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3-1

 この世界にきてしばらくは、もちろん戸惑うことも多かったが、意外なことに、当初恐れていたほどには不便さは感じなかった。


 テレビやスマホは、わずか二日ほどで、その存在を思い出すことがなくなった。日常で目にするすべてが新鮮で興味深く、あるいは生きるために必要な知識の習得に大半の時間を費やす人間にとって、あのような物はまるで必要がなかったのだ。


 家に風呂がなかったのは衝撃だったが、湯を沸かして体を洗うことは許されていた。


 食べ物は全てが無添加、無着色。白米は数日に一度で、そのことは伏見がひどく気にしていたが、現代にあっても外食するときは五穀米を率先して選んでいた彩名にとってはむしろご褒美だ。


 逆に家事は一切する必要がなく、従者に指示すれば着替えさえ手伝ってくれる。


 近くの屋敷に音楽好きな貴族がいるようで、たそがれの刻、周囲が橙色に染まった頃に響く雅楽は、JPOP好きな彩名をして、時間をわすれて聞き入ってしまうほどの威力だった。


 天皇の子供という立場も手伝ってのことだろうが、小学生の頃、父の気まぐれで行った本格的なキャンプでの一泊よりは、ずっと快適な居住まいだと断言できた。


 ただ一つだけ、我慢できないことがあった。


 それが紙だ。


 ティッシュペーパーにトイレットペーパー。


 現代で意識することはなかったが、それらが、日常生活の衛生面や快適性に直結していることを今さらながら知った。


 紙が高価なのは理解していたが、与えられたハンカチ代わりの布は肌触りが悪く、すぐに汚れ、なかなか乾かない。他の生活が質素になっても、それだけはどうにか改善したいと思っていた。


 ある日、食事のあと、床に飛び散った汁物のあとを拭く伏見を見て、そのことを尋ねてみた。


「柔らかい紙ですか。何にお使いでしょうか」

「お手洗いとか鼻をかんだりとか。お前はどうしてるの?」


 すると彼女は顔を赤くした。


「そのようなことに、紙を使うなどと……。考えたこともございませんでした」

「そんなに高くなくて、柔らかい紙はないのかなって」

「でしたら――紙屋に参りましょう」


 二度目ということもあり、着替えも変装も、手際良く準備を終える。


 前回と同じく、今出川を東に進み、京極を南へ下ってしばらく、彼女は二条を山のほうへと曲がった。


 初めて入る通りだ。道幅は狭いが、人が忙しく行き交っている。


 店へ向かう途中だった。


 通りの半分ほどを縁台のような物でふさいでいるところがあった。


 向かい合って座る男が二人、何かに見入っていて、その周囲に数人の見物客がいる。


 そのそばを通り過ぎたとき、思わず「あっ」と声が出た。


 衆目の中心にあったのは、将棋盤だったのだ。


 そしてさらに驚いたことに、局面は現代の将棋から大きくかけ離れたものではなかった。


相振り飛車(あいふりびしゃ)だ……」


 思わず呟くと、伏見が反応した。


「綾様、何か仰いましたか?」

「あの人たちがしているのって――」

「ああ、将棋にございます。卑しい遊びです」

「卑しいっ?どうして?」


 思わず声が大きくなり、彼女が一瞬怯んだ。


「どうして、と申されましても。賭け事ですから……」

「何を賭けてるの?」

「食事や酒でしょう。真剣師(しんけんし)たちは別でしょうけれど」

「真剣師って?」

「代役での報酬を生業としているような輩です」


 その口ぶりから、彼女がその職業を蔑んでいることだけは理解した。


 本当なら、もっと見物していきたいところだったが、案内役がすぐにでもその場を離れたがっている以上、先へと進むしかない。


 ほどなくして紙ばかりを扱う店に到着した。


 中にいたのは若い女の店員。二十手前だろうか、他の町民たちと同様、あまり血色が良くない。


「何をお探しですか?」

「えーと、柔らかくてあまり高価じゃない紙ってありますか?」

「用向きは何でしょう」

「えっと、お化粧とかに使おうかと」


 彼女は不思議そうに首を傾げた。


「化粧……ですか?それでしたら、宿紙(しゅくし)はいかがですか?」


 説明によれば、使用済みの物を再生した紙とのこと。墨の残り具合で色むらがあり、比較的白い紙ほど値段が高いのだという。古紙のせいかほとんど硬さがなく、肌触りも悪くない。SDGsはこんな時代から存在する。


「じゃあ、この白いやつの束を下さい」


 伏見が支払いを済ませ、店を出ようとしたとき、若い男とすれ違った。


 彼は、店員を小春(こはる)と呼びながら店に入り、それに呼応して彼女が頬を染めるのが見えた。


 帰り道、それとなく聞いてみた。


「伏見にいい人はいないの?」

「年相応には。何人か通われたことはございました」


 視線の端で横顔を窺うと、それに気づいていたのかどうか、口元を緩めているように見える。


 綾に仕えながら、そんな相手がいたことは意外だったが、現代より、社会が恋愛に寛容であるのは確かなようだ。


 理由も簡単で、人々の娯楽が少ないから。


 普段、彼女が接しているのは他の家の女房たちで、話す内容の多くは誰かの噂話。ただ、それだけでは、心の均衡を十分に保てないのだと思う。


 そんな分析が正しかったのだと、このあと、身をもって確認する事態に巻き込まれるなどと、もちろん、このときには考えもしなかった。



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