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10-1

 日曜日、祖母の家を訪ねる日。


「おばあちゃんの家に行くのはいつ以来だ?」

「小学六年だったかな」


 中学で奨励会に入って、棋士としての時間が急速に増え、高校で夕海と知り合い、彼女を思い出すことはほとんどなくなった。


「聞いたって、何もないと思うぞ」

「でも古い蔵があったんでしょう?」

「お父さんが子供の頃な。建て替えのとき取り壊して、もう三十年くらい経つのか。それより、前にお母さんが言ってたこと、今日お願いできるか?」

「あー……。二世帯だっけ。わかった」


 ぼんやり窓の外を見ていると、道路標識が目に入った。


 大津という文字に、思わずあっと声を出した。


「何?忘れ物?」

「ううん、えっと……。おばあちゃんの家って大津だったんだって」

「何を今さら。もうずっとそうだぞ」


 大津。


 あの時代に最初に下り立ったのがそうだった。何かが繋がりを持っている気がして、胸騒ぎがする。


 事前に伝えていた時間よりは、かなり遅くなったにもかかわらず、祖母は家の前で出迎えてくれた。


 家に入ると、例によって地味な食べ物を次々勧められる。


「太るからもうこれくらいでいいよ。それより今日は聞きたいことがあるんだ」

「なんや。彩名ちゃんに教えられることなんてあるかいな」


 リュックから扇子を取り出し、机に置いた。


「これのこと、詳しく教えてほしいんだ」

「ああ、これかいな。我が家に伝わる家宝の扇子や。この前、彩名ちゃんにあげたんと違うたかな」

「うん、そうだよ。この扇子のおかげで大事な将棋に勝てたんだ」

「へえ、そうかあ。さすがの効き目やなあ」

「これって高貴な扇子だって、おばあちゃん言ってたの、覚えてる?」

「そうやで。うちはそんじょそこらの一般人と違うんやで。よう心しておきや」

「どういう家なの?何か証拠あるの?」


 思わず前のめりになると、祖母は得意気な表情に変わり、扇子を開いた。


 老眼鏡をかけて確認し、眼鏡を外すと、再び彩名に扇子を差し出した。


「ここに書いてあるやろ」


 彼女が指し示したのは、和歌の書かれていない面だった。


 そういえば――裏はまだ確認していなかった。


 ほとんど真っ白だったが、左端に二行だけ、文字が書かれている。


 思わず食い入るように見つめ、そして息が止まりそうになった。


 判読はできなかったが、見覚えのある、たをやかな筆致だったからだ。


「おばあちゃん、これ、何て書いてあるかわかるのっ?」


 彩名が息を弾ませると、彼女はまた鼻を高くした。


「これはな、こう書いてあるんや」


 それから続けられた言葉に、意識が遠くなった。


「内親王殿下より拝領。天文二十四年九月」


 そう告げた声は、果たして祖母から発せられていただろうか。


 天文二十四年はすなわち、1555年。


 綾としての最後の記憶は1554年の夏だ。


 彩名の先祖は、それから一年後に綾からこの歌を受け取ったことになる。


 神様からの啓示に打ち震えていると、再び関西弁が聞こえた。


「彩名ちゃんは知らんと思うけどな。内親王っちゅうんは天皇の娘さんのことやねん。つまり、うちの先祖は、そんな人から物をもらえるような、立派な家柄やったっちゅうことや」


 綾がこの出来の悪い歌を贈る相手。嫌がらせか、さもなくばよほど親しい間柄だ。


 すなわち、姫宮は再びあの体に戻り、従者との関係を取り戻したのだ。


 伏見は、おそらく、誰かと結婚したか、あるいは身籠ったのだろう。綾から贈るはなむけなら、あの櫛でも良かったはずだが、この歌を持たせ、そして受け取ったほうは、それを後生大事にしたのかと思うと、涙がこぼれそうになり、慌てて洗面所に向かった。


 一人、鏡の前で声を殺して泣きながら思いが至った。


 彩名が召喚された背景は、あのときも感じていたが、単純な理由だったのだと思う。


 つまりは、綾が引きこもりになった。


 もし本人が、人生に完全に絶望していたなら、あんな奇跡は起きなかったに違いない。


 彩名が呼び出された頃は、伏見とは、きっとまだ、互いに相手の深い胸中を知るには至っていなかったのだ。本心では、互いに信頼し、愛おしく想っていたはずなのに。


 身代わりを通して、従者との関係が改善し、新たに生きる希望を見つけることができたというなら、寺で死にそうになった甲斐はあったということか。


 ここからは完全に推測だが、綾が体に戻った大きな理由の一つに、正親町と再会する約束があった気がする。


 胸にあった恋心は、彼女本人の熱だったのだ。


 じっと手の甲を見た。


 白い皮膚から静脈が透けて見える。ここに伏見の血が受け継がれているのかと思うと、自然に心が温かくなった。


 泣いたことをごまかすため、あくびをしながら居間に戻ると、父が関西人に戻っていた。


「内親王から物をもろうたんはええんやけど、その人が誰かも、先祖の名前もわからんのやろ?」

「貴族に決まってるやんか。天皇の身内が一般人と会うかいな」

「そうかあ?たまたま道路歩いてて、トイレ借りた家の人にあげたとか、そんなんとちゃうんか?」

「何をアホなことを」

「それよりおばあちゃん、家に伝わってるのはこの扇子だけなの?」

「そうやなあ。これと一緒に、萎れた花みたいな竹細工があった気がするわ。使い方がようわからんかったやつや」

「えっ。竹細工っ?それ、巾着用のアクセサリーじゃない?口紐のところにつけるんだよ」

「巾着の口紐……?なるほどな、そう言われたらそんな形やった気いするわ。さすが彩名ちゃんや」


 二人の会話を父が不思議そうに見つめていたが、今は取り繕う余裕がない。


「それで、今どこにあるのっ?」

「捨てたな」

「ええっ。捨てた、のかー……」

「家を建て替えたときにな。古いだけで、何の価値もないって言われたし」


 彩名が言葉を失い、会話が途切れたところで、父が咳払いをした。


 顔を上げると、二世帯、と口が動くのが見えた。


「あーそっか。えっと、おばあちゃん。ここで一人暮らしって寂しくないの?」

「一人にはもう慣れてもうたなあ」

「おばあちゃんさえよかったらさ、わたしたちと一緒に住もうよ。部屋余ってるからさ」


 両親の説得では無理でも、可愛い孫の力なら簡単なことだと、その程度に思っていた。


 そして祖母はにっこり微笑んだ。


「それは堪忍してえな」


 え。堪忍してって。


 聞き間違い……?


「長浜なんて田舎、かなんわ。知り合いも全然おらんし、冬は雪降るやろ。ここは京阪で京都まですぐ遊びに行けるしなあ」


 きっと面倒をかけたくないと気遣っているに違いない。


「あ……でも、ほら。お父さんがいるし、車もあるから。京都だって新快速で一本だよ。わたしだっていつでも話し相手になれるし」

「今どきの女子高校生と合う趣味は、そうそう見つからんと思うで」


 そう言うと、声を高くして楽しそうに笑った。


 ぼけても、気遣ってもいない、それはきっと本音に聞こえた。


 帰り道、父は仕方ないと笑っていたが、孫としての存在価値を完全否定された敗北感で、しばらく立ち直れそうな気がしなかった。



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