第08話 封印の間
宝物庫を出て、通路をさらに奥へ進んだ。
灰色の石壁が続いている。
壁のくぼみはもう見当たらない。
装飾も消え、直線的な紋様すらなくなった。
ただの石の通路だ。
遺跡に入ってから初めて、無骨という印象を受けた。
光る石の数が減っている。
足元がかろうじて見える程度の明るさだ。
「暗くなってきたわね」
セラが盾を構え直した。
この先何があるかわからない。
僕とフィノは自然と距離を詰め、ガルドが後方の警戒を強めた。
通路の空気が変わったのは、それから数分歩いた後だった。
温度が下がった。
遺跡に入ってからずっと感じていた心地よい空気が、ここでは重く、冷たい。
花の匂いも完全に消えている。
「フィノ、何か感じるか」
「……うん。嫌な感じ。これまでと違う。庭園とか泉は生きてたけど、ここは……」
フィノが言葉を探すように口を開き、閉じた。
「苦しんでる、みたいな」
苦しんでいる……場所か……
フィノの感覚を疑う気はない。
けれど、場所が苦しむとはどういうことなのか。
通路が突き当たりに達した。
広い空間に出た。
天井は高く、宝物庫よりもずっと広い。
だが、何もない。
壁も床も天井も、飾り気のない灰色の石だけ。
レリーフも碑文もない。
唯一あるのは、正面の壁に嵌め込まれた巨大な石の扉だった。
扉は通路の倍以上の高さがある。
表面に細かい文字が刻まれていた。
古代文字だ。
遺跡の他の場所で見たものよりも密度が高く、扉全体を覆い尽くしている。
「……封印されてる」
声に出すと、広い空間に反響した。
扉の表面を覆う文字の密度が、ただの装飾ではないことを物語っている。
(……この先に、もっと深い場所がある)
直感ではなく、確信だった。
泉、聖堂、宝物庫。
この扉の手前にある場所はすべて探索した。
残っているのはこの扉の先だけだ。
僕は扉に近づき、手帳を開いた。
文字が細かい。
一字一字を追うには時間がかかる。
養父の解読メモと照合しながら、読める部分を探す。
大半は読めない。
しかし、扉の中央に大きく刻まれた一文だけは、字形を追うことができた。
(……「懺悔を」……「理解する者」……「だけが」……「この先へ」……「進める」……)
「『懺悔を理解する者だけが、この先へ進める』」
セラが扉を見上げた。
「条件付きの封印ね」
「ああ。聖典に書かれていた懺悔――『彼女の眠りを守れ。我らの罪を、いつか裁いてくれるように』。あれが鍵になるのかもしれない」
手帳のページをめくり、聖典から書き写した字形を確認する。
懺悔の内容。
聖女への罪。
扉の碑文と聖典の文字が、いくつか重なっている。
「レイン、試すの?」
フィノが聞いた。
「……ああ。触れてみる」
セラが何か言いかけたが、止めた。
泉の時とは違う。
あの時は不用意だった。
今回は根拠がある。
聖典の知識があるからこそ、ここに立っている。
僕は深呼吸をして、扉の碑文に手を伸ばした。
指先が石に触れた瞬間だった。
背後の空気が、裂けた。
「――ッ!」
振り返った時にはもう、それがいた。
通路の入口。
僕たちが入ってきた場所を塞ぐように、どす黒い霧が人の形を取っていた。
人の輪郭をしている。
頭、肩、腕、脚。
その内側で深い闇が渦を巻いている。
濃く、重く、人の形を保とうとして崩れ、また形を成す。
負の感情が結晶化すると、こうなる。
記録士の教本で読んだことがあった。
強い後悔や憎しみが、持ち主の死後も消えずに残り続け、やがて形を持つ。
呪詛と呼ばれるものだ。
「呪詛だ! 触れるな!」
僕は叫んだ。
この遺跡に入ってから、その気配は一度も感じなかった。
花が咲き、水が輝き、空気が澄んだ遺跡だった。
だが、ここにだけは呪詛がある。
人の形をした呪詛が。
「下がれ!」
ガルドが動いた。
両手剣を抜き放ち、僕とフィノの前に出る。
一歩で間合いを詰め、黒い霧に向かって横一閃に振るった。
剣が靄を通り抜けた。
手応えのない一撃だった。
ガルドの剣は確かに霧を捉えたはずだ。
しかし、黒い霧は何事もなかったかのように形を保っている。
切った箇所が一瞬散り、すぐに集まり直した。
「物理が通じない」
ガルドが低く呟いた。
二撃目はない。
通じないとわかった攻撃を繰り返す男ではない。
呪詛が動いた。
黒い腕が伸び、ガルドに向かって振り下ろされる。
ガルドが後退して避ける。
腕が石畳を叩き、鈍い音が響いた。
石が砕ける音ではない。
もっと湿った、重い音だ。
「セラ!」
「わかってる!」
セラが前に出た。
盾を構え、低い声で祈りの言葉を紡ぐ。
聖術――古代の祈りに由来する防御の術だ。
現代ではほとんど失われかけている技術だが、元騎士団の見習いであるセラは基礎を修めている。
