三
ふと目を覚ますと、辺りは月明かりに照らされ、青に銀に庭の砂利も池も輝き、この世と思われぬほどの美しさであった。ついふらふらと庭に出ると、蓮や夕顔が咲き乱れ、蛍がちらちらと踊っている。そこにかすかな琴の音が、遠くから響いてきて、ふらふらと男が音のほうに歩いていくと、気付けば内裏様の部屋まで来ていた。男がそっと几帳の隙間から覗き込むと、手のむくままに琴をかき鳴らす内裏様の眦に、うっすらと涙が溜まっているのが見えた。内裏様は几帳の隙間から差し込む月光が塞がれているのに気付き、「どなたかいらっしゃるのですか」と男に声をかけた。
男が素直に「ここにおります」と言うと、「素直なお方ですね。こちらにいらしてください」と、几帳の内側に引き込まれ、気付けば内裏様を抱きすくめていた。
「申し訳ありません」
「いえ、いいのです。わたくしの夫は都にいて、もう何年も会っていないのです。どうかこの一晩だけ、わたくしの寂しさを癒してください」
男は内裏様の単に手をかけ、自分の着物も脱ごうとしたところで、ふと妻から預った小刀が、かたかたと振えているのに気が付いた。不審に思い、小刀を出し、抜くと、青く輝いている。しかもその刀に映りこむ内裏様の顔は、見るも恐ろしい鬼であった。あわてて小刀を内裏様に向けた。
「もののけめ!」
内裏様は答えず、ただ鈴を転がすようにころころと笑う。男の目に映る立派な屋敷も、瞬く間に消えうせ、荒れ果てた山寺の跡に代わった。その中で内裏様はやはり美しく、たおやかな指で、鏡台から螺鈿の鏡を取り、男に見せた。
「そら、御覧下さいませ」
男が鏡を見ると、そこはどこともつかぬ、急流の河原で、カラスがあつまり屍を食らう、凄惨な光景であった。みると、屍は髪の長い、若い女であったようで、引きちぎれた着物が痛々しい様子で、山賊に慰みものにされた末に打ち捨てられたように見える。その顔に男は見覚えがあった。男が警護していた、相模守の娘であった。
「なぜ目を背けておいでですか。これは貴方が引き起こした事実ではありませんか。さあ、ごらんなさい。これで終わりではありません」
男が鏡を覗くと、そこには、暗い寝所で交わる男女の姿があった。見知らぬ男の下で喘ぐそれは、まぎれもなく男の愛しい妻であった。息を飲む男の目の前で、鏡が、今度は歳若い、精悍な少年の顔を映し出す。少年は小さな子供ふたりにむかい、爛々と怒りに燃える瞳で「いいか、おれたちの父は、主を守れず逃げ出した臆病者だ。母上を守ることもせず、主を守ることもできない臆病者を、父と思う必要はない。今日から、兄である俺に従うのだ。もし帰ることがあれば、俺が首をはねたほうが、この家のためと言うものだ」
たまりかねて、男は小刀を鏡にぶつけ、鏡を粉々に割った。
「嘘だ」
「嘘ではありませんよ」
「妻は私を待っているはずだ。仕事で留守がちではあったが、妻は私をいつも優しく迎えてくれた」
「ではなぜ、奥さまは貴方を優しく迎えられたか、考えたことはないのですか。都の治安も乱れ始めて、心細いなか女手一つで、子ども守り育てていて、なぜ奥さまは不満も言わず貴方に優しくできたのです。愛、とでもお思いですか」
「そうだ」
「ご冗談を。貴方に帰るところなどないのですよ」
男は小刀で、御仏に祈りつつ切りかかった。すると闇からわき出るように、おびただしい数の鬼の集団が現れて、内裏様の周りを囲った。男が小刀を向けると、小刀は青い光を発し、光にふれた鬼たちはぼろぼろと崩れていった。男は小刀で身を守りながら、必死に山を駆け下り、もうどうなっても一目家族に会いたいと、一路都を目指した。
京に戻ると、もとのように男の家があり、そこには妻がいた。帰ったぞ、と男が言うより早く、男の息子が切りかかってきた。男は腕を切られ、たまりかねて息子を怒鳴りつけようとしたが、それより早く、妻の腕に抱かれた乳飲み子が見えた。自分の子ではないと、妻の表情から男は確信し、矢も盾も止まらず、男は狂い、片腕だけで妻と乳飲み子、息子と、隠れていた子ども二人を切り殺し、異変を感じて駆け付けた妻の男に、背を射抜かれて男は絶命した。
そこで男は目を覚ました。
「どうなさったの。いやな夢を見ていたようね」
そこは都にある男の家で、妻が心細げに男の顔を覗き込んでいた。乳飲み子はおらず、子どもたちはすうすうと、安らかな寝息を立てている。そうだ、自分は無事に相模守の姫を送り届け、都に帰ってきたばかりであった。
「きっとあの小刀のせいよ。夜中になると、かたかたと震えて、気味が悪いもの。きっともののけ憑きの刀だわ。明日にでも棄ててしまいましょう」
男が見ると、なるほどたしかに、小刀が青く光り、かたかたと震えていた。男は小刀を引き寄せたが、抜かず、「ああ、棄てよう」と言って、眠ってしまった。次の日には朝一番に川へ行くと、小刀を投げ捨て、それ以降川には近寄らなかった。
男は武士として栄達を果たし、後に台頭する平氏の傘下となり、孫八人に恵まれ、幸福な余生を送った。