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4-2

 右大臣の屋敷は洛中の小さな小川のほとりにあった。


 水無瀬家を出て、一条通りまで行き、西へ向かうと西洞院川と呼ばれている堀に突き当たる。


 そこから川沿いに半時ほど下ったところだ。


 目的地に近づくにつれ、他の家の牛車や馬が集まっているのが見えた。


 太政大臣がいない中で、上から二番目に偉い立場の貴族だけあって、屋敷は、これまで見た中では群を抜いた広さだった。そして伏見の言葉通り、訪客の多くは武士たちのようだ。


 貴族たちは多少の振り幅があるにせよ、これまで何人かと接している。しかし、武人となるとまるで初めてだ。


 軽く緊張しながら門を抜ける。


 客を出迎えていたのは、西園寺ではなく、目をギラギラさせた男で、名を松永と言った。


 伏見によれば、管領は細川家だが、実権は管領代の三好が握っていて、今、京都で知らぬ者はいないほどに勢いがあるのだという。彼はその家臣の中でも筆頭格だという。


 竹細工の主人から聞いた、詰め将棋で庶民の人気取りをしていた人間も、同じ名前だった気がするが、そんな知的な気配はまるでなく、人間の形をした野獣という雰囲気だ。


 すでに帰りたくなっていたが、建物に入ると、意外にも御簾や几帳が適所に配置されていて、その一つ、畳が二枚敷かれた場所に伏見と二人で案内された。


「見て。ちゃんと高麗縁(こうらいべり)だよ」


 畳の縁取りの模様が、位階によって異なることを聞いたときは、貴族が、いかに見栄と格式に依存して生きているのかを思い知らされた。


「当然至極。その程度の配慮がなされていないようであれば、即刻退席すべきです。そもそも、宮様は大紋であってしかるべきだというのに」


 板の間に控えた彼女がつばでも吐きそうな勢いで顔をしかめたとき、遠くに歌が聞こえた。


 提示されたお題に二人が歌を詠み、審判が優劣を判定するという競技らしい。彩名にそんな芸当ができるはずもなかったが、出番が回ってきても、伏見が助けてくれる手はずになっている。


 その部分での心配はしていなかったが――そんな準備はまるで不要だった。


 歌が詠まれたのは、おそらく最初の数回かだけ。それ以降は、さながらビッグプロジェクトの打ち上げのような雰囲気で、ただのどんちゃん騒ぎと化したのだ。


 伏見は、原形をとどめないほどに顔を歪め、口から魂が出そうなほどに悪態をつく。


「まさに地獄。ああ、一刻も早く帰りたく存じます」


 そこまで悶絶するものかと、従者の美意識に感心してしばらく、正親町の中将が姿を見せた。


「内親王殿下におかれましては、本日、ご機嫌麗しく」


 三日前、歌合の話題を持ち出したあとから、彼の態度に変化があったことは感じていた。


 あの日、初めて言葉を交わしたときから、どこか斜に構えるような気配を身にまとってはいたが、それとは別次元だ。


 それが今も続いていて、おそらく、それが彩名がずっと感じている胸騒ぎの根源だ。


「失礼でなければ――何か気がかりなことでもあるのですか?」


 返事があったとしても、歌が下手なのです、などという内容でないのはわかっていた。


 相手は予想外に長く思い悩んだ様子を見せていたが、やがてため息をつくと、か細い声を出した。


「いずれわかることにございます。隠す必要もありませんね」


 そう言って、綾の御簾にすり寄った。


転法輪(てんぽうりん)三条の継嗣殿が、借金のカタに奪われた本家の屋敷をどうにか取り戻そうと、武家と交渉されるのです」

「交渉、ですか?」


 こんな宴会の場にはそぐわぬ単語に、嫌な予感がした。


「いったいどうやって?」

「賭け事にございます」


 その答えに、隣に控えていた伏見の眉間にシワが寄った。


「転法輪殿は……何を賭けるのでしょう」


 目の届かない地方の荘園から、武士たちに地権を奪われる一方の時代。天皇ですら日々の暮らしに困窮している中で、最後の砦の京の屋敷までが相手の手中に落ちた貴族に、差し出せるものがあるとは思えなかった。


