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記憶の遺跡 ― 失われた王国  作者: 智信
第一部

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第04話 聖なる泉

「この水だけが、あの頃のまま」

――泉のほとりに刻まれた碑文

 庭園の奥へ進むと、さらに空気が変わった。

 花の香りが濃くなっている。

 あの白い花――名前もわからない、図鑑にも載っていない花だ。

 庭園の中心より奥に行くほど、群生が密になっていく。

 まるで、何かに導かれるように。


「水の匂いがする」


 フィノが立ち止まった。

 目を閉じ、深く息を吸い込んでいる。


「花の匂いとは違う。もっと……奥から来てる」


 僕も意識を向けた。

 花の甘い香りに混じって、確かに別の匂いがある。

 もっと深く、もっと澄んだ匂い。

 噴水の水とは違う何かだ。

 道は庭園の花壇を抜け、石積みの低い壁に沿って続いていた。

 壁にも花の装飾が彫られている。

 同じ意匠だ。

 五枚の花弁に、細い筋。

 この遺跡を造った人間は、よほどこの花を大切にしていたらしい。


「警戒して」


 セラが盾を構え直す。

 ガルドが無言で剣の柄に手をかけた。

 石畳の小道は緩やかに下り、花に覆われた石の壁を抜けると、急に視界が開けた。


 泉があった。

 庭園の噴水とは比べものにならない。

 自然の岩盤を削り出したような盆地に、透明な水が満ちている。

 広さは、小さな広場ほどだろうか。

 水面は鏡のように静かだった。

 波紋ひとつない。

 風もないのに、水のほとりの白い花が微かに揺れている。

 そして、光。

 水底から光が湧いている。

 青白い、淡い光。

 壁に嵌め込まれた石とは違う種類の輝きだ。

 もっと柔らかく、もっと温かい。

 まるで、水そのものが生きているかのような。

 泉の周囲には石が並べられていた。

 腰掛けるための石だろうか。

 表面は滑らかに磨かれ、人の体に合わせた緩やかな曲面を持っている。

 かつて誰かがここに座り、水面を眺めていたのだ。

 何千年も前に。

 空気が澄んでいた。

 庭園の中でも、ここは格別だ。

 息を吸い込むと、肺の奥まで透き通るような感覚がある。

 体の隅々まで洗われていくような清浄さだった。


「……きれい」


 フィノが息を呑んで、一歩前に踏み出そうとした。


「進まないで」


 セラが制止する。


「わかってる。でも……」


 フィノの目が、泉に吸い寄せられている。

 瞬きすら忘れているように見えた。


 少し離れた位置から泉の周囲を見回した時、岩肌に何かが刻まれていることに気づいた。

 文字だ。

 古代文字。

 通路の壁に刻まれていたのと同じ字形。

 岩の側面に回り込み、手帳を取り出し、養父の書き写した字形と照合する。

 一文字ずつ、慎重に。

 養父の解読メモを頼りに、字形を追っていく。

 今回は、少し読めた。


(……「この水だけが」……「あの頃のまま」……)


