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最初に反応したのは蔵貸しだ。
「誰だ、てめえ。小娘が何を言ってやがる」
遅れて、真剣師の試すような声調。
「どこが違うって?」
彼を正面から見るのは初めてだ。
濁った目だった。そう感じた。
せいぜい四十くらいなのだろうが、十以上は老けて見える。
きっと文字通り修羅場ばかりの人生なのだろう。
一枚の薄い板を隔てた先では、勝負のたび、誰かが泣き、誰かが命を落としてきたのだから。
「四筋の歩の位置が。三段目だったでしょ」
今、その歩は4二にあった。
「おい、部外者がいい加減なことを言うんじゃねえぞ。お前はどうなんだ」
蔵貸しが宗也を睨んだ。
しかし、彼は顔を蒼白にしたまま、真剣師と綾を交互に見るだけだ。
「部外者?違うでしょ。ここにいる全員が立ち会いなんだ。あなたたちを含めて、みんながどこかでそれを認めているから、勝負が成立しているんじゃないの?」
頬が熱くなるくらいに緊張していたのはわかったが、それでいて、頭の中は秋空のように澄み渡っていた。
不思議と恐怖を感じない。
そうだ。
こと将棋に関しては、この場にいる誰よりも、きっと彩名が一番強く、上手なのだから。
ああ、思い出した。
小学生の頃を。
地方の大会で優勝した、あのときの高揚を。
負かした相手の子たちの心底悔しそうな顔。その親たちの不満そうな目。そのどれもが彩名にとっては勝利の証だった。
ゆっくり前へと進み、縁台のすぐそばに立ち止まる。真剣師の目を見据えると、相手は、視線をわずかにそらせた。
「お前さん、何を根拠にそんなたわ言を」
「それが、真実だからよ」
「おい、聞いたか。真実だとよ」
笑いながら子分に同意を求めた蔵貸しの、その胸中に生じた小さな違和感さえも感じ取ることができる。
「間違ってるって、証拠もある」
その言葉に真剣師の目が光り、見物客がざわつき始めた。
最後は人の記憶しか頼る物がない状況。どうあがいても水かけ論になるはずだ。
きっと誰もがそう思っただろう。
「ほう。おもしろいことを言うな。では、その証拠とやらを見せてもらおうか」
興味深そうに薄笑みを浮かべた男のうしろで、彼の雇い主が不安そうな表情に変わった。
「今、この局面だけど」
彩名はゆっくり盤に指を向ける。
「このままだと、手数はかかるけど、角を切る比較的分かり易い手順で、若い方の玉は詰んでしまう。おそらく三十手か、四十手で。でも、あなたはかれこれ四半刻、次の指し手を考えていた。あなたほどの腕前なら、こんな簡単な詰みを見つけられないはずがない。違う?」
相手は綾の目を見たまま瞬きもしなかった。
「たった一ヶ所、歩の位置が違うだけでまるで違う将棋よ。この歩が角道を止めているかどうかで」
真剣師の一段目の角は、おそらく不気味さを演出するために打ったものだったろう。
しかし、現実にはそれがほとんど攻撃には有効でなかった。
4三に歩と、4四にも銀があり、簡単に角が働く状況にはなっていない。
一局に一度だけ、歩がうしろにも下がれるよう、ルール変更をしてくれないだろうか、などという無意味な妄想を、対局中にした経験がある。
真剣師は一度、雇い主に振り返り、それから宗也の目の奥を覗き込むような眼光を見せた。
「お前さんは、どうなんだ。直すのは、この一度きりだぞ」
宗也は綾を一瞥してから、震えた声で返事をした。
「確かに……。もう一つ前だった気がする……」
空気に重さを感じるほどの沈黙のあと、真剣師は右手で鼻のあたりをこすり、黙って歩の位置を元に戻した。
周囲から喚声が上がる中、彩名は深く長い息をはいた。
元いたところに戻ろうと背中を向けたときだ。
手首がぎゅっと握られた。
細く冷たい手だった。




