第05話 古代の聖典
「読めない。だが、この悲しみは分かる」
――記録士の手帳より
左の石門をくぐると、通路の装飾が変わった。
壁の意匠が、花から文字に変わっている。
古代文字だ。
泉のほとりで見たのと同じ字形が、壁一面に連なっていた。
「レイン、読める?」
セラが壁を見上げながら聞いた。
「……全部は無理だ。でも、いくつかの字形は追える」
手帳を開き、養父の解読メモと照合しながら歩いた。
読める単語を拾っていく。
「祈り」「過ち」「我ら」。
断片的だが、これは何かの宣言だ。
碑文よりも長く、祈りのような文体。
壁の文字は途中から筆致が変わっていた。
最初は整然とした字形だったのが、通路の奥に進むにつれ、線が荒くなっている。
書いた人間の感情が変わったのか、あるいは書き手そのものが変わったのか。
通路は長くなかった。
突き当たりに、石の扉がある。
重そうだったが、ガルドが片手で押すとゆっくりと開いた。
扉の先は、広い部屋だった。
天井が高い。
通路の倍以上はある。
壁は磨かれた白い石で覆われ、両脇に石のベンチが並んでいる。
十脚ほどだろうか。
向かい合うように配置されていた。
正面の壁には大きな円形の窓があり、外光が差し込んでいた。
窓の周囲にはあの白い花の意匠が彫られている。
光が白い壁に反射し、部屋全体が柔らかく輝いていた。
「……聖堂みたい」
セラが呟いた。
僕も同じことを思っていた。
石のベンチ、高い天井、正面の窓。
聖堂の構造だ。
ただし、祭壇がない。
聖堂であれば正面に祭壇があるはずだが、その場所には石の台座だけが置かれていた。
そして台座の上に、一冊の本がある。
「本?」
フィノが首を傾げた。
「遺跡に、本?」
セラの目配せを受けて、僕が台座に近づいた。
紙ではない。
何かの革を使った装丁だ。
革の表面は滑らかで、年月を感じさせない。
表紙には古代文字が刻まれている。
手帳と照合する。
(……「我らの」……「懺悔」……)
「我らの懺悔」。 これは、この本の題名だ。
手が震えた。
記録士として、原形を留めた書物を遺跡から発見することは極めて稀だ。
革は腐り、文字は消える。
何千年も残る書物は普通、存在しない。
だがこの遺跡では花が咲き続け、水が輝き続けている。
この本もまた、同じように残っている。
慎重にページを開いた。
革紙が指先に吸い付くような感触がある。
薄い革紙に、びっしりと古代文字が記されている。
インクの色は褪せていない。
書いた人間の筆圧まで伝わってくるような、鮮明な文字だった。
読めない。
ほとんどの文字が読めない。
養父の解読メモにある字形は限られていて、全体のごく一部しか追えない。
一ページに数語、拾えればいい方だった。
だが。
ページを繰るたびに、胸の奥が重くなった。
読めないはずなのに、文字の並びが何かを訴えてくる。
インクの滲み。
ページの端に残る指の跡。
書いた人間の手が震えていたことが、字の乱れから伝わってきた。
これは冷静な記録ではない。
感情を抑えきれないまま書かれた文章だ。
「……読めない。だが、この悲しみは分かる」
気づけば、口から勝手に言葉が出ていた。
「悲しみ?」
セラが眉を上げた。
「この本を書いた人間は、泣きながら書いている。字が乱れてる。ページにインクの滲みがある。……涙の跡だ」
セラが本を覗き込んだ。
古代文字は読めなくても、ページに残る痕跡は見て取れたのだろう。
表情がわずかに変わった。
「何の本なの」
「表紙に書いてあるのは『我らの懺悔』。中身は……読める部分を探す」
深呼吸して、気持ちを切り替えた。
感傷に浸っている場合ではない。
記録士としての仕事をする。
ページをゆっくり繰りながら、知っている字形を拾った。
(……「封印」……「聖女」……「我らの罪」……)
