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水無瀬の家には、四人が暮らしていた。
一人は、母とも子の実兄である六十五歳の英兼だ。父の季兼亡きあと、当主を引き継いでいて、今後、綾の養父となる。偏屈者として近所では有名らしく、人前にはあまり姿を見せないらしい。初めて屋敷に来たとき、短い時間、挨拶しただけで、それ以降は声も聞いていない。
彼には後継ぎがおらず、三条西家から猶子として迎えられたのが親氏だ。四十の独り身で、綾の義理の兄という位置づけだが、ほとんど親娘だった。
彼の書家としての収入だけで、一家の生計を支えているのだと知ったとき、扶養家族が突然二人も増えて大丈夫なのか、やっかいになる身としては、小さくない不安をぶつけると、相手は高笑いした。
「綾殿の評判は母君から伝え聞いておりますぞ。なかなかの跳ねっ返りだそうですが、そんな気遣いもできるとは意外ですな。結構なことです」
年の差もあるのだろうが、綾の噂を知った上で、同居に反対しなかったことを見ても、どうやら、おおらかな性格のようだ。
彼ら以外には、奉公人が二人。義父の世話役を兼ねた女房が一人と、女童が一人だ。どちらも家の位は低く、上の女は綾に近づくことさえ許されていない。
この時代、水道などもちろんなく、水は、日に三度、女童が近くの井戸に汲みに行き、穀類は食べる都度、女房が精米する。食材の買い出しは往復二時間の行程だ。食事の準備をただするだけで、下女たちは一日の大半を費やすため、本来、綾の側付きであるはずの伏見も、家事を分担することになった。
もっとも、武士が台頭する時流の中、人を雇う余裕がないのは、どの貴族も似た状況だという。
歴史によれば、この先、大政奉還されるまでの三百年、彼らに頭が上がらないことになっている。
未来を知っているというのに、驚くほどそれを活かす方法を思いつかない。
それどころか、気ままに行動することさえ許されない状況だった。
あてがわれた部屋は、屋敷の北西にある、正面の門から一番遠いところで、家族以外の男性と会うときは、子供が秘密基地だと喜びそうな、御簾で区切られた鳥かごのような場所に入らなくてはならないらしい。
普段の話し相手は、従者と義兄の二人だけ。恋愛のきっかけは文や和歌。
女房たちの他愛もない話を聞きながら、ここで求婚をただ待つだけの日々など、想像もしたくなかったが、右も左もわからぬ世界で、不満を言う気力など持ち合わせておらず、ただ普通の生活を懸命に営むことに徹するだけだった。




