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暦が七月に変わり、伏見は家を留守にすることが多くなった。見たことのない女房と話している姿を、目にする機会が増える。寺の情報を、あれこれ調べているようだ。
僧侶との対局そのものは、現役の真剣師と一度対戦したこともあって、ほとんど不安はなかった。
唯一、気がかりがあるとすれば、勝負勘だ。
現代にいたときは、それが仕事であったことも理由だったが、毎日のように将棋と接していた。詰め将棋に、若手棋士との研究会、裏アカウントでのネット対戦。
小春のときは突然で悩む間もなかったが、もっとも大切な人間の、人生を賭けての勝負の前に、本来なら何局か指しておきたいところだ。
「とりあえず、過去の対局を振り返るくらいしかないか」
盤は端切れがあればこと足りる。駒を借りるため、義兄の元に向かった。
親氏はいつものように、書写をしていた。
机のそばに座り、美しいまでの筆使いに見入っていると、区切りがついたのか、彼はそっと筆を置いた。
「今日は書の日ではなかったはずですが。いったいどうされましたか」
「実は、将棋の駒をお借りしたくて」
厳しい達人の審美眼に適わなかっただけで、オークションに出せば数十万にはなりそうな失敗作が、花瓶からあふれていた。
「あんなものでよろしければいくらでも。しかし、相手はどなたです?」
従者が興味を持ったのだと、答えようとしたときだった。
遠くで笑い声が聞こえた。下品な感じの男の声。どこかで聞いたことのあるような不快な響き。
誰だか思い出せなかったが、反射で口の中が苦くなる。
「ああ、大納言殿にございます。綾殿が見合いされた御仁ですな。親方様のところにいらしておられるのです」
そう言って、含み笑いをした。
どうやらあれ以来、近くを通るたび、顔を見せているらしい。その都度、義父が理由をつけては、いなしてくれているそうだが、無下な態度を取ることはできず、結果、酒を酌み交わすことになるのだという。
「まあ、義父上も呑むことはやぶさかではないお方ですからな」
彼の前で歌って踊ったことを心から後悔した。
次に会ったとき、どう感謝の言葉を伝えようか考えながら、花器の中身を半分ほど床にばら撒き、用意していた風呂敷に、必要な四十枚を拾い集めていたときだ。
どかどかと足音が近づいてきた。明らかに脚の悪い人間のものとは違う。
義兄と目が合った。
「どうやら今回は止めることができなかったようですな。ほれ、駒はそのままで結構です。お戻りになられよ」
武器も持たずにラスボスに遭遇した心境だ。
慌てて逃げ出したが、彩名の将棋指しとしての短い人生で、唯一得た格言が頭の中を巡っていた。
嫌な予感は高確率で当たる、だ。
廊下を早足に逃げる背中を、足音が追ってくる。御簾の中に飛び込んで間もなく、それは姿を現した。
「これは驚きましたぞ。まさか綾殿が将棋に興味をお持ちだったとは。いやあ、もっと早う知っておれば」
音量ツマミが壊れているのかと思うほどの大声だった。御簾越しにも、はっきりとわかる真っ赤な頬を見ても、大納言が泥酔しているのは明らかだ。
右の手に、今さっき綾が集めていた駒を持ち、どかっと部屋の真ん中に腰を下ろした。
「私もめっぽう好きなほうでしてな。酒や書を賭けてよく指しております」
怪しいろれつで、誰を相手に、何を巻き上げた、などと、自慢話を始めた。
彩名の父はビールしか飲まず、それもせいぜい一缶だ。酔っぱらいはテレビの中でしか見たことがない。
大納言が呼吸をするたび、独特の甘い匂いが鼻をついた。
これが酒臭いという状態か。
丸い中年男の体内から排出された物だと思うと、不快指数が上昇する。
しばらくして、喋り疲れたのか、顔を下に向けて黙ったかと思うと、突然あぐらをかいたまま高速で御簾にすり寄ってきた。
「ひいぃっ」
ただでさえ能天気な人種だ。それが酒にのまれてどういう行動に出るのか予測できない。
そして、不安は簡単に当たった。
彼は片膝をつくと、おぼつかない手の動きで御簾に手をかけ、それを引き上げようとしたのだ。
直前にその動きを察知し、どうにか阻止したが、竹で編まれた仕切りをはさんで、相手の荒い息づかいが迫ってくる。
伏見と叫ぼうとして留守であることを思い出した。
彼女に聞かされていた。
御簾の中に入られることの意味を。
盾になる者がいない状況で、酔った男に対処できる自信は皆無だ。
恐怖で体が硬直する。
「将棋は別の日にお相手いたしますから。今日はお引き取り下さいっ」
懇願したのが逆効果だった。綾の声を間近に感じたのだろう、さらに勢いづいた。
「ま、そう言わず。ほれ、駒もありますゆえ。まずはお顔を拝見させてくだされ」
そう言ってさらに力を入れた。
開けられたら終わりだ。
体当たりを繰り出しながら、どうにか抵抗を試みる。
「もし、将棋で負ければ、そちらのお望みは全てお聞きしますからっ。ひとまず今日のところは――」
そこまで口にしたとき、突然相手の力が緩んだ。
大納言は浮かせていた腰をどすんとつき、その頭がふらふらと揺れたかと思うと、裏返った声で叫んだ。
「まことにございますかっ?」
一瞬、何を問われたのか、わからなかった。
「何がでしょう?」
「勝負に勝てば、私の願いを叶えてくださると、今、そう仰いましたぞっ」
「え、ええ。それはわたしにできることでしたら――」
「私の室に入っていただけるということに、相違ありませんかっ?」
「こちらが負ければ、ですよ?」
しかし、相手はその返答を聞いていなかった。
「承ったっ」
天井に向かって絶叫すると、ふらつきながら立ち上がり、妖怪のような足取りで部屋を出て行った。
その姿を息を止めて見送る。
足音が聞こえなくなるのを待って、伏見の居室に逃げ込み、肺の空気をすべて吐き出した。




