第09話 帰還
遺跡の入口を出た時、空はもう暮れかけていた。
入った時は昼過ぎだったはずだ。
中にいた時間の感覚がない。
壁の光る石が変わらず灯り続ける遺跡の中では、時の流れが掴めなかった。
外の空気が、やけに生々しかった。
風が肌を撫でる。
虫が鳴いている。
草の匂い。
遺跡の中の澄んだ空気とは違う、雑多で騒がしい、生きている世界の空気だ。
「……戻ってきた」
フィノが呟いた。
当たり前のことなのに、どこか実感がこもっていた。
「野営の準備をするわ。ここを離れるわけにはいかないでしょう」
セラが遺跡の入口を見回しながら言った。
「ああ。この遺跡は地図に載っていない。一度離れたら、二度と見つけられないかもしれない」
フィノの勘で辿り着いた場所だ。
道順を覚えたとセラは言っていたが、あの時フィノが導いた獣道を、もう一度正確に辿れる保証はない。
「ギルドに報告すべきじゃないの」
セラが聞いた。
リーダーとして当然の判断だ。
未知の遺跡の発見は、冒険者ギルドに報告する義務がある。
「報告すべきだとは思う。だが、最寄りの支部まで数日かかる。往復している間に遺跡が消えたら……」
「消える?」
「地図になかった遺跡だ。明日もここにあるとは限らない」
セラが黙った。
僕の言葉の重さを計っている目だった。
「それに」と僕は続けた。
「仮にギルドに報告しても、フィノの導きなしでは他の誰もここに辿り着けないだろう。この場所は、普通の方法では見つけられない」
「……まず自分たちで調査を続ける、ってこと?」
「そうだ。少なくとも、あの封印の扉の先に何があるのかを確認するまでは」
セラは遺跡の門を見上げ、長い息を吐いた。
「わかったわ。ただし、ギルドへの報告は後回しにするだけよ。隠すつもりはないわ」
「もちろんだ」
入口から少し離れた木立の中に、野営地を作った。
ガルドが薪を集め、僕が火を起こし、フィノが魔法で水を出し、セラが簡単な食事を作った。
何度もこなしてきた手順だ。
遺跡の中であれだけ異常なものを見た後でも、野営の段取りはいつも通りだった。
それが少し、ありがたかった。
皆での食事を終えた頃、僕は手帳を広げた。
今日見たもの、聞いたこと、感じたことを整理する。
記録士の仕事だ。
遺跡の中では断片的にしか書けなかった。
ここで、すべてを繋げる。
手帳の前半。
養父の文字。
古代文字の書き写しと解読メモ。
手帳の後半。
僕の文字。
碑文の記録、スケッチ、仮説。
ページをめくりながら、養父の字と自分の字が交互に現れるのを見た。
あの人の探究の続きを、僕がしている。
意図したわけではない。
けれど、結果としてそうなっている。
(……エルドさん、あなたもこうして、焚き火のそばで手帳を開いていたんだろうか)
あの人が遺跡を巡っていたのかどうかは知らない。
図書館の中で文献と格闘していただけかもしれない。
だが、あの几帳面な文字を見ていると、この手帳を書いている時のあの人は、きっと今の僕と同じ顔をしていたと思う。
今日得た情報を並べた。
泉の碑文。「この水だけが、あの頃のまま」。
聖典の懺悔。「彼女の眠りを守れ。我らの罪を、いつか裁いてくれるように」。
宝玉の碑文。「この宝玉を持つ者が、王国の主」。
ロザリオの銘。「お嬢様から頂いた、私の宝物」。
燭台の碑文。「毎日、この火の前で祈っていた。誰かの幸せを」。
封印の碑文。「懺悔を理解する者だけが、この先へ進める」。
そして、番人の声。「命令に従った。それが罪だった」。
断片を繋ぎ合わせる。
この遺跡には、かつて王国があった。
王がいて、聖女がいて、人々がいた。
聖女はおそらく「お嬢様」と呼ばれ、従者に仕えられていた。
人々は聖女を敬い、泉を愛し、祈りを捧げていた。
やがて何かが起きた。
人々は罪を犯した。
聖女は眠りについた。
王の名は消された。
そして、命令に従った誰かが、その罪を呪詛として背負い続けている。
