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それから、二ヶ月ほどはあっという間に過ぎた。現代の暦ではおそらく五月に入ったあたり。
お忍び散策を何度か織り交ぜ、水無瀬の、というよりは、室町時代の生活にようやく慣れてきた頃、晩春の抜けるような青空の下で、伏見から近所の貴族の悪口を聞かされていたときのことだった。
聞きなれない足音がした。
騒々しくはないが不規則だ。義兄とは違う。
伏見を見ると、彼女は静かに答えた。
「英兼公にございます。最近はお御足が悪いようで」
廊下からではなく、隣室から襖を開けて姿を現した彼は、億劫そうに腰を下ろし、右足だけあぐらをかくと綾をじっと見た。
「見合いをしてもらいます」
「え……。お見合い?」
「相手は四辻の大納言殿です」
淡々とそれだけ口にすると、苦労して立ち上がり、左足を引きずりながら去っていった。
姿が見えなくなるのを待って、慌てて伏見に向き直る。
「結婚は男が通って成り立つものって、前に話してくれたでしょう?」
「本来の形はいかにも。ただ、昨今、武家のしきたりが公達にも及んでいることは否めません」
武士たちの見合い。時代劇でよくあるのは、政略結婚か。
ドラマの中でならともかく、一度も会ったことない人間と生涯添い遂げるなんて、とても想像できない。
「この戦乱の世で、連中が唯一信じられるのが親族だけということです。不遜な者たちゆえの処世術なのでしょう」
「そんな事情なんか知らない。だいたい、わたしまだ十四だけど」
だが、彼女は黙って首を振った。
「覚えていらっしゃらないかもしれませんが、すでに裳着も済ませておいでです」
確か女子版の元服のことだ。
「だったら。お見合いから結婚に至るのって多い?断る場合もある?」
「申し訳ございません。見合いの習わしそのものが、最近のことですので。お断りすることが、どの程度儀礼に反するのかまでは。ともあれ、義父殿がああ仰る以上、もし会うことまで拒まれるとなると、双方の体面に泥を塗ることになるかと」
それでも、通いであれば女子から断ることは、まるで珍しくないと聞かされ、ひとまず胸をなで下ろした。
「相手の人のこと、知ってる?」
すると彼女はあからさまに目を伏せた。
「大納言殿ということでしたから――」
年は四十一。もちろん妻も子供もいるという。そして、宴会好きとして有名らしい。
「ちなみに、ご嫡嗣が確か綾様と同じ年だったはずです」
「何、それ。いくら何でも嫌だよ。っていうか、それなら、息子の見合い相手に選ばない?」
「恋多きお方として名をはせていらっしゃいますね」
現代なら、即逮捕案件だ。
だとしても、当主の体面という言葉を使われては断れない。
あがくことは諦め、しぶしぶ伏見に見合いの所作を教わることにした。
「基本的には通いと同じでしょう。すなわち、御簾越しに会話を楽しんでいただければそれで問題ないはずです」
会話を楽しむって――。一流企業の女性がバーのカウンターでやるあれのことか。
「本来であれば、相手の教養を知るために歌のやり取りも致しますが、その、綾様では――」
「お前、気遣う振りをしながら馬鹿にしてるでしょう」
従者の嫌味はともかく、たった二日で何かできる準備があるはずもない。着物の選別をしているうちに、相手の公卿がやってくる日になった。
彩名も年頃の女子だ。
断ることを前提としてはいたが、それは現代の価値観において高校一年がそういう年齢ではないからだ。
正面の門が騒がしくなって気づいた。
心の中に多少の期待があることに。
仮にも高位の貴族。万が一にも光源氏の可能性だってある。
そして、周囲の空気が暑苦しくなった気がした直後、廊下に姿を現した男を見て気を失いかけた。
ふくよか、という表現では追いつかない、丸い体形の中年だったからだ。
烏帽子をつけていたが、髪が薄いのがわかる。まだ五月だというのに、首筋に玉の汗をかいていた。
ここに来て初めて、御簾のありがたみを感じた。
四辻はどすんとその前にあぐらをかくと、自分の位階や役職をとうとうと語り出した。
先祖は皇族であり、格的にも綾に見劣りしないことを強調する。どこどこに荘園をいくつ持っていて、武家とも交流があるのだと誇らしげに語る。今川義元や武田晴信といった、歴史の授業で習った名前を耳にしたときは、意味なく感動した。
最後に、歌を披露してもらえないかと請われて、長い自己紹介は終わった。
無理に決まってるだろう。相手に死ぬほどの恋心があったとしても、せいぜいサラリーマン川柳程度だというのに。
綾には申し訳なかったが、ここは変人を盾に切り抜けるしかない。
「わたしの噂はご存知ですか?」
「ええ、それはもちろん。鉄よりも硬い面をお持ちで、言い寄る男たちに呪いをかけては、追い払っていると聞いております」
アフリカ奥地の秘教か。
そして、自分ならきっとあなたを満足させられる、というような内容を、再び自信満々に語り始めた。
このままでは永遠に終わらない。
やむなく、今はまだそんなつもりはないと遠回しに断ると、それではいつまで待てばいいかと返された。
もっと見聞を広めたいと言えば、それはちょうどいい、私も他に妻がありますからあまりかまけることができません、と平然と答える。
いよいよとなったら、これを言おうと取っておいた切り札を口にした。
「ご子息がわたしと同じ年だと聞いていますよ」
だが、その攻撃もあっさりと撃破された。
「そうなのです。ですから綾殿のお気持ちも手に取るようにわかるのです」
彼の脳は間違いなくバラ色をしているはずだ。
この価値観の違いはどうやっても埋められない。
「わかりました」
大きく息を吐きながらそう言うと、彼は隠そうともせずに、期待に満ちた表情に変わった。
「ただ、もう少し大納言殿の人となりを知りとうございますゆえ。せめてあと数回はお会いしてから決めたく存じます」
それでも、次に会う約束をして、どうにか帰ってもらうまで、さらに半時ほど、押し問答が必要だった。




