0-5
翌日、土曜日で学校は休みだった。
朝、遅い時間に目を覚ますと、父が出かける準備をしていた。
「休日出勤なの?」
「おばあちゃんのところに行くんだ」
「そう、なんだ」
おばあちゃん、という単語が、寝起きで回転の遅い頭をさらに重くさせた。それを敏感に察したのか、母の目が厳しくなる。
「彩名。何、その態度。お父さんのお母さんなのよ」
「言われなくてもわかってるよ、そんなこと」
「だったら。もっと楽しそうに迎えてちょうだい」
「だって……。こんな田舎に住むことになったのだって……」
「いい加減それは諦めて。高校なんて、校舎の中に入れば、群馬も滋賀も変わらないわよ。将棋会館だって、こっちのほうが近かったでしょ。お父さんは、わざわざ転職までしたんだから」
「そんなの知らないよ。それに最近ちょっとぼけてるんだもん」
「彩名。おばあちゃんはぼけてなんかいないぞ。知り合いでそういう人を何人か知ってるけど、おばあちゃんなんか全然普通だ」
それには反論しなかった。
これ以上言えばまた口げんかになる。
奨励会に入って以降、ほとんど会う機会はなかったが、祖父が死んでから、祖母の様子が少しおかしくなったそうだ。
心配した父が母と相談し、彩名の高校入学に合わせて近くに引っ越すことに決めた。
それ以来、月に数度、家に泊まりにきている。
ぼけているのとは確かに違うのかもしれないが、同じ話を繰り返したり、話が噛み合わないことが増え始めていた。
「ご飯、食べるでしょ?」
「いらない。すぐ出かけるから」
午後は夕海と待ち合わせだった。前日の放課後、映画を観ようと、おそらくは気遣って誘ってくれたのだ。
そのときは外に出る気分ではなかったが、日が変わると予定があることにほっとした。
待ち合わせの長浜駅改札前。なぜか制服姿の彼女がいた。
剣道部でショートカット。いつも明るく快活で、落ち込んでいる姿を見たことがない。
黒目がちな瞳に、女の彩名でも吸い込まれそうになるときがある。
「ごめん。待った?」
「全然。今きたところや」
「一応聞くけど。どうして制服なの?」
そう言って向けた指を両手で掴むと、相手は祈るような仕草で、潤んだ目を彩名に向けた。
「私服、全部洗濯中やねん」
彼女の両親は、小学校六年のとき、離婚したらしい。今は母親と二人暮らしだ。
洗濯や食事といった身の回りのことは全て、がさつと言って過言でない、夕海自身がこなしていて、弁当や外見に多少奇異なところがあっても、二人の間では、大目に見る決まりになっている。
「それなら仕方ない……のかな。まあ、休みに着たくなる気持ちもわかるけどね。夕海でも、その格好してれば、おしとやかに見えるし」
高校の制服としては、長めの部類に入るスカートに、ややタイトで、濃い緑のダブルボタンのブレザーは、気品高く、転校が決まった当時、落ち込んでいた心を、唯一、支える材料になった。
「何言うてるん?うちは元からお嬢様やし。本気出したらクラスの男子全部を骨抜きにしてまうから、力を出さんよう、毎日必死なんですけど」
関西にきて、クラスメートたちの根拠なき自信に最初は戸惑ったが、多くは自虐的な冗談ということが、最近になってようやく理解できるようになっていた。
「わかったから。さ、行くよ」
新快速に乗り込み彦根に向かう。
空席だらけだったが、座らなかったのは彼女の方針だ。
「ぐうたらなのに、ところどころ厳しいよね、自分に対しても」
「もっと褒めてええよ」
自慢げに答えた彼女に、あははと笑顔を返そうとして、歯に上唇がこすれた。
ダメだ。
普通にしようと思うほどできない。
「あの……ごめん」
「え。何なん、いきなり」
突然頭を下げた彩名に、彼女は慌てたそぶりを見せた。
「今から懺悔するね。夕海、昨日わたしに惜しかったって言ってくれたでしょ?」
「うん、言うたけど……。それが何?」
「そのとき、わたし、素人のくせに何がわかるんだって。心の中で思っちゃったんだ……。親友の心遣いに対して。人間のクズなんだ。お願いだから罵倒してっ」
顔を見ることが怖く、思わず抱きついた。
彼女は彩名より少しだけ背が高い。
肩に顎をのせ、目をぎゅっと閉じると、耳に神経が集中した。
高校入学以来、ずっと行動をともにしてきた。声調で何を考えているのかはすぐにわかる。怒っているときの音程だったらどうしようか、それを考えると無意識に腕に力が入った。
「ちょっと。痛いわ」
わずかに低くなった声。
