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8-3

 そこから相手玉が詰むまで、せいぜい二十手ほどだったろうか。


 中盤のほとんどない、過去に指したどの将棋よりも、美しく無駄のない指し回しだった。


 賭けていたものが何か、知らされていなかったことが幸いだったのかもしれない。松永側の真剣師が、それなりに強かったことも逆に功を奏したのだと思う。おそらくアマの五段以上だ。


 詰みを悟った瞬間、男の顔色が変わり、それを見て彩名も緊張した。


 僧侶のときのように、また暴力に訴えるのかと思ったからだ。


 彼はうしろに控えていた主に無言で振り返る。


 松永は大儀そうに立ち上がると、足をふらつかせながら盤に近づき、どかっと音を立てて腰を下ろした。


 盤の周囲の空気が甘い匂いに染まる。


 近視なのか、彼は盤面を近くでまじまじと見たあと、虚ろな、しかしぎょろっとした目を綾に向けた。


「お前、何者だ。こやつは、これまで一度足りとも、負けたことのない男だぞ。それを途中から参戦し、こうも易々と打ち負かすとは」


 対局者の男は、「殿、申し訳ございません」と、肩を落とした。


「まあ、いい。余興としては充分楽しめた。それに――」


 そう言うと、薄気味の悪い笑みを浮かべ、突然綾の手を掴む。


「ひっ。な、何をするのっ?」


 思わず腕を引こうとしたが、凄まじい力に微動だにしない。


「これからの勝負は、全ていただくことができるんだからな」


 酩酊しているはずの彼は、綾の腕を掴んだまま機敏な動きで中将の前に移動し、あぐらをかくと、唐突に頭を下げた。


「三条殿、頼む」

「頼むとは、いったい、何を――」


 返事をしようとした相手を松永はさえぎり、さらに続ける。


「今日の勝負は貴殿の勝利で結構。金と証文は本日中に持って参る。代わりと言っては何だが。この娘を譲ってはくれまいか。本家の屋敷を返してやっても構わぬ。さらに、今後三条殿と周囲の身の安全も約束する」


 何と身勝手で節操のない人間だろう。


 勝負に勝てば容赦なく敗者に刃を向け、負けても、自らに利するものがあれば、それが女子供であっても、手に入れることに迷いがない。


 酔った武士に強く迫られ、中将もどう応対すべきか迷っている様子だ。


 彼にとって、今、目の前にいる人間は、弟を殺した仇だ。ただ、綾は初めて会った見知らぬ町娘に過ぎず、拒み続ける名分はない。おまけに、本家の屋敷が戻ってくるなどと、望外の展開に違いない。


「ちょっと、勝手に話を進めないで下さい。わたしの都合だってあるんですよ」


 思わず口をはさんだが、松永は聞く耳を持たず、豪快に笑った。


「今と比べれば天にも昇るような暮らしをさせてやる。わしも生まれは貧しかったのだ。大船に乗ったつもりでいろ」


 このままでは本当に連れ去られてしまう。


 今の彼らの生活水準は、確かに、貴族以上なのかもしれない。ただ、どうしてか水無瀬での暮らしより快適になるとは思えなかった。


 何より、伏見がいない生活なんて――。


 そうだった。すぐにでも、彼女に無事を知らせなくては。


「あのっ。わたし、姉のところにすぐに戻らないといけないんです。急に連れてこられたので……」


 中将は済まなそうな表情をしたが、松永は一家まとめて面倒を見てやると、再び哄笑した。


 らちが開かない。


 身分を明かすことも考えたが、生じるリスクを計るだけの知識もない。酔っ払いが勢いを増す可能性も十分に考えられる。


「わかりました。お引き受けしますから。でも、一度だけ家族に会わせてもらえますか?」


 仕方なくそう言うと、彼は「おお、そうかっ」と、子供のような笑みを見せた。


「馬を引けっ」


 従者に短い指示を与え、綾の手を取り立ち上がる。


 三条は責任を感じているのだろう、不安そうにその様子を見ていたが、言葉を発することはなかった。


 どうにかなりますからと声をかけ、安心させようとしたが、その時間もなかった。


 あっという間に、強い力で部屋の外に連れ出されたのだ。


 門を出るところで、松永の足が止まった。


 通りから、祭囃子が聞こえていた。


 いつの間にか夕暮れだった。塀のずっと先には山鉾が見える。


「今日は宵山か。おい、娘、お前に祭りを案内してやろう」


 そう言うと、彼は綾の手を引き、二人の供を従えて徒歩で屋敷をあとにした。



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