第31話 聖女の証
「彼女は確かにいた。だが、もうどこにもいない」
――遺跡の最深部にて
足を踏み入れた。
小さな部屋だった。
これまでの遺跡とは、何もかもが違う。
広大な広間も、長い通路も、高い天井もない。
数歩で端から端まで歩けるほどの、狭い空間。
壁は白い石でできている。
黒い石壁が続いていた王城の中で、ここだけが白い。
光る石が壁に埋め込まれていた。
通路や広間にあったものと同じだが、ここの光は柔らかい。
部屋全体を淡く照らしていた。
寝台があった。
部屋の奥、壁に沿うように置かれた小さな寝台。
石の台の上に薄い布が敷かれている。
布には皺が残っていた。
誰かがそこで眠り、起き上がり、また眠った痕跡。
何千年もの時間を経て、その痕跡だけが残っている。
寝台の脇に、花があった。
白い花弁に淡い紫の筋が入った花。
泉のほとりで見た花。
花畑に咲いていた花。
ヴェールに飾られていた花。
あの花が、ここにも咲いていた。
小さな器に挿されたまま、まだ瑞々しい。
ヴェールに飾るほど愛していた花を、枕元にも置いていた。
「ヴェールの花だね」
フィノが、小さく呟いた。
セラが盾を下ろした。
ガルドが剣を鞘に収めた。
ここには何もない。
敵も、試練も、幻視もない。
ただ、小さな部屋がある。
「……ここが、あの人の部屋なんだ」
誰も答えなかった。
だが全員が同じことを感じていた。
遺跡の最深部。
竜を越え、すべての試練を越えた先にあったのは、宝物でもなく、王の広間でも、聖なる祭壇でもなく、一人の人間の私室だった。
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部屋の中を、ゆっくりと見回した。
壁の一面に、小さな窓があった。
木の鎧戸が閉じている。
手をかけて開くと、窓の向こうに花畑が広がっていた。
白い花弁に淡い紫の筋が入った花が、どこまでも続いている。
風はない。
音もない。
ただ花だけが静かに揺れていた。
この人は毎日、この窓を開けて花畑を眺めていたのだ。
寝台の反対側の壁に、小さな棚があった。
石を削って作られた棚だ。
何かが置かれていた跡がある。
棚の表面に、丸い痕が残っていた。
杯か、あるいは小瓶か。
何かが長い間そこに置かれ、手で持ち上げられ、また戻された、その繰り返しの痕。
棚の隣に、小さな台がもう一つあった。
腰の高さほどの石の台。
表面は滑らかだが、中央が僅かに窪んでいる。
何かを置いて使っていた台だ。
台の前の床に、人が立った跡のような磨り減りがあった。
毎日そこに立ち、何かをしていた。
壁に触れた。
白い石の表面は滑らかだった。
だが一箇所だけ、微かに窪んでいる場所があった。
寝台の傍、ちょうど手が届く高さだ。
寝台に座った人間が、繰り返し同じ場所に手をついた跡。
石が磨り減るほどの、途方もない時間の蓄積。
寝台の端にも窪みがあった。
誰かがそこに座り続けた跡だ。
布の皺と窪みの位置が一致している。
この人は、寝台の端に座り、壁に手をつき、何かを考えていた。
毎日。
(……ここに、いたんだ)
これまでの遺跡では、聖女の存在はいつも「物語」だった。
聖典の文字。
幻視の映像。
近衛の嘆き。
王の告白。
従者の影。
竜の怒り。
すべてが、誰かの口を通して語られた聖女だった。
だがここは違う。
ここには誰の声もない。
語られた物語もない。
ただ、一人の人間が生活した痕跡がある。
この寝台で眠り、この棚に手を伸ばし、この壁に手をついていた人間がいた。
聖女でも、神の使いでも、物語の中の存在でもない。
ただの一人の人間が、この小さな部屋で生きていた。
(これが、証なんだ)
彼女が確かにここにいた。
その証が、この部屋だ。
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鞄が、揺れた。
最初は歩いた振動だと思った。
だが違う。
鞄の中から、何かが強く震えている。
鞄を開けた。
手帳が跳ねるように震えていた。
革の表紙が小刻みに揺れている。
これまでにも手帳が震えたことはあった。
遺跡に入った時。
内郭への扉の前。
だが今回は、比べものにならない。
鞄の布地ごと揺れるほどの、激しい震えだった。