ただ……怒ってはいない。
「そんなことで罵倒するわけないやん。っていうか、普通言わんで、そんなこと。黙ってたらええのに」
そう言って、そっと彩名の体を押し返すと、あきれたように笑った。
「本気で……怒ってない?」
「怒るっていうか……。うちが無神経やったんやなって。言わんほうがええんかなって、思うこともあったんやけど」
「そうじゃないの。ちゃんと見ていてくれる人がいるんだって、安心することのほうが多いんだよ。でも……。最近、ずっと負けてばっかりだったから」
相手はしばらく彩名の目を見つめていたが、やがて窓の外に視線を移した。
会話のないまま、南彦根駅に着く。
映画館に向かって二人並んで歩き出してしばらく、彼女は前を向いたままぽつりと言った。
「たぶんそれやと思うねん」
「それって――何のこと?」
「電車でうちに言うたことや。彩名の生真面目さっちゅうか、心根の優しさっちゅうか」
「真面目だって自覚はないんだけど」
「そういうのは自分ではわからんやろ。また素人の意見なんやけど、聞いてくれる?」
「はい、素人さん、どうぞ」
「周り、全部男の人なんやろ?大人の人もようけいてはって、みんな人生かかってるんと違うんか?」
「そう、だね」
彼女が何を言おうとしているのかはすぐに理解した。
対局前や昼食休憩の時間、人によっては話しかけてくる場合もある。
多くは物珍しさからだと思うが、中には露骨に彩名の悪口を言う人間もいた。
ちやほやされるのは外でだけ。リーグの中では、全員が純粋なライバル、いや、文字通りサバイバルだった。
「半年くらい前の対局だったかな、ひどいこと言われたときがあったんだ」
「どんな?」
「お前くらいの実力ならすぐに女流で上位になれるだろう。どうしてわざわざこっちに参加してるんだよ。どうせ、世間の注目を引きたいだけのくせに。俺は今回昇段できなかったらもう死ぬしかないんだぞ、って」
あのときから、ずっと連敗していた。
「死ぬって……。大げさやな」
「そうでもないみたい」
早い人間なら小学生の頃から将棋漬けだ。長年、世間から遠ざかり、二十六でいきなり現実世界に放り込まれ、すぐに切り替えられる人間なんてそうそういない。
「そうか、奨励会って、年齢制限があるんやったな」
まさか、ここまで厳しい世界だとは想像していなかった。彩名の中では、勝てばただ褒められるゲームに過ぎなかったというのに。
「おじいちゃんに教えてもろうたんやったっけ?」
初めて駒に触れたのはまだ小学校に入ったばかりの頃だ。当時から記憶力は良かったらしい。教えられた定跡は一度で覚え、終わった対局は簡単に再現した。周囲の大人たちが驚愕する様子を、今もよく覚えている。
「何手も先を読むんやろ?どんな感じなん?」
「言葉にするのは難しいんだけど。進んだ盤面が連続して頭に浮かんでいく感じかな」
「そやけど相手の番もあるわけやろ?組合わせっちゅうか、分岐の数が無限に増えるやん」
「調子のいいときは、応手が三択くらいになる。過去に対戦した相手なら棋譜はだいたい覚えているし、当日の指し手も参考になるから」
さらにいえばその中から選ぶ一手が、外れることはそうはなかった。
「調子悪いときは?」
「普通に考えたら絶対指さないような手まであり得るんじゃないかって、疑心暗鬼になって」
そうなったらもう止められない。
明らかな奇手に懸命な対策をして、結果、初心者でも指しそうなもっともな一手に崩れ落ちるというパターンだ。
「なるほどな、何となくわかるわ。勝負事っちゅう意味では剣道も一緒やもん。そやけど、将棋は秀才なイメージがあるから、それはうらやましいかな」
「覚えるのは確かに得意だけど、それ以外は普通だと思うよ」
すると親友は、はあとため息をついた。
「あのなあ、歴史地理は元より、暗記で点を取れる科目がどんだけある思うねん。それを平然と言うかあ。さすが、名古屋奨励会期待の星。言うことが違うわ」
他愛のない会話をしてくれたおかげで、気づくといくぶん胸が軽くなっていた。
一年前、入学式のあと、クラスメートたちが彩名を遠巻きにする中で、唯一、親しげに話しかけてくれたのが夕海だったのだ。
「うちはお姉ちゃんがグラビアモデルやからな。多少は注目される側の気持ちがわかるんや。キャラメルポップコーン、買うやろ?二人でラージサイズ一つでええやんな」
屈託のない彼女が友達でいなかったら、こんなに順調な高校生活を送れていなかったのは間違いない。




