9-4
目を覚ましたのは、将棋会館の控え室だった。
入り口付近で、立ち会いらしき男性が不安そうな表情で座っていて、仮眠用の布団に寝かされていた彩名と目が合うと、あせった様子で状況を説明し出した。
「あ、気づきましたか?えーと、今救急車を待っているところです。私は協会職員で――」
「あのっ、お騒がせしてすみません、わたし、まだ持ち時間残っているでしょうか」
「持ち時間って、君。そんな状態で対局を続けられるのですか?」
「寝不足でちょっとふらっとしただけです。できれば続けさせて下さいっ」
彼は携帯を取り出し、どこかに連絡していたが、結果、戻ることを許された。
倒れる前には残り二十分以上あったはずだが、すでに二分。
盤の下にそのまま置かれていた扇子をもう一度見た。
和歌が書かれていた。
下手な字で。
「さきの世の君が姿を夏衣に今しのぶらむ夕の海かな」
確か少女に夕海を重ね合わせたんだ。わびさびどころか、意味がよくわからないと、あきれられたっけ。
誰に――?
夢の中で会った女性、だ。
その記憶を探ると、懐かしさで胸がぎゅっとなり、涙腺が開放されそうになる。
彼女と最後に会ったのは……何かのお祭りの日。
ああ、そうだった。小春の店に向かう途中だ。
小春っ?!
恋人とは仲良くしているのだろうか。
そういえば誰か、性格のねじれた人間がいたような――。
「伏見だっ!」
思わず声に出してしまった。
盤の向こうの相手が、眉根を寄せて彩名を見る。
周囲の数人からも視線を感じ、慌ててうつむいた。
待て待て――。
今ここに彩名が戻っているということは、綾の体はあのあと、どうなったのだろう。
綾と伏見を思い出してからは、連鎖して記憶がよみがえった。どの出来事も、夢とは思えないほどの鮮明さで頭に浮かんでくる。情景と合わせて感情も想起され、鼓動が早まる。顔が火照る。
すでに目前の将棋どころではなくなっていた。
もし――。あれが夢でないとしたら。
歴史を調べれば、何か手がかりが掴めるかもしれない。
一刻も早く家に帰りたくなった。
すでに形勢は不利ではなく、敗勢。さらに少し前から秒読みだ。
早く終わってと、目に見えた最も単純な手をノータイムで指していると、しばらくして後手側の考慮時間が長くなっていることに気づいた。
何……?嫌がらせなの?もう大勢は決しているじゃない。勝利をじっくり楽しもうってこと?
内心ひそかに憤慨していると、相手も秒読みになった。
59秒の表示に、慌てて指した手に違和感があった。
微妙ながら、彩名玉への詰めろではないように思える。
あれ。確か後手陣って……。
最もわかり易い手で詰めろがかかる。
相手の顔が紅潮するのが見えた。
もしかして――逆転した?
そしてまた一つ思い出した。
寺で将棋をしたことを。
ああ、そうだった。
ここではインチキも暴力もない。
将棋指しが、世間から尊敬される世界だ。
草将棋に伏見が蔑んだ目を送っていたことが懐かしい。
あれは小春の店に初めて行ったときだった。
その前はどうだったっけ。
視線は盤面にあったが、意識は夢のことであふれていく。
周囲の景色がぼやけ始めた。
ほとんど反射だけで指が動いていたが、気づくと、相手が駒台に手を置いていた。
連敗を脱したことより、大切な緒戦を取れたことよりも、幻影に高揚していた。