微弱だが、確かな光が盾から広がり、僕たちの前に薄い壁を作った。
呪詛の腕が結界に触れた。
光が弾ける。
呪詛が一歩退いた。
完全に止めたわけではない。
結界が揺れている。
「長くは保たないわ。撤退する!」
セラの声は鋭かった。
迷いのない判断。
この人がリーダーでよかったと、こんな時に思う。
「右から回れ! 呪詛の脇を抜ける!」
呪詛は通路の中央にいる。
壁際を抜ければ、背後の通路に出られる。
セラが結界を維持したまま盾を呪詛に向け、僕とフィノを背中で庇う。
ガルドが右側面に回り、脱出路を確保した。
その時、フィノが足を止めた。
「フィノ!」
「……聞こえる」
フィノの目が見開かれていた。
呪詛を見つめている。
怯えではない。
驚きだ。
「声が聞こえる。あの中から」
「フィノ、今はいい! 走って!」
セラの声にフィノが弾かれたように走り出す。
ガルドが確保した隙間を、僕とフィノが駆け抜ける。
セラが最後に結界を解き、盾を構えたまま後退する。
呪詛は追ってこなかった。
あの広間の入口で立ち止まり、こちらを見ている。
いや、見ているというのは正しくない。
目がないのだから。
だが、あの黒い霧の奥に、こちらを認識している何かがあることは確かだった。
僕たちは通路を駆け戻り、宝物庫の前まで来てようやく足を止めた。
全員が肩で息をしている。
戦闘は短かった。
だが、あの圧は本物だった。
「怪我は」
ガルドが僕たちを見回して聞いた。
「ない」と僕が答え、フィノも「あたしも」と続いた。
「私も大丈夫」
セラが壁にもたれ、深く息を吐いた。
盾を持つ手が微かに震えている。
結界の維持は、セラにとって軽い技ではないのだ。
「……あれは何なの」
セラが僕を見た。
「呪詛の塊だ。人の形をしていたが、中身は呪いだけだった。あの封印を守っている……番人のようなものだと思う」
「物理が通じないなら、厄介ね」
「ああ。少なくとも、今の僕たちでは正面から突破できない」
沈黙が落ちた。
封印された扉は目の前にある。
碑文も読めた。
しかし、あの番人がいる限り、扉に触れることすらできない。
「……フィノ」
僕はフィノに声をかけた。
さっき、声が聞こえると言っていた。
「さっきの、何が聞こえたんだ」
フィノは通路の奥――あの扉がある方角を見つめたまま、しばらく黙っていた。
「声だよ。あの黒い霧の中から。すごく小さくて、でもはっきり聞こえた」
「何て言っていた」
フィノが僕の目を見た。
「『私は命令に従った。それが、最大の罪だった』」
空気が止まった。
命令に従った。
それが罪だった。
あの番人は、ただの呪詛ではない。
あの中に、誰かの後悔が閉じ込められている。
命令に従ったことを悔いている誰かの。
聖典の言葉が頭を過ぎった。「我らの罪を、いつか裁いてくれるように」。
懺悔。
罪。
この遺跡に満ちている感情と、あの番人が語る言葉が重なる。
「命令に従った罪……」
僕は呟いた。
「あの番人はかつて、この王国にいた人間だったんだ。誰かの命令に従って、何かをした。その後悔が呪詛になった」
ガルドが動かなくなっていた。
壁にもたれたまま、腕を組んだまま、微動だにしない。
いつもの寡黙とは違う。
表情が凍りついていた。
目が虚空の一点を見つめている。
「ガルド?」
セラが声をかけた。
「……何でもない」
低い声だった。
かすれていた。
ガルドの声がかすれるのを、僕は初めて聞いた。
(……ガルド?)
何かがガルドの中で反応している。
フィノが伝えた番人の言葉に。
「命令に従った。それが罪だった」。その言葉に。
聞いてはいけない気がした。
今は、まだ。
僕は手帳を開き、記録した。
『封印された扉に到達。碑文「懺悔を理解する者だけが、この先へ進める」。封印に触れた瞬間、人の形をした呪詛が出現。物理攻撃は無効。セラの聖術結界で一時的に凌ぎ、撤退。フィノが番人の声を聴く――「命令に従った。それが罪だった」。番人はかつての王国の人間の後悔が呪詛化したものか。封印を守り続けている存在。現状の戦力では突破不能。対策が必要』
手帳を閉じた。
あの番人は、封印を守っていたのか。
僕たちを拒んだのか。
それとも――封印の向こうに行かせたくなかったのか。
守るために。
聖典は言っていた。「彼女の眠りを守れ」と。
あの番人も、同じ祈りを背負っているのだとしたら。
「今日はここまでだ」
ガルドが立ち上がった。
声は戻っていた。
いつもの低く、揺るがない声。
「ああ。一度、外に出よう」
セラが頷いた。
僕たちは来た道を引き返し始めた。
庭園を抜け、通路を辿り、遺跡の入口へ向かう。
振り返ると、通路の奥はもう暗くて見えなかった。
あそこは封印の間……あの番人は、今もあの場所にいるのだろう。
命令に従った罪を抱えたまま。




