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それから以降は、棋譜を思い出せないくらいに、普通の精神状態ではなくなっていた。
将棋が始まったのは午前中だったが、三段の実力を120パーセント出し切ってなお、敵を仕留めたのは真夜中だった。
最終盤、華麗なプロの指し回しはもはや見る影もない。敵陣を少しずつ削り、奪った駒を次々に並べて、ただ物量で勝負した。
帝はとうの昔に席を外し、観客の大半は酔って雑魚寝をするかいなくなり、伏見はかなり前から寝息を立てていた。
二度目の詰みを見て、四辻は疲れ切った様子で、ようやく投了した。
「いやはや綾殿の根気には恐れ入り申した。そこまで私と契ることを拒否されるとは、さすがに落ち込みますな」
勝負が終わって放心していると、伝えを聞いた天皇が姿を見せた。
綾と対面できるよう、大納言が、気遣って格子を下ろし、几帳を立て、自らは部屋を出て行った。
気配に気づいた伏見が口元を拭い、慌てて綾の御簾を上げる。
彼女がひれ伏すのと同時に、前へと進んだ。
間近で見るのは初めてだったが、実の父であったせいなのか、不思議と畏怖は感じなかった。
「いや、驚きました。あのお転婆だった綾殿が、将棋で大納言を負かしてしまうとは。余も父として誇らしく思います。ただ、醉象を軽々しく渡してしまったのはあまり感心しませんでしたね」
「恐れ入ります。確かにあの駒の使い方は簡単ではありませんでした。帝が二人存在するような状況を作ってしまったのですから」
やや大げさに言えば、将棋というゲームの本質を根底から揺るがせるような事態だ。
「例えるなら、南朝と北朝のようなものにございましょうか」
すると帝はふむと顎に手をやった。
「なるほど、それは言い得て妙ですね。武家の将棋では、使っていないとも聞いています――。ところで、褒美を取らせないといけませんね。何かほしいものはありますか」
「いえ、滅相もございません。そのようなお言葉をいただけただけで十分です」
質素な生活であるのは、宮廷も例外ではないはずだ。
それでも天皇は、そばに控えていた従者に何事か声をかけ、彼から小さな小箱を受け取ると、綾の前に差し出した。
「これは先般、後宮を退去した内侍が、輿入れにと持たされたものだと聞いています。そこに控えているのは確か伏見でしたね?お前の義理の姉です。覚えていますか?」
ずっと伏していた彼女はさらに頭を低くした。
十六重の菊の紋章が描かれた漆塗りの箱の中にあったのは、柔らかな曲線を持った櫛だった。
朱の台地に金箔の松と菊が描かれた高貴な美しさを放っている。
「つげに漆の立派な物です。やや大人向けの紋様ですが、あなたも十四ですから」
綾が恐縮しながら受け取るのを見て、天皇は満足したように部屋をあとにした。




