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鏡の中にあったのは、いつも見慣れた顔ではなかった。
美しい髪を真ん中で分け、肩までのストレート。
どこか懐かしさも感じさせる、目元と眉がくっきりした美少女だった。
「これが……わたし?」
思わず我を忘れて見とれてしまった。そして不安や恐怖より、ときめきが上回っていることに気づく。
手で鼻や口に触れると、同じ動きが鏡の中でも再現された。
このまま現代に戻れたら……。両親はきっと腰を抜かすだろう。祖母は、もしかしたらあっさり受け入れてくれるかもしれない。
「十代やからな。ちょっとは顔も変わるやろ」
そんな状況を想像して、多少は平常心を取り戻した気になった。
女性たちがいなくなってから、人の気配がまるでしない。
この時代のせいなのか、時間の感覚がまるで掴めない。十分だったようにも、一時間が流れたようにも思える。
「部屋を出てもいいのかな」
四角い部屋。正面の壁を除き、進める方向は三つあった。
一つは、唯一、仕切りのない、今来た道だ。ただ、戻っても屋敷の外に出るだけ。
残り二辺のうち、一方には、格子状の仕切りがあって、光が差し込んでいた。その先には回廊と、さらに向こうには中庭が見える。
格子の木枠に手を触れたが、左右のどちらにも引くことができない。
小思案してすぐにあきらめ、二人の女性が姿を消した側から出ることに決めた。
そっと襖を引くと、隣も同じく十畳くらいの広さだったが、外縁との仕切りがなく、中庭が借景のごとく見渡せた。
よく見ると、格子戸が、天井に跳ね上がるように開いていた。
「なるほど、押せば良かったのか」
太陽が西の空に沈みかけている。五百年の時を経ても、夕暮れがもたらす情調が同じであることが不思議だった。
入るときには、ほとんど視界に入っていなかったが、さほど広くない庭だ。中央からやや外れたところに空豆のような小さな池。桜と紅葉以外は名前のわからない数本の広葉樹がまばらに植えられ、木の周囲は苔で囲われている。
静けさを絵画で表現すれば、きっとこんな感じになるのだろう。なるほど、こんな環境では、つい、和歌でも詠みたくなるのかもしれない。
部屋と庭の間にある、回り廊下に出てみた。
庭に面した部屋は、三つだ。
元いたほうとは逆側へと進む。隣の仕切りも上がっていて、中が見えたが、そこも無人だった。
「少なくとも二人はいるはずだよね……」
廊下はその先をさらに左に折れて続いていた。
五メートルほど行くと、道はさらに右に向かっていて、その曲がり角に立ったときだ。
かすかに人の声が聞こえ。
どこも襖で仕切られているだけの造り。盗み聞きの概念はきっとないに違いない。
膝をついて耳をそばだてる。
静寂に体が慣れ始めた頃だ。
誰かのすすり泣きに続いて、話し声がした。
「とも子様、心中お察しいたします」
「伏見……。私は母として何一つあの子にしてやれませんでした」
さっきまで一緒にいた二人のようだ。
「あの子が不憫でなりません。どうしてあんなにも……」
彼女が言葉に詰まる。
やがて、遠くに足音がした。
これまでの、女性のものとは異なる、しっかりした律動に、続けて襖が開く音。
「どうしました。とも子。そんなに泣きはらして……。あや様のことか?」
「お義父様。ええ、先ほどお花見から戻っていらしたのですが……」
「また何かしでかされた?」
「イノシシを追って、転んで気絶されたとか」
彩名が目覚めたとき、そばにいた女性は、伏見という名前のようだ。
彼女が、花見での出来事を二人に語って聞かせると、男は大げさに嘆いた。
「家に居ても、外にやっても、何も変わらぬということか。最近は多少なりともまともになっていたと喜んでおったのに……」
「私めがお仕えし始めた頃に比べれば、今はすっかり普通でございます」
「ええ、わかっています。あの子は……人より少し繊細なだけなのです」
それから三人は懐かしむように、あやの昔語りを始めた。
どうやら三歳までひと言も言葉を発さなかったらしい。いつも一人で庭にいた。虫を平気で殺したり、池の金魚を丸呑みしたこともあったようだ。
自由に歩けるようになると、裸で屋敷の中を走り回り、あるいは三日間寝ずに何かをわめき続ける。犬小屋で犬を抱いてノミだらけになっていたり、家中の襖や屏風を全て破いて回ったこともあったという。
「とも子、もう忘れることです。これからはお前の娘でも、姫宮でもなくなるのだから」
男の突き放したような言い様に、女性の泣き声はひとしきり大きくなった。
「本当にいいのでしょうか。あの子を賜姓に下ろしてしまっても」
「他に道はない。禁裏もお認めではないか」
「私が至らぬばかりに、まるで見捨ててしまうようで。伏見、お前だけが、本当にお前だけが頼みです。ずっとあの子のそばに付いてやってくれますか?」
「とも子、この話はもうこれくらいで。あや様は新しい住まいできっと元気になられる」
男の気配が消えると、最後にとも子と呼ばれた女性の弱々しい声がした。
「伏見、あや様の着替えを頼めますか」
その声に、慌てて元いた部屋に戻ったが、心拍数が上がっていたのは、それだけが原因ではなかった。
雲行きが怪し過ぎる。
聞いた会話を要約すれば、天皇家から追放される、ということではないのか。それはつまり、未知なる世界に突然放り込まれ、どうにか見つけた唯一のよるべを、あっという間に奪われる、ということに他ならない。
遠くから人の近づく気配。
襖が開くと、伏見と呼ばれていた女性が軽く頭を下げた。
「あや様、お着替えを」
彼女は返事を待たず、手にしていたいかにも品の良さそうな着物を手に、すっと彩名の横に移動した。
改めて容姿を観察した。
切れ目がちで、やや冷淡な印象を与える女性だ。
美しいセミロングだが、この時代の貴族の女性にしては短めの部類かもしれない。
彼女は、あやが素肌に着けていた白い一枚着以外をするすると剥ぎ取ると、それらより裾の長い、色味が鮮やかな着物を慣れた手つきで着せていく。
「ふ、伏見。お前に聞きたいことがある」
思い切って声をかけると、一瞬、彼女の手が止まり、だが、すぐに動作を再開し、「何なりと」と目を合わせることなく答えた。
「わ、わたしは……ここを出るの?」
「どなたに……そのようなことを?」
「聞いてるのはわたしよ。嘘偽りなく答えて」
彼女は美しい所作で、手際よく彩名の着替えを終えると、再び畳に頭を付けた。
「私はいつまでも、御身にお仕えさせていただく所存です」
そのまま動かなくなった。
「もういい。下がって。いえ――ちょっと待って。少し眠りたいの……」
彼女の用意した、綿のほとんどない布団に体を滑り込ませると、自然に涙がこぼれた。
同じ価値観を持った人間が、ただの一人もいない世界だ。異常事態、などという言葉が、鳥の羽根のように軽く感じる現実。真剣に一日を振り返ろうものなら、気が狂ってもおかしくない状況だったが、あのままスキー場で死ぬよりはきっと良かったのだと、どうにか前向きになろうとしているうちに、眠ってしまった。