僕は手を止めた。
「セラ。この本は聖典だ」
「聖典?」
「ただし、神が与えた聖典じゃない。ここにいた人間が、自分たちの手で書き残した聖典だ。聖女への懺悔が記されてる」
「聖女? 伝説の類?」
セラが訝しげに言った。
当然の反応だ。
現代において聖女は御伽噺の登場人物でしかない。
神が人の世に遣わしたとされる存在。
子どもに聞かせる昔話の中にしかいない。
「わからない。でも、この遺跡を造った人間にとっては実在の存在だったはずだ。懺悔を書き残すほどの」
フィノが本の傍に佇んでいた。
読むのではなく、目を閉じている。
何かを感じ取ろうとするように。
「フィノ、何かわかるか」
「……後悔してる。この本を書いた人、触れた人、みんな。ものすごく」
フィノの声は静かだった。
泉の時のような激しい反応ではない。
もっと深い、静かな波のようなものが伝わっているのだろう。
「読めない部分が多すぎる。それに、この遺跡の外に出したら朽ちるかもしれない。ここで写せるだけ写す」
僕は手帳を広げ、読める字形と配置を丹念に書き写していった。
全文の解読は今の僕には不可能だ。
だが、字形の並びと出現頻度を記録しておけば、いつか法則が見えてくるかもしれない。
セラとガルドが周囲を警戒する中、フィノが黙って隣に座った。
何も言わず、ただ僕が手帳を埋めていくのを見守っている。
(……エルドさん、あなたが見たかったものは、こういうものだったのかもしれない)
ページの終盤で、読める箇所を見つけた。
他の部分より字が大きく、丁寧に書かれている。
書き手が、この言葉だけは確実に残したかったのだとわかる。
(……「彼女の」……「眠り」……「守れ」……「我らの罪」……「いつか」……「裁いて」……)
僕は声に出して繋いだ。
「『彼女の眠りを守れ。我らの罪を、いつか裁いてくれるように』」
沈黙が落ちた。
聖堂の窓から差し込む光が、白い壁を静かに照らしていた。
「……誰が眠ってるの」
フィノが聞いた。
「聖女だろうな。この聖典を書いた人間は、聖女が眠りについたと記している。そして、その眠りを守れと」
「守れって、誰に」
「この聖典を読む者すべてに対して、だろう。……つまり、僕たちのような、いつかこの遺跡を見つける人間に」
フィノが泉の方角に目をやった。
あの泉も、この聖典も、同じ人々が守ろうとしたものなのかもしれない。
ガルドが壁にもたれたまま、腕を組んでいた。
「罪を裁いてくれ、か」
低い声だった。
何かを噛み締めるような響きがあった。
「ああ。何の罪かはまだわからない。でも、この人たちは裁かれることを望んでいたんだ。聖女に」
僕は聖典を閉じ、台座の上に丁寧に戻した。
石のベンチに目をやる。
ここに座り、この聖典の言葉に頭を垂れていた人間がいたのだ。
何十人も、何百人も、何千人も、もしかしたら何万人も。
何を悔い、何を祈って。
その答えは、この読めない文字の中に眠っている。
泉の碑文が思い出される。「この水だけが、あの頃のまま」。
あの頃とは、聖女がまだ目覚めていた頃のことだろうか。
まだ、断片でしかない。
だが、断片同士が繋がり始めている。
「全部は写しきれなかった。また来る必要がある」
「道順は覚えたわ」
セラが頷いた。
その目が、少しだけ真剣さを増していた。
伝説の類、と訝しんでいた先ほどとは、明らかに何かが変わっている。
僕たちは聖堂を出た。
振り返ると、円形の窓から光が漏れ、通路の石畳に長い影を落としていた。
あの聖典は、僕たちが去った後も、あの台座の上で読まれる日を待ち続けるのだろう。
聖堂の奥に、まだ道が続いている。
この遺跡に刻まれた物語は、まだほんの一端しか見えていない。
聖女とは誰だったのか。
何が起きたのか。
なぜ、人々は懺悔していたのか。
答えは、この先にある。