 しかし、正親町はその問いには答えず、重苦しい様子で綾に一礼すると、その場を去った。


 御簾越しではあったが、この地で、何か尋常ならざる事態が進行中であることは理解した。


 伏見は口元に手をやり、しばらく黙考していたが、やがて顔を上げた。


「転法輪は三条の本家筋です。格も一つ上がって清華(せいが)。ただし、ご嫡子がいらっしゃらなかったはずで。確か正親町から養子に行かれたはずです」

「正親町?それってもしかして……」

「ええ、中将殿のご兄弟かもしれません」


 彼が去ってから、何人かの武士たちが綾の前に姿を見せた。


 誰もが等しく武勇伝を語る。


 それが彼らのレゾンデートルである以上、仕方のないことだが、他人の人生を蹂躙することにしか価値を見い出せない、野生の生き様にはとても共感することができない。


 食事のため、御簾の下五十センチほどを開けているせいか、いつになく相手との距離が近く、そして彼らの熱意が高く感じられた。


 あとどれほど我慢すれば義父の顔を立てたことになるのか、伏見と相談していたときだ。頬をりんごのように赤くした無骨な男が姿を現した。


 綾の前に音を立てて腰を下ろしたその態度は、これまでの武士たちの中でもさらに、作法に無頓着に思えた。


 烏帽子をかぶってはいたが、まるで似合っていない。年は三十前後だろうか。直垂を着崩していて、肌が露出している腕や胸元には、傷跡が見え隠れしている。


「さてさて、こちらはどこのお姫様にあらせられるか。ぜひお声を聞かせ願いたい」


 外見ほどには酔っていないようだったが、仮にも皇族を相手にする態度ではなかった。


「下がりなさいっ。お前のような身なりの者にかける言葉はありません」


 伏見の強い非難も、まるで意に介する様子がなく、耳まで口角を上げ、声を低くする。


「ほほう。それはますますお知り合いになりたく存じますな」


 殺気が、それまでの男たちとは桁違いであることを、五感で察した。さらに罵倒しようとした伏見を、手で制した。


「わたしは水無瀬の息女、綾です。そちらは?」

「水無瀬……?ああ、書道の名家ではございませんか。私も掛け軸などを買い求めさせていただいておりますぞ。我はこの家の当主、松永が家臣、河合にございます。それにしても、何と可愛らしいお声か。ぜひ、お顔を拝見させていただきたく」


 下品に笑い、あぐらのまま近づこうとしたが、伏見が素早く御簾を下ろした。


「なかなか手強いですな」


 相手はかすれた声で冷笑したが、御簾越しにも、側仕えを睨む目つきが、殺人鬼のようだ。


 唯一の身寄りを、歌会で失うわけにはいかない。


 話題を変えようと、頭を猛回転させた。


「今、松永殿のお名前を出されましたが。ここは、西園寺公のお屋敷なのではないのですか?」

「これはしたり。我としたことが。確かに仰せの通りでございますな」


 そう答えたが、言葉とはうらはらに、その語感に間違いを指摘されたときの気配がない。


 その意味を考えていると、若い武士が小走りに河合のそばにきて、何かを耳打ちした。


 彼は「わかった」と小さく頷き、得体の知れない笑みを浮かべた。


「申し訳ございません。どうやら座興が山場を迎えるようです。立ち会いを任されておりますゆえ、一旦、失礼させていただきたく」

「構いません。歌合が再開されるのですか?」


 すると、彼は口を耳まで裂き、薄気味悪い声を出した。


「これはこれは。何もご存じなく今日ここにいらしたので?」


 伏見を見るが、彼女も意味がわからないという表情だ。


「よろしければ、庭に場所を設けさせますが?」

「ですから。いったい何があるというのです?」


 そして、相手の返答に息が止まった。


「将棋にございます」


 低い声で、しかしはっきりとそう言った。


 中将の表情を思い出し、胸騒ぎが起こる。


「まさか……。賭け将棋、ですか?」

「左様にございます」


 隆盛とともに、武士たちは金と力を得たが、家柄だけはどうあがいても書き換えることはできない。だが、地位や身分はその限りではなかった。彼らは、彼らの言う正当な手段をもって、それらを獲得しようとしているという。


「将棋が……正しい手続きだと言うのですか?」

「では、我々の土俵、すなわち、刀を交えたほうがよろしいとでも?」

「三条殿は……いったい何を代償とされるのでしょうか」


 官職には権官を含めても数に限りがある。そもそも上達部でない貴族たちは、武士たちの任官へ関与することもできないはずだ。三条の若き当主が、そんな高位にあるとは思えなかった。


「左中将という立派な肩書きをお持ちではありませんか」

「何ですって……」


 すでに屋敷もなく、その上、地位さえも奪われることになれば、貴族は自ら生きるすべを失ってしまう。誰かの庇護があればともかく、そうでなければ路頭に迷う以外の道がなくなるのだ。


