
確かに、先程から髪を揺らす夜風はじんわりと体温を奪っていた。少し自分の肩を抱いて、踵を返した。
「おやすみなさい、ジャックさん」
「おやすみなさいませ、マコト様」
一方残されたメルヴィルは、トレーを持って厨房にやってきた。もう片づけは済んでいるようで、扉を
開けると、美しく輝く調理台と何かを煮込んでいるシェフの後姿があった。
「おや、メルヴィル様。普段は立ち寄られないのに、ご用ですかな」
「ティーセットを返しに来た」
「左様でございますか」
手に持った調理器具を脇に置いて、シェフはゆったり歩いてきた。メルヴィルからティーセットを奪うと、突っ立ったままのメルヴィルに声をかけた。
「何か、ご用意いたしましょうか」
「いや……いや、紅茶を」
「かしこまりました」
すぐ立ち去ろうとしたのだが、役目は果たしたのに胸がざわざわしていた。調理台の横にあった木の丸椅子に腰掛けて待っていると、程なくして紅茶が出された。思ったより色の薄いそれは、少し違う香りがした。
「これは」
「もう時間も遅いですから、ハーブティーにしてみましたよ」
言われてみれば、ジャックからもらう飴玉と似た香りがする。口をつけたカップは、チンと唇にしみた。
「おいしい」
砂糖も何も入れていないそれが、不思議と甘く感じた。飴玉を思い出したからだろうか? 部屋にある、マコトからもらった飴玉も思い出す。あっちは、どんな味だろうか。
「……ありがとう、馳走になった」
「いいえ、また気が向いたらお越しください。いつでも、ご馳走いたしますよ」
「忙しいところ、何度もすまないが……」
カップを返しながら口ごもるメルヴィルを、シェフはじっと待つ。
「明日の朝、同じものが飲みたい。お願いできるか」
「……承りました。さあ、もうおやすみください」
結局、特別な言葉が出てくることはなく、場の緊張はほどけてしまった。しかし来るときよりは少し軽い足取りで、メルヴィルは廊下を歩いた。
(明日の朝、マコトは部屋に来るだろうか。ボクは、何を言うべきなのだろう)
こんな風に人のことを考えている自分が不思議だった。年上の女性とあまり親しくなることがなかったからだろうか。早足に出て行ったまことの姿が何度も思い出される。もやもやとする胸を抱えて、このまままことに会いに行ってしまいたいような気さえしていた。
(さすがに、こんな時間に訪ねるのはな)
ほとんど意識したことの無い「常識」のような感覚が、メルヴィルの脚を自室へと運ばせた。部屋に戻ると、しんとして半開きのカーテンの隙間からぼんやりと青白い光が漏れていた。
「もう、満月ではないのだな」
ポツ、と呟いた声に、光がゆっくりと沈黙を返す。ベッドに腰掛けると、ちょうどその光はメルヴィルを包んだ。ふと視線を下げると、自分はまだ学院の制服のままだった。他人事のように、急いていたな、と思った。もうこのまま眠りに落ちてしまいたい気分だったが、そういうわけにもいかない。しかし今日は人を呼ぶ気にもなれない。さら、と衣擦れが暗い部屋に響き、無人になった。
翌朝目を覚ますと、白い光がカーテンの間から漏れ出ていた。まだ起きる時間にしては清廉な空気が部屋の中を満たしている。どうしてかスッキリ覚醒している頭に、もう一度ベッドにもぐりこむわけにも行かず、起き上がった。二重のカーテンの間に手を差し入れて広げると、いつもどおり邸の庭が見え、向かいの屋根が控えめに輝いていた。
(今朝は、自分でメイドを呼んでもいいが……やめておこう)
サイドテーブルに置いているベルに視線を向けたが、しばらく見つめてそのままにした。この部屋に砂時計はないから、あとどれくらいでジャックと、……来るかわからないがマコトが来るのかは検討もつかない。本でも読もうかと思って読みかけだった魔術書をサイドテーブルから手に取り、シーツの上にゆるく立てた膝の上に乗せた。