(……何が起きたんだ。この王国で)
全体像はまだ見えない。
しかし、碑文と聖典が語る物語には、一本の筋が通り始めている。
「レイン」
セラの声で手帳から顔を上げた。
セラは焚き火の向かいで、盾の留め具を点検していた。
手を動かしながら、視線はこちらに向けている。
「あの呪詛……番人について、整理しておきたいの」
「ああ」
「物理攻撃が通じなかった。ガルドの剣が効かないなら、私の剣も同じよ。結界は一時的に退けられたけど、あれを維持し続けるのは無理。精々、数分が限界」
セラの分析は正確だった。
戦闘のプロとしての冷静さだ。
「フィノの魔法は?」
「試してない。でも、物理が通じないなら魔法を当てるしかないわね。フィノ、どう思う?」
フィノは焚き火越しに遺跡の方角を見つめていた。
炎の明かりに照らされた横顔が、こちらを向いた。
「……わかんない。でも、あの番人はあたしたちを殺そうとしてたわけじゃないと思う」
「殺そうとしていなかった?」
セラが眉を上げた。
「だって、追ってこなかったでしょ。あの広間から出たら、それ以上は来なかった。本当に殺す気なら、通路まで追ってくるよ」
確かに、とセラが頷いた。
僕も同じことを考えていた。
あの番人は封印の広間から一歩も出なかった。
侵入者を排除するのではなく、封印に近づけないようにしていた。
「番人は封印を守っているだけだ。僕たちを殺すことが目的じゃない。なら、戦って倒す以外の方法があるかもしれない」
「たとえば?」
「聖典だ。扉の碑文は『懺悔を理解する者だけが通れる』と書いてあった。番人も同じだとしたら、懺悔を理解していることを示せば、道を開けてくれるかもしれない」
「……随分と楽観的ね」
「楽観じゃない。仮説だ」
「あんたの仮説は大抵、自分が危ない目に遭う前提なのよ」
否定はしなかった。
少し離れた場所で、ガルドが剣の手入れをしていた。
砥石を刃に当てる規則的な音が、焚き火の爆ぜる音に混じっている。
あの番人の声を聞いた時の、凍りついた表情を思い出す。
「命令に従った。それが罪だった」。あの言葉が、ガルドの何かに触れた。
元兵士。
命令に従って戦っていた男。
その過去に何があったのか、僕は知らない。
ガルドは語らないし、僕も聞かない。
それがこのパーティの距離感だ。
だが、あの番人と再び向き合う時、ガルドにとってそれが何を意味するのか。
考えずにはいられなかった。
フィノが焚き火に小枝をくべた。
「ねぇ、レイン」
「何だ」
「あの番人さ、苦しそうだった」
「……ああ」
「ずっとあそこにいるんだよね。ずっと、あの罪を抱えて。何千年も」
フィノは炎を見つめていた。
揺れる光が目の中で踊っている。
「かわいそうだな、って思った」
僕は何も言えなかった。
かわいそう。
その一言が、妙に胸に刺さった。
あの番人は僕たちを襲った存在だ。
物理攻撃が通じない、危険な呪詛だ。
けれどフィノは、その苦しみの方を見ている。
(……そうだな。かわいそうだ)
僕は手帳を閉じ、焚き火を見た。
「セラ」
「何よ」
「明日、もう一度あの番人と向き合いたい」
セラが手を止めた。
「……倒すためじゃなく?」
「ああ。話をするために」
「呪詛と話ができるの」
「わからない。だが、あの番人にはフィノが聞いた声がある。言葉がある。言葉があるなら、通じるかもしれない」
長い沈黙があった。
焚き火が爆ぜた。
ガルドの砥石の音が止まっていることに気づいた。
セラが嘆息した。
「……わかったわよ。ただし、前と同じ条件。私が危険と判断したら即撤退。異論は?」
「ない」
「冒険者はあきらめない、ってやつ?」
「ああ」
フィノが小さく笑った。
ガルドが砥石の音を再開した。
夜が深まっていく。
遺跡の方角から、風が微かに吹いていた。
花の匂いはしない。
ただ、石の冷たさだけが、風に混じって届いた。