 武士たちが、貴族の身分を得たことは歴史の教科書に記されているが、それは金や人脈を掌握しての結果だと思っていた。


 そして、河合が、説明の最後に付け足した、「ただし」という接続詞に、場の空気が揺らいだ。


「本日、三条殿はやや身に余るものを所望されましてな」

「それは……どういう意味ですか」

「屋敷と、荘園の両方を一度に取引したいと。本家の跡継ぎとして、気概を見せたかったのやもしれませぬが、彼の方の役職にはやや見合わなかったようで」


 風もないのに部屋が冷気に包まれる。現代社会では、もはや居場所のなくなった、物の怪の気配を背中に感じた。


「いかがですか、我も二人目の妻を欲していたところです。綾殿も何か必要なものがございますれば、こちらは勝負にやぶさかではありませんが――」


 薄ら笑いを浮かべた河合の言葉に、伏見は声を震わせた。


「ぶ、無礼なっ。下がりなさいっ」


 だが、彼はまったく気にかける様子もない。


「あとでまたお会い致しましょう」


 子供を相手にしているかのように、去っていった。


 中庭の様子は室内からは窺えない。賭け将棋が佳境を迎えているのだろうか、人の流れが途絶える。


 貴族は正親町以来、一人も綾の元に姿を見せておらず、武士たちの気配もなくなった。


 往訪から三時間は過ぎている。


「そろそろ、帰ってもいいんじゃない?」


 本心で言えば、将棋そのものに興味はあった。だがそれは、対局者が官位以外に何を賭しているのかをわかっていなかったからだ。


「承知しました。お義父上への義理は果たしたでしょう。では、最後に右大臣殿にご挨拶をしてから失礼いたしましょう」


 伏見が女房を一人呼び、御簾の中に招き入れると、彼女は綾に頭を下げた。


「そろそろお暇させていただきたく。西園寺公にお目通り願えますか?」


 その申し入れに、顔を上げた侍女は眉根を寄せ、伏見を見やった。


「伏見殿は――ご存じないのですか?」

「どういうことです?」

「当主は、名前と場所をお貸しになっただけなのです」

「意味がわかりかねます」

「この場におられたくはなかったのでしょう」


 その先を言うべきか悩む様子を見せていたが、遠くで名を呼ばれると、もう一度頭を板につけ、ほっとしたように二人の前から姿を消した。


 再び伏見を見たが、やはり小さく首を傾げるだけだ。


 仕方なく、外装を身に付け、屋敷を出ようと廊下に出たときだった。


 中庭で怒声にも似た歓声が上がった。


 見ると、庭の中央付近を取り囲むように人が集まっている。


 廊下は一段高く、背の低い綾でも人垣からその先が垣間見えた。


 庭に敷かれた畳の上、かがり火に映し出されていたのは三人の男。その中央には将棋盤がある。


 盤の一方であぐらをかいていたのは、貴族でも武士でもない、着流しを身にまとった、痩せて目つきの悪い男だった。杯を手に視線を落としている。


 その相手だったのだろう、盤のすぐ横で体を激しく震わせながら少年のような貴族が土下座していた。


 その横顔に、不安が体に浸透した。


 正親町の中将の面影があったからだ。伏見の予想通り、彼の兄弟かもしれない。


 そしてすぐ横には、歪んだ、気味の悪い表情で若い三条を見下ろしている武士が一人。


 河合だ。


 周囲にいるのは、貴族の付き人とおぼしき一人を除いては全員が武士のようだ。


 彼らが興奮しているのは、きっと酒のせいだけではない。悪い予感がして心が騒ぐ。


 そして、不安が現実に変わるまでの時間は驚くほど短かった。


 河合はそばの者から長刀を受け取ると、まるで迷いを見せず、小気味よい摩擦音とともにそれを引き抜いた。


 鞘を乱暴に投げ捨て、両手でそれを構えた刹那、綾の体が誰かに抱き寄せられた。


 それが伏見だとわかったとき、庭でどよめきが起きた。


 直後に一瞬の静寂。だがそれは男の泣き声にのみ込まれた。


 そのまま伏見に抱えられ、屋敷をあとにした。


 帰りの牛車で、ずっと彼女に体を寄せていたが、震えが止まらなかった。


 人の死を間近で見たのは初めてだ。その瞬間を目にしたわけではなかったが、あれだけの人の前での惨劇だ。


 何よりショッキングだったのは、悲劇の引き金が、将棋だったことだ。


 屋敷に戻り、布団に入っても、あの若い貴族のことが頭から離れない。闇を抜ける風の音が、人の声に聞こえてしまう。


 小動物が屋根を駆ける音に怯え、犬の遠吠えがしては体が震えた。


 昇り始めた太陽の光が夜のとばりを裂き始め、鳥のさえずりが聞こえて、ようやく眠りについた。



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