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声が……聞こえる。
わたし、生きてる……の?
「……さま、あや様」
あや……さま?
そんな風に呼ばれたこと、あったかな……。
「私の声が聞こえますかっ?」
聞き覚えのない声。
彩名はゆっくり目を開けた。
眼前に覆い被さるように見えたのは、妙齢の見知らぬ女性だった。
「誰……?」
そう言ったつもりが、うまく声にならない。
「ああ……。良かった。あや様、私がおわかりになりますか?」
次の言葉を考えるより早く、彼女は彩名に抱きついていた。
何かの匂いが鼻をつく。
香辛料に似た、変わった香水。香水というよりむしろ……。何か別の……。
彼女はゆっくり体を離すと、彩名を抱き起こした。
「どこか痛いところはございませんか?」
目線が高くなるにつれ、違和感が増した。
覚えがなかったからだ。
目の前に見える景色、全てが。
そこはどこかの里山のような場所だった。
視界のすぐ右手には緩やかな傾斜があり、五分咲きくらいの桜の木が飛び飛びに植わっている。
斜面の十メートルくらい上には道があるのか、人が一人、腰を下ろし、二人の様子を眺めているのが見えた。
彩名と女性がいたのはあぜ道で、斜面とは逆側には田畑が広がり、その先にはまた小高い山。
「どこ……。ここ……」
またしても声にならない。
かすれている、というより、発声そのものができない。
いや、それだけではなかった。
何かおかしい。
体の自由も利かない。
まぶたをゆっくり閉じ、そして開いた。
それができることを確認して、次に顔を左右に振って見た。
大丈夫。痛みはない。どこも怪我はしていない。
それならどうして?
「あや様。立ち上がれますか?今度からウリボウを見ても追いかけることはおやめ下さい。何かあっても私ではお助けできません。怪我でつらい思いをされるのは、ご自身だけではないことを重々ご理解下さい」
ウリボウって……何?
女性に介助されて立ち上がろうとしたが、相変わらず手足が思い通りにならない。
そして目を疑った。
今、着ている物が目に入ったからだ。
「何、これ……」
またしても声にならなかったが、重要なのはすでにそこではなかった。
少し前まで、夕海と色違いのスノーウェアを着ていたはずだ。白地に小さな花柄のプリントされたルーズなジャケットに、下はグレーで寸胴なパンツ。
しかし、今、身にまとっていたのは、彩名の語彙の中で表すなら、それは着物だった。
淡い藤色のコートのような形の上着。
着物との違いと言えば、帯がないことと、足丈が短いことくらいだろうか。
上着の中にはどうやら二枚。最初の一枚は着物と同系色、藤色の衣類で、さらに内側、地肌に直接触れているのは、絹らしき肌触りの布だ。
足元は足袋をはいていて、朱色の鼻緒に白く柔らかい素材の草履。
改めて目前の女性を見ると、色が薄青系でまとめられている以外、彼女も極めて似た格好をしていた。
「服が乱れておられます。さ、袿も小袖もお直し下さい」
言われるままに、つたない動きで腰の紐を緩め、どうにか上着を当て直した。
「市女笠もおつけになって下さい。十四にもなった、高貴な女子が素顔を見られてはなりません」
彼女はそう言うと、地面に落ちていた乳房に似た形の笠を手にして、彩名の頭にそっと載せた。
笠の周囲には白い布が腰のあたりまで垂れていて、視界が一瞬で狭くなったが、そこがスキー場でないことだけは間違いようがない。
それはつまり。
気絶している間に、北びわこスキー場から、どこか知らない場所に連れられたということに他ならなかった。
そんなことが起きる理由は一つしか思いつかない。
それを認識すると、苛立ちが体に込み上げてきた。
「危うく怪我しそうになったんですよっ。何のドッキリなんですか?夕海も知ってたんですかっ?」
途切れ途切れながらも声が戻ってきた。
誘ってきた男子たちもきっと演者に違いない。
テレビだからって、人の体に気安く触って……。
そしてはっとした。
下着の感覚がないことに気づいたからだ。
まさか……無断で脱がせたというのか?
