表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
19/56

3-3

 それから二日、気持ちの整理がつかない。


 四十男の二番目か三番目の妻になるための告白を断れないことに、理不尽を感じていた。


 あのときは、どうにか切り抜けたが、ただの先送りだ。このままの勢いで言い寄られ続ければ、どこかで心が折れてしまうかもしれない。この世界では普通のことだとしても、そんな運命を受け入れられるほど大人ではなかった。


 朝食のあと、布団でごろごろしていると、義兄が足音うるさく部屋にやってきた。


「綾殿、書の時間ですぞ。今日は平家物語の続きを筆写していただきます」


 げっ。そうだった。


 見合いと同じくらいの苦行を思い出し、思わず天を仰いだ。


 すでに一冊、和歌集を書き写してはいた。


 わずか十ページほどの薄い本だったが、一週間はかかった。


 それも当然だろう。筆を使ったのは、小学校の書道の時間以来で、その上、書かれている文字がろくに判別できないのだから。


 当初は伏見に一字一句尋ねていたが、半日ほどで、忠実な従者の態度もおざなりになる。二日目以降は、文字ではなく記号として模写せざるを得なくなった。


「あんな暗い物語、誰が読むんです?そもそも、わたしなどが、お手伝いできることはないと思うのですが……」


 驚いたことに、親氏は、高位の貴族や武士たちがその作品を高値で買い求めるほどの腕前だった。


「言い訳無用。誰も最初は初心者ですぞ。さ、早う、来なされ」


 腕を引かれて、立ち上がる。


 せめて正座だけでも回避したいと、言い訳を考えながら彼の部屋に足を踏み入れたとき、中の景色が前回のときとは違っていることに気づいた。


 だだっ広い板の間の角のあたり、二枚の畳が敷かれているところが親氏の作業エリアだ。


 硯と、筆が乱雑に置かれた小さな木の机の両側に、和紙が積み上げられているのはいつもの通りだったが、そこから少し離れた板の間に、竹を半分に割ったものがいくつも並べられ、その曲面を利用して、内側に小さな木片がいくつも立てかけられていたのだ。


 思わずそばにより、膝をつく。


 こんな場所で見るのは初めてだった。


「これってもしかして、駒ですか」


 義兄は机の前に腰を下ろしながら、意外そうな表情をした。


「ほう。よくご存じで。確かに、将棋の駒ですな」


 そう言いながら、木箱から木片を取り出した。


 無地の状態の駒を見る機会は、これまでなかったかもしれない。形は同じでも、どうしてか、ただの積み木にしか見えず、だが、親氏が中筆を使ってさらさらと文字を書き入れると、あっという間に、それを使った過去の様々な局面が頭に浮かんだ。


 彼は両面を確かめ、手元の竹皿に慎重に置く。


 改めて間近に見ると、見覚えのある筆致だ。タイトル戦で使われるような、格調高い駒に似ている。


 現代の将棋が、こんな時代から連綿と綴られていることに、そしてその歴史の一員であったという事実に、一人感動した。


 それから、机の向かいに座り、平家物語だという書物を開いたが、目の前の作業に意識が取られて集中できない。


「どうしました。何か心配事ですか?筆の動きに心の乱れが表れておりますぞ」


 実は将棋指しが本職でして――。


「ええっと……結婚を断る方法ってあるのでしょうか」

「ああ、大納言殿と見合いをされたのでしたね。どなたか、添い遂げたい御仁はいらっしゃるのですか?」

「それは……。まだいません」


 会って話した男は、竹細工屋の亭主を含めても、たぶん四人だ。内訳は、六十代が一人、四十代が三人。


「それなら一度は受け入れられてはいかがですか?気が合う可能性もございます。将来、気にかかる方が現れれば、そのとき考え直せばよろしいでしょう」


 伏見から、男に複数妻がいるのと同様、妻にも愛人がいることは珍しくないと聞かされてはいた。


 だが、恋愛経験のない彩名に、そんな複雑な男女関係が想像できるはずもない。


「何事も人生経験だと思えば、気も楽ですぞ」


 バイト選びの相談かと思う程度の軽い答え。文句を言おうとしたが、彼の視界にあるのは、たった今書き終えたばかりの駒だけだった。


 両面を真顔で確かめていたが、やがて、眉間にしわを寄せたかと思うと、失敗作を入れているらしい、大きめの花瓶に放り投げた。


 それは口の角に当たり、カツンという心地良い音を響かせ、綾のそばの板の上に転がる。


「書き損じでも、わたしより全然上手ですよ」


 そう言うつもりで、駒を拾い、だが言葉は出てこなかった。


 そこに書かれていたのが、見たこともない文字だったからだ。


「義兄上、これはどういう働きをする駒ですか?」


 親氏は綾の手元を一瞥して作業を続けた。


醉象(すいぞう)ですね。真後ろに動けない以外は(ぎょく)と同じです。ただし、成ると太子(たいし)に変わり、今度は玉と同じになります」


 そんな強い駒が存在したのか。


 現代の形式に淘汰、収斂されるまでに、将棋にいくつかの亜流があったことは知っていた。ただ、町で見た草将棋で、この駒は使っていなかった気がする。


「どの場所に置かれるのですか?」


 再度の問いかけに、彼は怪訝そうな表情に変わった。


「玉の一つ上ですが……。もしかして、将棋をご存知なのですか?」


 達人級です。


「たしなむ程度です」

「ああ、広橋でご覧になったのですね。あの家でお好きな方と言えば、えーと――」


 その日は、醉象を使った盤面を思い浮かべ、彼の見事な筆さばきに見入っているうちに、あっという間に過ぎていった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