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「着きました」


 優しい声に目が覚めた。


 涙で顔がめちゃくちゃなのがわかる。


 手元にあった白い布で頬を拭っていると、うしろの簾が上がり、近くを歩いていた町民風の男が興味深そうに振り返るのが見えた。


 下男に手伝われ、笠を付けた女性が先に降り、彼女に引かれて彩名が続く。


 そこは、大津で目にした町並みとは、醸し出される気配がまるで異なっていた。


 道幅は広く、整備が行き届いている。通りはどこまでも真っ直ぐで、建物と通りを隔てる塀も、歩く人たちも、どこか洗練された印象だ。


 そして。


 見える範囲に、やはり電線は見当たらない。


「あや様、早く中へ」


 女性の声に急かされ、門へ向かった。


 周囲を灰色の塀に囲まれた、さほど大きくはない屋敷。


 滋賀への引っ越しのとき、家具を買い直そうとしていた両親の会話を思い出した。


 高級な和家具は黒柿を使い、風合いを表現しているのだそうだ。ただ、現代にそんな商品はほとんどなく、安価な木材に黒の上塗りをして、それらしく見せているのだという。


 最初に目にした黒っぽい門柱に触れてみた。さほど古くはないが、素人目にも塗装でないことだけはわかる。


 門を抜け、敷地の中に姿を現した建物は、凝った作りだった。もし室町時代なら、公家の屋敷は寝殿造りだったはず。詳細な図面を覚えているわけもなかったが、目の前の建築物が、そうではないと否定する材料も、またない。


 今いる場所が幻影でもセットでもなく、現実だという事実を受け入れる以外の選択肢が、どうしても見つけられない。


 のろのろと庭を歩いていた彩名を待って、女性は口を開いた。


「母君が心配されます。わずかの時間で結構ですから、普通にして下さいますか」


 これまでとは、どこか異なる口調だった。言われた意味もわからず、ただあとに続く。


 もし――ここが本当に過去だとしたら。


 車の中で、彼女が口にしていた言葉。


 彩名は天皇の子供なのだと。


 御所車は貴族の乗り物だ。


 もし、元いた世界に戻れないのだとしたら。


 その身分は絶対に手放してはならないのではなかろうか。


 状況があと少し明らかになるまでは――。


 演じるしかない。


 そういえば、言葉は理解できている。母音が微妙に異なる単語もあったが、意味はおおよそ同じのようだ。中には知らない語彙や、明らかに違う発音もあったが、頭ではそれが何かを認識できていた。


 衣類の扱いもそうだ。裾を足で踏むことも、牛車の乗り降りで、袖を引っかけることもなかった。


 なるほど、彩名の意識であっても、原始的な機能や動作はこの体が覚えているのかもしれない。


 いや、待てよ。


 意識……。覚えている……?


 生まれ変わりだとしても、前世の記憶を持っているのはおかしくはないだろうか。こんなことが、許されるのだろうか。


 許されるっていったい誰に?


 きっと世界の(ことわり)に、だ。


 もしこれが異常事態なのだとすれば、いつか元の世界に戻れるかもしれない。


 その思いつきに、ほんのわずかではあったが、希望の光が灯った気がした。


 女性は無言のまま板縁を上がり、建物の中へと進む。十畳ほどの、小さな部屋の敷居を入ったところで正座し、彩名もその隣に座った。


 部屋といっても、廊下や隣室との境目に壁がない。襖や巨大な暖簾のような布で間仕切られた、不思議な空間だ。


 ふと、周囲に漂っている匂いに気づいた。


 女性が放っていた香りと似ている。


 それと気づいて、香炉を探していると、襖が音もなく開き、氷の上を滑っているかのように、三十代くらいの女性が入ってきた。


 色が微妙に変化した重ね着に、長過ぎる上着を引きずるような立派な衣装だ。そばにいる女性とは、明らかに位が異なることだけはすぐにわかった。


「あや様、どうぞ上座へ」


 高位であるはずの彼女は、上着を器用に操ると、彩名の隣に座った。


「どうされました?」


 優しく彩名の背中に触れる。


 天皇の身内は、子供でも上座に座るという規則かもしれない。


 不安を外に出さないよう、息を鎮めながら暖簾の前まで進み、二人と正対するように向きを変えた。


「お花見はいかがでしたか?」


 あとから来た女性が、柔らかい口調で微笑んだが、どう答えるのが適切なのかもわからない。


「満開ではなかったので……」

「そうですか。同行できずに申し訳ありません。あや様との暮らしもあとわずかだというのに」


 どういう意味?そもそも、彼女は誰なんだ。


 尋ねたくとも、できる限り不自然な言動は慎む必要があり、そんな簡単なことさえままならない。


「とも子様、あや様はお疲れのご様子です。もうこれくらいで……」

「これは気づかずに申し訳ありません。それでは、これにて失礼致します」


 とも子と呼ばれた女性が、滑らかな動きで彩名に頭を下げて隣室へ消えると、声をかけた女性も、どこかほっとしたようにあとに続いた。


 彩名一人が残される。


 耳を澄ましたが、庭の木々が揺れる音しかしない。


 弱い風が、室内の空気を撹拌した。


 小学生の頃、修行と呼ばれていた行事に参加していたことを思い出した。初夏になると、近くの寺に行き、クラスごとにただ座禅を組むという課外授業だ。


 線香の匂いが染みついた寺の薄暗さは、子供には辛気くさく、妙にひと気がないのも薄気味悪かった。


 当時の不安が胸によみがえり、思わず立ち上がった。


 部屋にあるものと言えば、隅に置かれた、意匠の凝った小さな和箪笥が一つだけ。


 その上に置かれていた円形のものは――どうやら金属鏡のようだ。


 その意味を考えて一瞬ためらい、意を決してそばに寄る。


 半分は覚悟していた。


 残りの半分は、その瞬間に確定した。



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