「やり過ぎですっ」
怒りに任せて声を張り上げると、ようやく思い通りに言葉が出た。
彩名の絶叫に、目の前の女性は、いぶかしげな表情に変わる。
そうだ。きっと彼女も番組の指示に従っただけだ。文句を言うのは筋違いだ。
「あの、もう十分ですから。終わりにしてもらえませんか?」
どうにか冷静を保って頼んだつもりだったが、相手は演技を止める気配がない。
「あや様、お戯れはそれくらいで。車にお戻りください。それから、この急坂、私一人ではきっと上がれません。下人を寄越していただけますか?」
彼女は不機嫌そうに指を斜面に向けた。
その語感にふざけている気配を感じ取ることができない。テレビで見たことはなかったが、おそらくどこかの劇団でトップクラスの女優なのだろう。
番組にも段取りというものがあるに違いない。
不満はあったが、カメラに撮られていることを考えれば、下手な態度は取れない。仕方なく指示されたところへ向かおうとしたが、体がまだ完全に思い通りにならない上に、普段着ることのない衣装で、一歩進むのに一苦労だ。
「あや様。のんびりしていると日が暮れます。野盗の恰好の餌食です」
「人の了解も得ずにこんな姿にしておいて何を好き勝手に……。カメラ、どこにあるのかな。わたしなんか、そんなに有名でもないのに。何の番組なんだろ」
斜面を半分ほど行ったところで、坂の上にさらなる仕掛けがあることに気づいた。
「あれって牛車?違う、御所車って名前だったかな。あんな物まで用意してるんだ」
人が乗る屋形の部分は漆塗りで、黒い地に花の模様が金で施されている。おそらくは、高貴な人向けに作られたのだろうが、かなりの年代物らしく、そこかしこが剥げ落ち、没落した印象が否めない。
両側には巨大な車輪が一つずつ。そこから長い柄が前に突き出て、本物の牛の背に赤い華やかな紐で括り付けられている。
周到な演出に思わず感心していると、それまで傍観していた、人力車の引き手のような装いの男が、彩名の手を取り、道路まで引き上げてくれた。
「あの女の人は一人で上れないって言ってます。助けに行ってもらえますか?」
彼は「へい」と、小声で返事をして、軽々と坂を駆け下り、女性の背中を支えながら戻ってきた。
「お転婆という年ではないことをよくよく自覚して下さい。お花見のはずが、こんなことになるなんて」
彼女が心底憂鬱そうにそう言って、車に近寄ると、男はうしろ側の簾を上げ、慣れた手つきで踏み台を女性の前に置いた。
屋形の中は、外見から受ける大がかりな印象とは裏腹に、あまり広くはなさそうだ。しかも椅子ではなく、ござのようなものが見えるだけ。
女性は慣れた所作ですぐに正座すると、彩名に厳しい視線を向けた。
「あや様もです」
仕方なく車に乗り込むと、すぐに簾が下ろされた。
予想通り、二人で窮屈に感じる程度の大きさだ。前後左右はもちろん、天井もかなり低く、思っていた以上に圧迫感がある。
脱いだ市女笠を、彼女のそれに重ねた。
小さな木の窓を見つけ、開こうとすると、背中から声が飛んできた。
「いい加減にして下さい。姿をさらしてはなりません」
どこにカメラがあるのか、演技が迫真だ。
ひそかに口を尖らせたとき、ギっと車輪が軋む音がして、車がゆっくり動き出した。
想像以上に乗り心地が悪い。
見知らぬ人間と閉ざされた空間に二人きり。気まずく、することもなかった。
「あの、スマホだけでも返してもらえませんか?」
反応を伺いながら彼女に尋ねると、意味不明の返事があった。
「女子があんな破廉恥なことに興味を持つなど、許されません。あれは男どもが酒の慰みに観る物です」
破廉恥って……。どういう偏った使い方をしている人なんだろう。
とりあえず、その冷然とした態度に、それ以上話しかける気が失せた。
車の進む速度は遅く、一定の間隔で車輪が軋む音が聞こえる。
間もなくして、隣から寝息が聞こえてきた。つられて、軽い眠気に襲われたが、強く頭を振った。
「違う。寝てる場合じゃない。いったい誰の許しを得てこんなわけのわからない真似をしているんだ」
夕海は知らされていたかもしれないが、許可を出せる立場ではない。
となると、家族か、あるいは将棋協会?
