6-2
翌日、彼女にしては珍しく、太陽が昇って早々に姿を見せた。
所用があるからと外出の許可を求められる。
本当なら和歌を教わる予定だった。
前日の疲れもあって、二つ返事で了承した。
一度、部屋を出たあと、伏見はすぐに戻ってきた。
「ちょうど小春殿からいただいた和紙があったはずです。せっかくですから、歌を送りましょう。私が戻るまでに書き終えておいて下さい」
「え。いや、お前がいなかったら書けないよ、歌なんて。それに硯の場所も――」
「いつまでも私がおそば仕えできるとは限りませんよ」
悲哀を誘うような余韻を残し、彼女は去っていった。
小学校に入る前、母が、利かん坊だった彩名を諭すためによく口にしていた言葉を思い出した。
「お母さんが死んだらお父さんの言うことだけは聞いてね」
子供ながらに、冷や水を浴びせられたような、暗い気持ちになった。
「やり方が姑息だよ……」
仕方なく硯を探し出し、小春からもらった和紙の一枚を机に置いてみる。
「ゼロから作るなんて無理だ。川柳くらいならどうにかなるけど」
いつもは、伏見が例題に作ったものを改ざんしていたというのに。
頭を抱えていると、女童がお昼を運んできた。
早朝から蒸し暑かったせいか、彼女は小袖を肩口まで腕まくりをし、足は太もものあたりで器用に折り畳んでいる。
「涼しそうね。ところで、お前は歌を詠んだことはあるの?」
すると彼女は頬を赤くして、一歩下がった。
「い、いえ。私はそのようなことは。地下の者にございますゆえ」
現代ではまだ小学生くらいの年頃だ。そんな彼女が平然と身分を卑下する姿に、一瞬何も感じなかった。
とりあえず、貴族としての生活には順調に適応しているらしい。
太陽が真南を過ぎてしばらく、回廊の縁側に腰かけ、蚊やりから立ち上る煙をぼんやり見ていたとき、伏見が戻ってきた。
買い物か何かだと思っていたが、手ぶらだ。
世間を斜めから見ているような普段の表情ではなく、わずかに真剣な様子が窺える。
彼女は綾を見とがめると、真っ直ぐ近くまで足を進め、無言で隣に正座した。
「お帰り。どこに行ってたの?」
「――歌の首尾はいかがですか?」
「あー……。うん、そこそこ」
まさか半日で一首しかできてないとは言えない。しかし、相手にもいつもの切れがなかった。
何もない空に目をやり、また押し黙った。
「どうかした?恋の悩み……ならどうにもできないけど」
彼女は口を真一文字に結ぶと綾を見据えた。
「綾様……」
「どうしたのよ」
「いえ、何でもございません」
しかしそばを離れる気配がない。
「ねえ、隠し事はやめてくれる?わたし、この時代……いえ、この世界であなたしか信頼できる人間がいないんだから」
その言葉に、従者はわずかに表情を緩めると、主君に正対し、三つ指と額を冷たい板につけた。
「綾様、一生に一度のお願いがございます」
思わず彩名も座り直し、背筋を伸ばす。
「ど、どうしたの?また何か壊したとか?」
しかし彼女は頭を下げたまま動かない。
「将棋を……教示いただけないでしょうか」
まったく予想していなかった、と言えばそれは嘘かもしれない。
彼女の将棋嫌いと、その経緯を知ってしまったのだ。そう請われてしまえば、動機は一つしかなかった。
「もしかして、お坊さんに挑戦するつもり?」
伏見は時間をかけて顔を上げると、こくりと頷いた。
「噂には聞いていたのです。あのとき、父を打ち負かした僧侶が寺を再建したと。ここから一刻ほどのところにございました」
綾に出来たことが、自分に無理なはずないと考えているのだろう。
ただ、奨励会三段の棋力になるのに、彼女が人生を二度やり直してもきっと足りない。
「復讐、ね」
ようやく忘れていたつらい記憶を呼び覚まし、あまつさえ期待を抱かせてしまった遠因は彩名にある。
決断は比較的簡単にできたが、賢明な従者より優位に立てる、おそらくは最初で最後の機会。簡単に逃すわけにはいかなかった。
「お前に将棋は教えられません」
どんな反応を見せるのかを期待しつつ、できるだけ冷たく言い放った。だが、彼女は瞬きを一度しただけで、以降は口を半開きにして、綾をただ見つめている。
いったい、どんな気持ちでいるのか。
段々と気恥ずかしくなってきた。
「その代わりと言ってはなんですが――。わたしが敵を討ってあげます」
またしても負けた気分だ。
ただ、相手はやはり表情を変えなかった。
主人がそう言うと、予測していたのかもしれない。いずれにしても、驚かせがいのない人間だ。
正座の状態から、膝立ちで近づく。
「でも、一つだけ気になることがあるの。賭け将棋ということは、こちらも何かを差し出さないといけないんだよね」
「それなら心配ありません。ここにございます」
そう言って、自分の胸に手をやり、小さく微笑んだ。
ある程度は想像していたが、言葉にされると、万が一にも負けた場面を思い浮かべて体が強ばる。
「向こうには何を求めるの?」
「それは……考えておりませんでした。父が戻ってくることはなく……。連中がただ困る姿が見たいだけなのかもしれません。そのような私怨に姫宮を巻き込むなど、側付き失格でございます」
伏見が、おそらく初めて垣間見せた心の弱さに、どう反応すればいいのか、言葉を失う。
「今はもう姫宮ではないから」
気を和らげようと軽く言ったつもりだったが、彼女は寂しそうに微笑んだ。




