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5-2

 それからしばらくは、綾としての日常が戻ってきた。


 あれ以来、見合いも歌合も誘いがない。


 殿上人たちの間では、あの災禍の噂がすぐに広まったようだ。


 とはいえ一矢報いるようなことは到底不可能で、ただ次が自分の番とならぬよう、誰もが息をひそめているに違いない。


 親氏に書を習い、伏見に歌や文の書き方を教わっている間は、悲劇を忘れることができた。


 習い事のない日は、町娘として外に出かけた。


 周囲の気遣いのおかげで、右大臣の屋敷を思い出す回数が減り始めた頃。


 小春たちの運命の日がやってきた。


 その日、朝の食事のあと、縁側に座り、足をぶらつかせながら一人曇り空を見上げていた。


 そろそろ蚊の季節。庭先では四角い陶器から煙が立ち込めている。青草らしきものを乾燥させ、それに火をつけて燻すらしい。ただ、現代の蚊取り線香にはほど遠く、煙はやたら目にしみるし、匂いも苦々しい。さらには効果も怪しかった。


 遠くに女童の声がした。


 どうやら伏見ではない、もう一人の女房と言い争いをしているようだ。


「どうして言われたことができないのっ」


 彼女はやや短気で、伏見に比べて学がない。家格もかなり低いらしく、そのことを自覚しているのか、自分より身分の低い少女に八つ当たりすることが多かった。


 ほどなくして、女童が廊下を走って来る音が聞こえた。きっと伏見に愚痴を聞かせに行くのだろう。


 綾を見とがめると、歩みを緩め、会釈しながらしおらしく通り過ぎる。


 角を曲がり、姿が見えなくなると、また走り出した。


 池の水面に小さな波紋が見え、それが何ヶ所にも広がった。


 雨が本降りになってしばらく、伏見が姿を現した。


 綾から少し離れた板の間に、美しい所作で正座した。


「あの子は?」

「寝かしつけたところです」

「優しいのね。可哀想な立場だけど、せめてお前がいてくれるのが救いよ」


 伏見はそれには答えず、庭に目をやった。


 雨の音とともに、水蒸気に混じった草の香りが強くなる。知った匂いの気がして、草花の名前を思い出そうとしていると、彼女はややうつむき加減になり、静かに口を開いた。


「どう、なさいますか」


 自害の決意でも確認しているかのような声音だった。


「どうって。何のこと?」

「いえ、そういうことでしたら、私は特に」


 素直に紙屋へ行きたいと言えばいいではないか。


「今日は、一人で出かけたら駄目だからね」


 強めの口調で言うと、彼女は顔を上げ、目を見開いた。


「それは何故にございますか?」

「他人の不幸を楽しみにするというのは、下世話だからよ」


 小春が気がかりなのは、彩名だって同じだ。ただ、そんな心情を見透かされた上で、野次馬根性を、主人の側から発動させようという魂胆が気に入らない。


 説教をしたはずなのに、相手は楽しそうに笑った。


「それなら……致し方なくございますね」


 そう言って、庭の蚊やりに目を向ける。


 火の勢いは、落ちてきた雨に衰え、より合わせた糸のような細い煙がかろうじて立ち上っているだけだ。


「綾様は、お一人では髪を結うことができません」


 誰もいない庭に向かってそう呟いた。


「ちょっと目立つかもしれないけど、結んでしまえばどうにかなるでしょう」

「私の手伝いがなければ、お着替えのある場所もご存じないはずですが」


 勝ち誇った表情の伏見と視線が交差する。


 やがて雨は小雨となった。


「わかったよ。わたしが出かけたいんです。だから準備して」



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