わからない。
女流でテレビに出演している棋士は数多くいる。
彩名は確かに女子高生で三段だが、見栄えはしない。母の失礼な言葉を借りれば、素朴ながらも凜々しい顔立ちだとか。そんな苦肉な褒め言葉なら不要というものだ。
いずれにしても、大人たちに比べて話し上手でもなく、将棋専用チャンネルですら、対局時以外での出演依頼はほとんどなかった。
まるで納得のできる結論を導き出せないまま、一時間ほど進んだ頃、周囲で人の声が聞こえ始めた。
女性が眠っていることを確認しつつ、そっと木窓を開け、そこで目にしたものにぎょっとした。
いつの間にか山あいを抜けていた。
通りに面して、ぽつりぽつりと建物が見える。
ただ、それらはどれも茅葺きの平屋建てで、粗末な家ばかり。こんなに大がかりなセットを作れる土地がスキー場の付近にあっただろうか。もしかしたらかなり離れた場所に連れて来られているのかもしれない。
やがて、人の数が増え始めた。
誰もが設定に合わせているのか、時代劇で見るような町民の姿だ。
男性は腰までが隠れる半纏らしき衣服を身に付け、髪を縛った人が多い。女性は総じて髪が長く、簡素な浴衣のような格好だが、胸元がだらしなく、下着をつけていないことが明らかだった。
道を進むにつれ、建物や人の数が増えていったが、申し合わせたように、誰もが古めかしい装束。
さらに進むと、賑わいが増してきた。
これまでとは道の幅も、家々の数も人の多さも比べものにならない規模になる。
道行く人たちの中には、まるで武士のように長刀を腰に差した人間や、商人らしき出で立ちの者まで現れ出した。
「大津でございます」
真後ろから低い声がして、頭を天板にぶつけそうになった。
「あ、あの……」
彩名が言い訳する暇もなく、彼女の細く白い手が伸び、かちんと音を立てて木窓が閉まった。
「あと一刻もすれば京に入ります」
そう言って、また背もたれに体を預け、目を閉じた。
やがて、しばらく前から気にかかっていた、ある不安が頭の中を巡り出した。
エキストラの数が……多過ぎるのではなかろうか。
セットの規模といい、どんなドッキリを仕掛けようとしているにしても、ほとんど無名の彩名に、ここまでするのは尋常な事態とは思えない。
「あの……」
怖くなり、女性に声をかけると、彼女は片目を面倒くさそうに開けた。
「何ですか?」
「え……と。大津なら、琵琶湖が見えるのかなって」
彼女は何かを呟くと、大きくため息をつき、「少しだけです」と、逆側の窓を静かに開けた。
彼女にくっつくように近づき、そして、そこから見えた光景に、心臓が凍り付いた。
確かに、遥か先に湖はあった。
しかし。
牛車の進む通りと、湖岸の間にあった町並みは、ほとんど全てが木造の平屋建てだったのだ。
ビルどころか、コンクリートを使った建造物がまったく見当たらない。
それだけではない。
電柱も、電線も皆無だった。
全てが張りぼてだとしても、たかがテレビ番組でここまでする理由は何だろう。いや、意味があるのだろうか。
「ここは……本当に大津なんですか?」
「いつからそんな殊勝な物言いをなさるように……。そうです、ここは大津京。あなた様のご先祖たる天智天皇が、かつて遷都された場所です」
その言葉に改めて女性を見て、それから自身の衣服に手を触れた。
どちらも本物の……絹、だ。
昨日今日、仕立てられた物じゃない。
長らく日々の衣服として使われていた、そんな風合いを感じさせる。
