第06話 祈りの部屋
「お嬢様から頂いた、私の宝物」
――古びたロザリオに刻まれた銘
「毎日、この火の前で祈っていた。誰かの幸せを」
――祈りの燭台の台座に刻まれた碑文
聖堂の奥に、小さな通路が続いていた。
聖堂の広さに比べると急に狭くなる。
天井が低くなり、壁の装飾も簡素になった。
花の意匠すらない。
ただの白い石壁だ。
「住居区画かしら」
セラが周囲を見回しながら言った。
壁に手を当て、石の質を確かめている。
「かもしれない。聖堂に通う人間の、私室のようなものか」
壁の石は聖堂と同じ白い石だが、磨かれていない。
仕上げの手間を省いている。
聖堂が表の場なら、ここは裏だ。
人に見せるための空間ではない。
通路の両側に、木の扉が並んでいた。
この遺跡で初めて見る木の扉だ。
どこも石造りだったのに。
ただし朽ちてはいない。
この遺跡では何もかもが朽ちない。
五つ、六つ。
個室が並んでいる。
ここで暮らしていた人間が複数いたのだ。
手前の扉をいくつか開けてみた。
どれも似たような小部屋で、石の寝台と棚があるだけだった。
生活の痕跡は薄い。
三つ目の部屋が、他とは違った。
部屋は小さかった。
四人が入ると、それだけで窮屈になる。
石の寝台がひとつ。
壁際に低い棚。
天井には光る石がひとつだけ嵌め込まれている。
壁の高い位置に小さな窓があり、わずかに外光が差し込んでいた。
微かに、蝋の匂いがした。
何千年も前の蝋の匂いが残っているはずがない。
だが、この遺跡ではそれが不思議ではなくなりつつある。
(……誰かの、部屋だ)
遺跡の他の場所とは根本的に異なる雰囲気だった。
聖堂は祈りの場だった。
泉は聖なる場所だった。
庭園は美しかった。
すべて「公」の空間だ。
ここだけが、個人の生活の痕跡を留めている。
セラが寝台を確認し、安全を確かめた後、僕は室内の観察を始めた。
寝台の上には薄い敷布が畳まれていた。
枕の位置に窪みが残っている。
長い間、同じ人間が同じ場所で眠っていた跡だ。
棚の上に、いくつかの品が並んでいた。
素焼きの小さな器は、水を汲むためのものだろう。
その隣に、布の切れ端……布は白かった。
薄く、柔らかそうな織り。
何かの衣服の一部だろうか。
端がほつれているのに、丁寧に畳まれて棚の奥に置かれている。
大切にされていた布だ。
そして、ロザリオ……ロザリオは木製だった。
珠のひとつひとつが滑らかな光沢を帯びている。
手の脂が染み込んでいるのだ。
誰かが毎日これを手に取り、珠を繰りながら祈っていた。
木目に沿って色が変わっている。
指が触れる場所だけが、深い飴色になっていた。
僕は慎重にロザリオを手に取った。
泉では不用意に触れかけて痛い目を見た。
だが、これは聖なる泉とは違う。
一個人の持ち物だ。
手のひらに収まる重さは、不思議と温かかった。
何の変化も起きない。
匂いも、幻視もない。
ただ、誰かの手の温もりが木に残っているような気がした。
珠の連なりの先、十字の部分に極小の文字が刻まれていた。
手帳を開き、養父の字形と照合する。
(……「お嬢様」……「頂いた」……「私の」……「宝物」……)
「お嬢様から頂いた、私の宝物」。
声に出すと、小さな部屋に言葉が反響した。
この部屋の主は、誰かを「お嬢様」と呼んでいた。
「お嬢様?」
フィノが首を傾げた。
「主従関係を示す呼び方だ。この部屋の主は、誰かに仕えていた人間だったらしい」
「聖女のこと?」
セラが聞いた。
聖典で読んだ「聖女」の存在と繋げたのだろう。
「断定はできない。でも、この遺跡に『お嬢様』と呼ばれるほどの存在がいたなら、聖女以外に思い当たらない」
僕は碑文を手帳に書き写した。
「お嬢様」。この呼び方には親しみが含まれている。
形式的な敬称ではない。
仕える相手を心から慕っている人間の言葉だ。
養父のことを思い出した。
あの人も、静かな場所で、静かに何かに尽くし続けた人だった。
