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5-4

 最初に反応したのは蔵貸しだ。


「誰だ、てめえ。小娘が何を言ってやがる」


 遅れて、真剣師の試すような声調。


「どこが違うって?」


 彼を正面から見るのは初めてだ。


 濁った目だった。そう感じた。


 せいぜい四十くらいなのだろうが、十以上は老けて見える。


 きっと文字通り修羅場ばかりの人生なのだろう。


 一枚の薄い板を隔てた先では、勝負のたび、誰かが泣き、誰かが命を落としてきたのだから。


「四筋の歩の位置が。三段目だったでしょ」


 今、その歩は4二にあった。


「おい、部外者がいい加減なことを言うんじゃねえぞ。お前はどうなんだ」


 蔵貸しが宗也を睨んだ。


 しかし、彼は顔を蒼白にしたまま、真剣師と綾を交互に見るだけだ。


「部外者?違うでしょ。ここにいる全員が立ち会いなんだ。あなたたちを含めて、みんながどこかでそれを認めているから、勝負が成立しているんじゃないの?」


 頬が熱くなるくらいに緊張していたのはわかったが、それでいて、頭の中は秋空のように澄み渡っていた。


 不思議と恐怖を感じない。


 そうだ。


 こと将棋に関しては、この場にいる誰よりも、きっと彩名が一番強く、上手なのだから。


 ああ、思い出した。


 小学生の頃を。


 地方の大会で優勝した、あのときの高揚を。


 負かした相手の子たちの心底悔しそうな顔。その親たちの不満そうな目。そのどれもが彩名にとっては勝利の証だった。


 ゆっくり前へと進み、縁台のすぐそばに立ち止まる。真剣師の目を見据えると、相手は、視線をわずかにそらせた。


「お前さん、何を根拠にそんなたわ言を」

「それが、真実だからよ」

「おい、聞いたか。真実だとよ」


 笑いながら子分に同意を求めた蔵貸しの、その胸中に生じた小さな違和感さえも感じ取ることができる。


「間違ってるって、証拠もある」


 その言葉に真剣師の目が光り、見物客がざわつき始めた。


 最後は人の記憶しか頼る物がない状況。どうあがいても水かけ論になるはずだ。


 きっと誰もがそう思っただろう。


「ほう。おもしろいことを言うな。では、その証拠とやらを見せてもらおうか」


 興味深そうに薄笑みを浮かべた男のうしろで、彼の雇い主が不安そうな表情に変わった。


「今、この局面だけど」


 彩名はゆっくり盤に指を向ける。


「このままだと、手数はかかるけど、角を切る比較的分かり易い手順で、若い方の玉は詰んでしまう。おそらく三十手か、四十手で。でも、あなたはかれこれ四半刻、次の指し手を考えていた。あなたほどの腕前なら、こんな簡単な詰みを見つけられないはずがない。違う?」


 相手は綾の目を見たまま瞬きもしなかった。


「たった一ヶ所、歩の位置が違うだけでまるで違う将棋よ。この歩が角道を止めているかどうかで」


 真剣師の一段目の角は、おそらく不気味さを演出するために打ったものだったろう。


 しかし、現実にはそれがほとんど攻撃には有効でなかった。


 4三に歩と、4四にも銀があり、簡単に角が働く状況にはなっていない。


 一局に一度だけ、歩がうしろにも下がれるよう、ルール変更をしてくれないだろうか、などという無意味な妄想を、対局中にした経験がある。


 真剣師は一度、雇い主に振り返り、それから宗也の目の奥を覗き込むような眼光を見せた。


「お前さんは、どうなんだ。直すのは、この一度きりだぞ」


 宗也は綾を一瞥してから、震えた声で返事をした。


「確かに……。もう一つ前だった気がする……」


 空気に重さを感じるほどの沈黙のあと、真剣師は右手で鼻のあたりをこすり、黙って歩の位置を元に戻した。


 周囲から喚声が上がる中、彩名は深く長い息をはいた。


 元いたところに戻ろうと背中を向けたときだ。


 手首がぎゅっと握られた。


 細く冷たい手だった。


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