無意識に喉が鳴った。
不安で意識が薄れそうになる。
ドッキリでないという前提で、今、目にしていることを説明できる合理的な解は一つしか思い当たらない。
すなわち。
彩名の前に広がる光景が全て本物、という結論だ。
本物ということはつまり、何を意味するのか。
恐怖であっという間に目に涙が溜まり、すぐに頬を伝った。
「あや様、どうなさったんですか」
女性は驚いた様子で、彩名を抱きかかえると、どこからか、肌触りのいい白い布を取り出し、そっと涙を拭った。
どう聞けばいいのだろう。
「今は、どなたの御代なんですか?」
「御代、とはどういう意味で?」
「それなら……帝のお名前を教えて下さい」
「帝とはすなわち、あなた様のご尊父にあたるお方です」
彼女は半眼になって、あきれ加減にそう言った。
尊父とは、父親のことだ。
父が帝、すなわち天皇だと彼女は今そう告げた。
もし。
もし、これが何かの演出でないとしたら――。
そうだ。スキー場で雪崩に遭った。
もしかしたらあの瞬間、死んでしまったのかもしれない。
生まれ変わりがあったとして、それが未来へ向かうというのは、稚拙な先入観に過ぎない。
来世が過去ということもあり得るのかもしれない。
恐怖で呼吸が荒くなる。
「ち、父の名前はっ?」
涙目で必死にすがる彩名に、彼女は眉根を寄せ、小声で答えた。
「知仁君でございます」
知仁……。
ダメだ、諡でなければわからない。
それなら――。
「今の……将軍の名前は?」
「何ですか、唐突に。将軍とは……室町のことを仰っておいでですか?」
室町だってっ?!
「はい、そうです。今の将軍は?」
「細川の……今は氏綱公だったでしょうか」
細川っ?!
それは征夷大将軍ではない。
管領だ。
なるほど、室町時代の後期は、足利にほとんど実権がなかったからか。
細川氏綱。知らない。
ただ、応仁の乱よりあとであるのは間違いなさそうだ。
もし織田信長より近世なら、おそらく細川の名前は出ないだろう。
室町幕府は1573年に終わっている。
となると今は1500年代の中頃か。
室町、いや戦国時代……。
体中に鳥肌が立った。
今、彩名がいるのは、時を五百年遡った大津ということになる。
「あや様、いったいどうなさったんです。お顔が真っ白です。あや様」
「あ……いえ、大丈夫です」
知らぬ間に体が震え、口が渇いていた。声を出すのが精一杯だ。
演出ではない。
これは現実だ。
だとすれば、高月彩名はもう死んでしまっている。
もっと……。したいことがたくさんあったのに……。
子供に先立たれたことを、両親はどれだけか悲しんでいるだろう。母の言うことをもっと聞いておけば良かった。親孝行なんて簡単にできたというのに。
いや――。それよりも夕海だ。
きっとスノボに誘ったことを、死にそうになりながら後悔しているに違いない。
男子学生の誘いを受けたことを。
違う。あなたは何も悪くない。
彼女を想うとまた涙がぼろぼろとこぼれた。
目の前の女性は真顔になって、彩名の手をぎゅっと握りしめた。
「私がおそばについておりますから」
彼女に、目の前の少女が悲しむ理由は理解できなかったはずだが、なぜかそれを問うことはせず、ただ優しい笑みを浮かべた。
恐怖と悲しみで激しく感情が上下し、見知らぬ人間に親身にされ、やがて眠ってしまった。
さて、スマホを何と聞き間違えたのか、おわかりになりますか?