ペラ、ペラ、と厚い紙がこすれる音が耳に届くが、いつもならどんどんと入ってくる文字が全くもって眼前を通り過ぎていくだけだった。
「……やめよう」
自分は一体何をこんなに落ち着かない気持ちでいるのか。ドアを睨みつけてみるが、まだ物音もしない。いらだちとも違うそわそわとした気持ちがメルヴィルの胸中を支配する。全く眠くもないのだが、そんな気持ちにカーテンをかけるような気持ちでぼすっと枕に沈んでみた。
それからどれくらい経っただろうか、中途半端に開いたカーテンの間から熱を感じるようになる頃、待ち望んだ乾いた音がメルヴィルの耳に届いた。
「入れ」
ドアの向こうの従者には何の罪もないのだが、勝手に待たされた気分になっていたメルヴィルは少し低い声で応答する。起き上がると、すぐに聞きなれたドアの音が響き、人影が二人入ってきた。
「おはようございます、メルヴィル様」
「……マコト」
少し沸き立つ心に違和感を覚えつつ、客人の名前を呼ぶ声は小さい。対するマコトはつかつかとベッド横に歩いてきて、じっとメルヴィルを見た。メルヴィルも起き上がって枕に背を預けたまま視線を返した。
「起きていらしたんですね、メルヴィル様」
「ああ」
「残念です」
「……?」
わけのわからないことを言い出すまことを見つめていると、上体を倒してむんずとリネンを掴みバサッと大きな音をたてて引っぺがした。入ってくる空気はもうぬるくなっていて、少し涼しいと思うくらいだったが、思わず縮こまった。
「……突然何だ」
「思いっきり起こしてやろうと思ってたのに」
ここまで来て、まことは初めて笑った。
「びっくりさせられた仕返しですよ。 昨日、怖かったんですからね?」
昨日足早に去っていった後姿と、目の前の人物は同一人物だろうか?正直、今朝は来ないと思っていた。
「……怒ったのか」
蚊の鳴くような声で、メルヴィルは罰が悪そうに訊いた。それを聞いて、まことは目を瞬かせた。その後ろでジャックが苦笑している。
「……あのですね」
どうしてか、目の前のお嬢様がとても小さく見えた。動物の耳が生えていたら少し垂れていたかもしれない、と思った。
「たしかに、メルヴィル様は自信があって、ああされたんでしょう。悪いこと考えてなかったろうな、って思います。でもね、説明してくれないと」
「……」
「私なんか魔法のことは何もわからないから、不安になります。突然、攻撃されたんですよ私。得体の知れない方法で」
沈黙が落ちる。まことはそれ以上何も言わない。じっとメルヴィルを待つ。
「……悪かった」
下に落ちていた視線をしっかり上げて、真っ直ぐまことを見つめて言った。
「はい」
「怖い思いをさせた」
その二言だけ会話すると、まことは雑にひっくり返して寄せていた布団を丁寧に折り返しなおして一歩下がる。
「さあ、支度しましょう」
「ああ」
そうして数日見たいつもどおりの様子で朝の支度に入る二人を見て、ジャックは疑問を抱いていた。まことがこんなにあっさりと気持ちを切り替えたことに驚いていた。足早に部屋を出た昨夜の様子を思い返すと、もう少し怒っていたりすると思っていた。しかし、もうあっけらかんとしていて普通にメルヴィルに接している。
「(マコト様には、適わないかもしれないな……)」
昨夜聞いたとおり、まことは大人の女性だった。容姿から自分と同じくらいかと思っていたが、今日の落ち着いた様子を見ると、同年代の邸のメイドとは確かに雰囲気が違う。
知らないものを見る気持ちで、興味が沸いているのを感じていた。