9-3
その週末、三段になって、五期目のリーグが始まった。
初日の対局場は名古屋の将棋会館だ。
八時前、通い慣れた建物に入る。
駒を並べていて、また奇妙な感覚におちいった。
最近、どこかで指したような。
なぜか動悸が激しくなった。
九時になり、一斉に対局が始まる。
挨拶のあと、先手番。
奨励会に入ってから、初手はほとんど7六歩。三段リーグの持ち時間は九十分で、序盤に長く時間を割くことはできない。
結果として、七、八割は指し慣れた振り飛車を選択していたが、その日、気づくと矢倉になっていた。
期が始まって最初の対局。
中断期間中の研究成果を、派手に披露する人間もいたが、その日の対局相手は以前に指したときと同じく、慎重に駒組みを進めるタイプで、相矢倉の展開になった。
序盤は互角だった。
特に事件も起きず中盤に差しかかったとき、また何かを思い出しそうになった。
なぜか集中することができない。
途中、何度か簡単な応手を間違えた。
銀と歩で重かったはずの後手の飛車がいつの間にか働き出し、気づくと形勢にはかなりの差がついていた。
失礼しますと小声で頭を下げ、お手洗いに立った。
個室に入り、ため息をつく。
「序盤は良かったはずなのに。特にはっきりした失敗もないはずなんだけど」
同じ言葉を過去に何度口にしたことだろう。
しばらく頭を抱えていたが、ただでさえ短い持ち時間を、後悔で消費するのはあまりに愚策だ。
手を洗い、ハンカチを取り出そうと、リュックの外側のポケットに手を入れたときだった。
覚えのない手触り。
「何、これ」
取り出したそれは、薄汚れた、長細い布の袋だった。
しばらくそれを眺めて思い出した。
「おばあちゃんだ。そういえば扇子を入れてたっけ」
ぼけ始めた祖母を思い出し、さらに憂鬱になる。
席に戻ると七分が経っていた。
敵は、矢倉の急所に8六桂と打ち込んでいる。反発しようにも、これといった手を思いつかない。やむなく同歩と応じた。
相手は同歩の一手のはずだ。だが、なかなか指そうとしない。ここは時間を使うところではないはず。
不安になり、ちらりと上目遣いに見ると、薄笑みを浮かべているように見えた。
その表情にはっとした。
チェスクロックを止め忘れていたのだ。
こんな初歩的なミスは、奨励会に入って以降覚えがない。体に染みついている動作のはずだ。
慌ててボタンを叩いたが、一分が無駄になった。
恥ずかしさを紛らわせるため、お茶を飲もうとリュックを持ち上げたとき、さっきの布袋が手に触れた。
扇子、か。
高校生には不似合いな気がして、これまで一度も持ったことはなかった。
たまにはいいか。
布の口紐を緩め、中からそれを取り出し盤の下に置く。
相手はすでに同歩としている。玉を早逃げすべきか。
扇子をぱちりと開いた。
そして。
何かの香りが鼻に到達した。
祖母はずっと物置にしまってあったと話していた。
カビかホコリだろう。
でも……。
どこか懐かしい記憶。
続けて起きたことに驚いた。
ポトリと畳に液体が落ちたのだ。
知らぬ間に、涙が流れていた。
理由がわからず、慌てて顔を伏せ、ハンカチを取り出そうとしたとき、扇子の文字が目に入った。
次の瞬間、彩名は畳の上に倒れていた。