「この水だけが、あの頃のまま」。

 碑文だ。

 誰かがここに刻んだ言葉。

 びっしりと刻まれた文字の中で、この一節だけがひときわ深く彫られていた。

 まるで、この言葉だけは特別だったかのように。

 養父の解読メモにはない文だった。

 養父が残した字形の知識で、養父が知らなかった言葉を読んでいる。

 胸の奥が、静かに熱くなった。


「セラ、碑文がある。読める部分がある」


「何て書いてあるの」


「『この水だけが、あの頃のまま』。前後は読めない」


「……あの頃?」


 セラが眉をひそめた。


「いつの話よ、それ」


「わからない。けれど、この泉が何か特別なものだということは確かだ。碑文を残した人間にとって、この水は大切なものだった」


 セラは泉を見つめ、小さく頷いた。


「……ここに座って、泉を眺めていた人がいたのね。何千年も前に」


 石の腰掛けを見ながら、セラが呟いた。

 いつもの鋭い口調ではなく、静かな声だった。


 僕は碑文をスケッチしながら、水面に目をやった。

 近づくと、光がわずかに揺らいだ。

 手を伸ばせば届く距離に、水面がある。

 記録士としての好奇心が、指先を動かした。


 水面に手を伸ばす。

 指先が水面に届く寸前だった。


 花の匂いが、頭の中を満たした。


 あの白い花の匂いだ。

 庭園に咲いていたのと同じ。

 しかし、こちらの方がずっと濃い。

 匂いというよりも、記憶に近い。

 誰かが花を手に取っている。

 花びらを指で撫でている。

 その感触が、なぜか僕の指先にも伝わってくる。

 それだけではなかった。

 泣いている。

 誰かが、泣いている。

 声は聞こえない。

 姿も見えない。

 ただ、泣いているという感覚だけが、水面から立ち昇ってきた。

 悲しみとも、懐かしさとも、後悔ともつかない、名前のない感情。


「触っちゃ駄目!」


 フィノの声が鋭く飛んだ。

 我に返って手を引いた。

 一瞬で、花の匂いも泣き声も消えた。


「……フィノ?」


 振り返ると、フィノの顔が青ざめていた。

 さっきまで泉に見惚れていた人間と同じとは思えない表情だった。


「今、何か感じたでしょ」


「……ああ。花の匂いと、誰かが泣いている気配を……」


「それ、この泉に残ってるんだよ。誰かの記憶が。すごく深くて、すごく古い。不用意に触ったら、怒られる」


「怒られるって、誰に……」


「わかんない。でも、何かがこの泉を守ってる。あたしにはわかる」


 フィノの声は震えていた。

 怯えではない。

 もっと根源的な何か。

 自分でも制御できない、身体の奥底から湧き上がる本能のようなものが、フィノを突き動かしている。

 セラがフィノの肩を抱いた。


「落ち着きなさい。大丈夫よ」


「うん……ごめん。自分でも何がこんなに気になるのかわかんない」


「レイン」


 セラが僕を見た。

 叱るような目だった。


「フィノの言う通りにしなさい。もう触らないで」


「……わかった」


 ガルドが泉の方を見ていた。

 寡黙な男の目が、わずかに細められている。

 何を考えているのかはわからない。

 ただ、いつもの無関心とは違う温度があった。

 腕を組んだまま、水面の光を追っている。


「この場所は、ただの遺跡じゃないな」


 ガルドが言った。

 珍しく、遺跡についての意見だった。


「ああ。ここには何かが残ってる。物じゃなく、もっと……」


「感情か」


「たぶん」


 僕は手帳に記録した。


 水面に手を近づけた時の感覚。

 花の匂い。

 泣いている気配。

 碑文の内容。

 フィノの反応。

 養父の字形の横に、僕自身の文字が並んでいく。

 手帳の後半が、少しずつ埋まっていく。


 ガルドが泉の周囲を一周して戻ってきた。


「出入口はここだけだ。奥はない」


「行き止まりか」


「ああ。戻って別の道を探した方がいい」


 僕は頷いた。

 泉の調査はこれ以上危険だ。

 碑文の記録は取った。

 今はこれで十分だ。

 立ち去ろうとした時、フィノが動かないことに気づいた。

 泉を見つめたまま、一歩も動いていない。


「フィノ?」


「……知ってる」


「え?」


「この水の匂い。知ってる。ずっと前から」


 フィノの目に涙が浮かんでいた。

 泣いているのではない。

 涙が勝手に出ている、という感じだった。

 本人も戸惑っているのが見てとれた。


「なんで泣いてるんだろ、あたし。わかんない。でも、懐かしい。すごく……」


 僕はフィノの肩に手を置いた。


「大丈夫か」


「うん。大丈夫。ごめん、変だよね」


「変じゃない」


 変じゃない。

 僕にはわからないけれど、フィノがそう感じるなら、きっとそこに理由がある。

 いつだってそうだったから。

 僕だって、さっき水面に手を近づけただけで感じた。

 あの花の匂い。

 あの涙の気配。

 この泉には、誰かの想いが何千年も溶けずに残っている。


 フィノは袖で目元を拭い、小さく笑った。


「行こう。まだ先があるんでしょ」


 僕たちは泉を後にした。

 来た道を戻り、庭園に出た。

 噴水の先に、石の門が二つ並んでいた。

 先はまだ長い。

 振り返ると、泉の方角から淡い光が漏れていた。

 あの水は、僕たちが去った後も、ずっとあの場所で輝き続けるのだろう。

 あの頃のまま。

 何千年も。

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