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5-5

「あの、もしよければ宗也さんに代わってもらうことはできませんか?」


 振り返った先にいたのは――小春だった。


 唇は紫に変色し、湯気が出そうなくらい頬を染めている。


 その潤んだ瞳に気圧され、一瞬、返事ができなかった。


「え……と。わたしですか?」


 観衆の喧騒がさらに大きくなる。蔵貸しは不快そうに彼女を睨んだ。


「おい、ふざけるなっ。そんなこと許されねえぞ」

「で、でも。そちらだって違う人に頼んでるじゃないですか……」

「そ、それは勝負が始まる前だからだっ。途中からなんて聞いてねえ」


 相手はやや勢いを弱め、その変化を嗅ぎ取った野次馬たちから、それは理屈が通らねえと声が飛び始めた。


 それに力を得たのだろう、小春は将来を誓った男の肩に手をやった。


「ね、お前さんもそう思うでしょう?」


 彼は苦渋に満ちた表情を見せた。


 きっと恋人を自分の力で救いたいと思っているに違いない。しかし、対局相手の不気味さと、重責にうち震えていたのも確か。


 そして、当の彩名は不思議とその誘いに高揚していた。どこかで、願っていた展開だったような気がしたのだ。


 他人の人生を背負うことになる重みは理解していたつもりだ。小春や婚約者だけではない。きっと綾にとっても。


 だが、この場所に来て以来、ずっと目にしていた盤面が、先を読む楽しさが、恐怖をいつしか溶かしていた。


 これまでの指し手で、真剣師の実力もある程度は把握している。


 現代の三段が、この程度の相手に負けるはずがないという、自信と確信が芽生えてもいた。


「とにかく。最初に取り決めがなかった以上、そっちの言い分を聞くいわれはねえぞ」


 蔵貸しは語調を荒げ、腕を組む。


 それを見た小春は、唇をぎゅっと噛み、毅然とした態度で彼に一歩近づいた。


「それなら……もう一つ、賭けますからっ」

「何を賭けるっていうんだ。お前らに賭けるものなんてもう何も――」

「わ、私です。もしそこのお嬢さんに代わって、それでも負けたら、私をどうにでもして下さいっ」


 どよめきで、空気が地鳴りのように震えた。


 続けて、泣きそうになった宗也が、転がるように立ち上がり、許嫁の両肩を強く掴む。


「小春、馬鹿なことを言うなっ。金や家がなくとも、二人がいればまた一からやり直せるんだぞっ」

「宗也さん、どの道、このまま負けてしまえば私たちに住む場所もなくなります。お金や家だけじゃないんです……。いえ、とにかく、きっと生きていくことなんてできません」


 その真っ直ぐな眼差しに曇りはなかった。


 観客たちから、ここで引いたら男がすたると口々に言われ、蔵貸しは言葉を失っている。


 やがて、その言い争いを黙って聞いていた真剣師が静かに口を開いた。


「いいんじゃねえですか?」

「な、何だと?お前、雇われの身でいい加減なことを――」

「あっしも、そろそろひと所に身を置いて、まっとうな暮らしをしたいと考えていたところです。もし勝てば、そいつをわしの嫁にもらえませんか」


 そう言って雇い主を見上げた。


「お前、勝てるんだろうな」

「そればっかりはやってみないとわかりません。それは、この若造だって同じことです。腕前がどうこうってことじゃない。死ぬ気でやってこられりゃ、簡単じゃない。そっちの娘は、物覚えはいいみたいですがね」


 蔵貸しは、綾と宗也を交互に見比べていたが、やがて舌打ちをした。


 結局、小春側の賭けの対象に、小春自身が追加されることが決まった。


 宗也は憔悴し切った表情で綾のそばにきた。


「お前さん、いったいどこの娘さんだ?この近所では見ないようだけど」

「わたしは……相国寺のそばに住んでいる、あやというものです。将棋はおじいさんに教えてもらいました」

「おじいさんって……。さっきは助けてもらったが、この勝負は子供の遊びじゃないんだ。小春は、ああ言っちゃいるが、軽い気持ちなら断ってはもらえないか」


 彼の不安は当然だ。初めて会った小娘に、二人の残りの人生を託そうというのだから。もしかしたら敵方の刺客の可能性だってある。


「遊びじゃない、のはわかってるつもりです」


 ただ、最初にこの代役を思い浮かべたときに想像した重圧は、今はどこにもなかった。


 誰かの役に立てるかもしれない。彩名自身の能力によって。


 二人に感謝されるイメージが浮かぶと、頭が熱を帯びたようになる。


 綾が断る気配を見せないでいることに、彼は諦めた様子で深いため息をついた。


「まあ、いい。これも何かの縁か、運命だろうよ」


 そう言って、縁台への道を空けた。


 真剣師が、蔵貸しが、小春が一人の少女を見つめている。


 すぐ隣で仏に祈り始めた宗也と、うしろからは、野次馬たちの無責任な声援。


 綾が縁台の前に立つと一瞬の静寂が訪れた。


 盤面が驚くほどはっきりと目に入る。頭が透き通り、これまで経験したことがないくらいの速度で展開の予測が始まった。


 さっきまで宗也がいた場所に正座したとき、小春が何か声をかけたようだったが、それも耳に入らなかった。


 世界の全てが八十一マスに凝縮される。


 周囲がぼんやりし始めた。


 景色が灰色に変わる。


 次の瞬間、予想していた場所に、相手の手が伸びた――。


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