図書館で古代文字と向き合い、誰にも認められない研究を続けた。
この部屋の主にも、そういう一途さを感じる。
ロザリオを棚に戻し、部屋の奥に目を向けた。
壁際に、もうひとつ目を引くものがあった。
燭台だ。
鉄製の、簡素な造り。
華美さはない。
実用のためだけのもの。
宝物庫の品々とは対極にある、飾り気のなさ。
火は灯っていないが、蝋の痕跡がこびりついている。
台座の周囲にも蝋が溶け落ちた跡がある。
何本もの蝋燭が、ここで燃え尽きたのだ。
燭台の前の床に目をやり、僕は息を呑んだ。
石畳が、膝の形に擦り減っていた。
何年どころではない。
何十年か、もしかしたらそれ以上。
毎日、毎日、この燭台の前に膝をつき、蝋燭に火を灯し、祈っていた人間がいた。
同じ場所に。
同じ姿勢で。
石を擦り減らすほどの時間を、この人はここで過ごしたのだ。
燭台の台座にも碑文があった。
手帳と照合する。
(……「毎日」……「この火の前で」……「祈っていた」……「誰かの幸せを」……)
「毎日、この火の前で祈っていた。誰かの幸せを」。
フィノが燭台の傍にしゃがみ込んでいた。
目を閉じて、何かを感じ取ろうとしている。
「……温かい。すごく。でも、少しだけ寂しい」
「寂しい?」
「うん。ずっとひとりで祈ってたから。ひとりぼっちで、誰かの幸せを」
フィノの声が、微かに震えていた。
沈黙が落ちた。
僕は部屋の中を見回した。
小さな部屋。
小さな窓。
華やかさもない。
聖堂の荘厳さとも、庭園の美しさとも無縁の、ただの一部屋。
ここに誰かが暮らしていた。
「お嬢様」に貰ったロザリオを棚に置き、毎日燭台に火を灯し、誰かの幸せを祈っていた。
名前は残っていない。
顔も知らない。
ただ、膝の跡と、珠に染みた手の脂だけが、その人の生きた時間を物語っている。
泉の碑文、聖堂の聖典。
あれは人々の声だった。
ここにあるのは、たった一人の声だ。
「セラ」
「何」
「聖堂には大勢の人間が集まって聖典を仰いでいた。でも、ここで祈っていたのはたった一人だ」
セラは石畳の膝の跡を見つめていた。
「……ええ。たった一人で、毎日」
ガルドが扉の横に立ったまま、何も言わなかった。
ただ、燭台から目を逸らさなかった。
ガルドにも、この部屋の空気が伝わっているのだろう。
言葉にはしない。
だが、理解している。
一人で何かを背負い続ける重さを、この男は知っている。
僕は手帳に記録した。
『聖堂の奥に居住区画。複数の個室のうち、一室に生活の痕跡。部屋の主は「お嬢様」と呼ぶ人物に仕えていた従者。ロザリオを宝物とし、燭台の前で毎日祈っていた。膝の跡が長年の祈りを証明している。「お嬢様」が聖女を指すかは不明。調査を継続する』
部屋の奥に道はなかった。
この部屋が行き止まりだ。
「戻ろう」
セラが言った。
僕は頷いた。
扉を閉める前に、もう一度だけ部屋を見た。
光る石のわずかな光に照らされた小さな空間。
寝台と棚と燭台。
それだけの部屋。
それだけで十分だったのだろう。
祈る場所と、眠る場所と、お嬢様から頂いた宝物。
この人にとっては、それが全てだった。
聖堂を抜け、庭園まで戻ると、噴水の水音が迎えてくれた。
空が見える。
あの白い花が風に揺れている。
あの部屋の窓は小さかった。
この庭園の広さとは比べものにならない。
それでもあの人は、あの部屋で満ち足りていたのだろう。
泉は庭園の奥、聖堂は左の門から。
どちらも探索を終えた。
残っているのは、もう一つの石門の先だけだ。
その奥に光る石の道標がかすかに見えていた。
「あっちは、まだ行ってないわね」
セラが中央の道を顎で示した。
「ああ。行こう」
泉は悲しみと懐かしさ。
聖典は後悔。
ロザリオは献身。
この遺跡は、かつてここにいた人間の感情を伝えてくる。
あの従者は、「お嬢様」の幸せを祈っていた。
聖典の人々は、聖女への罪を悔いていた。
繋がっているのか。
それとも、別々の物語なのか。
中央の道の先には、何が待っているのだろう。