手帳を取り出した。
両手で持っても震えが止まらない。
ページが勝手にめくれていく。
養父の文字が書かれた最後のページで止まった。
古代文字の書き写し。
何年も机に向かい、一文字ずつ写していた、あの文字。
その最後のページ。
養父はこの場所を探していた。
生涯をかけて。
各地の古文書から断片を集め、解読できない文字と格闘し続け、学会には認められなかった研究を、それでも続けていた。
「失われた王国」。
養父の手帳に残された、その言葉の意味が、今ようやくわかる。
手帳の震えが、変わった。
跳ねるような激しさが収まり、細かく、深い振動に変わっていく。
まるで泣いているように。
あるいは、ようやく辿り着いたことを伝えるように。
「……とうさん」
声が出ていた。
初めて口にした。
あの人が生きている間、一度も言えなかった言葉。
エルドさん。
いつもそう呼んでいた。
家族だったのに。
父だったのに。
最後まで一線を引いたまま、呼べなかった。
悔恨の道で思い知らされた。
剣の試練で突きつけられた。
あの人との距離を、自分の方が作っていたのだと。
だがもう、遅い。
あの人はもういない。
手帳を、握りしめた。
「あなたが探していたのは、ここだったんですね」
養父が生涯をかけて追いかけていた場所。
あの机で、あの図書館で、一文字ずつ古代文字を写していた夜。
あの人の研究は、最初からこの場所を指していた。
この部屋を。
この人を。
フィノが小さく息を呑んだ。
セラが静かに目を伏せた。
ガルドは黙って立っていた。
一緒に来たかった。
養父と二人で、この部屋に立ちたかった。
あの人の目でこの文字を見てほしかった。
あの人の手でこの壁に触れてほしかった。
でも、もういない。
あの人は六年前に死んだ。
隣にいたのに、何もしなかった。
残されたのは手帳と、手帳に込められた生涯の研究だけだ。
手帳の震えが、少しずつ静まっていった。
穏やかに。
満たされたように。
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手帳を鞄に戻した。
部屋を見回した。
もう一度、隅々まで。
寝台。
棚。
壁。
窓。
花。
光る石。
誰もいなかった。
聖女の姿は、どこにもない。
竜は言った。「この先が、主の部屋だ」と。
遺跡は語っていた。
聖女は眠りについたと。
聖典には懺悔が記されていた。
人々は信じていた。
聖女がいつか目覚めてくれることを。
だがここには、誰もいない。
寝台には誰も横たわっていない。
布の皺だけが、かつてそこに人がいたことを語っている。
眠りについたのか。
光の中に消えたまま、どこかで眠っているのか。
神のもとに帰ったのか。
それとも――最初から、人々の願いが作り上げた幻だったのか。
答えは、なかった。
この遺跡で、たくさんのものを見てきた。
番人の涙。
近衛の叫び。
従者の献身。
王の後悔。
竜の怒り。
聖女のために泣き、怒り、嘆き、祈った人々の想い。
そのすべてを記録してきた。
だが、聖女自身の声は、最後まで聞こえなかった。
あの映像の中でさえ、彼女の声は聞こえなかった。
感情だけが伝わった。
ただ幸せになりたかったという、あの想いだけが。
この部屋で、彼女は何を想っていたのだろう。
寝台に座り、壁に手をつき、窓の向こうの花畑を眺めていた時間。
その時間に流れていた感情を、もう誰も知ることはできない。
手帳を取り出した。
最後の記録を書いた。
『聖女の私室。竜の奥にあった小さな部屋。寝台と花と、日常の痕跡。彼女が確かにここにいたことの証。だが、姿はない。答えは見つからなかった。彼女は確かにいた。だが、もうどこにもいない』
手帳を閉じた。
ペンを置いた。
顔を上げた時、頬が濡れていた。
いつからか、涙が流れていた。
止められなかった。
悲しいのか。
嬉しいのか。
悔しいのか。
わからない。
何も、わからない。
ただ涙が溢れて止まらない。
この部屋にいた人のために。
ここに辿り着けなかった養父のために。
あるいは、もっと別の何かのために。
フィノの手が、僕の腕に触れた。
何も言わなかった。
ただ、そこにいた。
セラが窓の外の花畑を見つめていた。
ガルドが静かに目を閉じていた。




