第03話 時の外側
水の音が、少しずつ近づいてくる。
通路は緩やかに曲がりながら下り続けていた。
壁の光る石は相変わらず足元を照らしている。
規則正しく、等間隔に。
人の手で配置されたものだと確信できる並びだった。
「レイン、何か気づいた?」
セラが前を見たまま聞いてきた。
「通路の構造が変わってきてる。さっきまでは仕上げが簡素だったのが、ここからは表面が磨かれてる。壁のレリーフも、花だけだったのが人物像になった」
「……外から内へ入ってきてるってこと?」
「たぶん。城壁から、居住区へ向かっているような感じだ」
僕は歩きながら手帳にメモを取った。
通路の幅、天井の高さ、レリーフの変化。
記録士の仕事だ。
それに、書くことで頭が整理される。
この遺跡の建築様式は、やはりどの時代にも属さない。
古代アルス文明の直線的な構造でもなければ、中世カルディア王国の円弧を多用した様式でもない。
どちらかといえば有機的だ。
通路は真っ直ぐではなく、緩やかに曲線を描いている。
まるで、生き物の体内を歩いているような。
(……時間の外側にある場所)
第一印象で感じたその言葉が、歩くほどに確信に変わっていく。
ここは、歴史の中のどこにも位置づけられない。
どの文明の延長線上にもない。
まるで、世界の流れから切り離されたまま、ここだけが止まっているような……
「フィノ、体調はどうだ」
「ん? 平気だよ。むしろ……調子いいかも」
フィノが不思議そうに自分の手を見つめた。
「身体が軽い。いつもより、ずっと。ここの空気、合ってるのかな」
「合ってるって、何にだ」
「わかんない。でも、なんかすごく楽」
フィノの魔術は、場所に左右されることがある。
魔力の薄い荒野では不調になり、水や緑の豊かな場所では活性化する。
しかし、ここまで急激に変わるのは見たことがない。
普通の森や泉とは、何かが根本的に違う。
「記録しておく」
「うん。よろしく、記録士さん」
フィノが軽く笑った。
こういう時のフィノは、いつも通りだ。
深刻な状況でも、不思議な現象を目の前にしても、フィノはフィノのままでいる。
それが、どれだけ僕たちの支えになっているか、本人は知らないだろう。
通路の天井が少しずつ高くなってきた。
足元の石畳も変化している。
最初は不揃いだった石が、ここでは綺麗に切り揃えられている。
靴底に伝わる感触が違う。
歩きやすい。
明らかに、人が頻繁に通ることを前提に作られた道だ。
レリーフの人物像がさらに精緻になっていた。
衣装の紋様まで彫り込まれている。
描かれているのは行列のような場面。
先頭に立つ人物は、他の人物より一回り大きく彫られている。
王か、祭司か。
その背後に付き従う人々。
僕は足を止めて、行列の先頭の人物をスケッチした。
頭部に冠のようなものを戴いている。
しかし、顔の部分だけが意図的に削り取られていた。
風化ではない。
鋭い刃物で、丁寧に。
(……なぜ顔だけ消したんだ?)
他の人物の顔は残っている。
先頭の人物だけだ。
記憶から消したかったのか。
それとも、見てはいけなかったのか。
疑問を手帳に書き留めて、先を急いだ。
「ガルド」
「ん」
「行列のレリーフが続いてる。この先に何か重要な場所があるのかもしれない」
「……用心するか」
ガルドが両手剣の柄に手をかけ直した。
彼は遺跡の歴史には興味がない。
だが、「この先に何かある」と言えば、それが警戒すべき対象かどうかを即座に判断する。
元兵士の勘だ。
その勘に、何度も助けられてきた。
半年前にパーティを組んだ時は、正直不安だった。
寡黙すぎる男と連携が取れるのかと。
だが蓋を開けてみれば、ガルドほど背中を預けられる男はいなかった。
言葉は少ないが、背中は広い。
水の音が、はっきりと聞こえるようになった。
流れている音ではない。
湧き出ている音だ。
どこかで水が地面を叩いている。
「近いわね」
セラが盾を構え直した。
「全員、足を止めて。私が先に確認する」
セラが通路の先を覗き込み、しばらく沈黙した。
それから、盾を下ろした。
「……危険はなさそう。来て」
セラの声が、少しだけ柔らかくなっていた。
戦闘時の声ではない。
何かに驚いた時の声だ。
僕たちはセラの横に並んだ。
通路の先が、開けていた。
頭上が開けていた。
建物の壁に囲まれた中庭のような構造で、空が見える。
柔らかな光が差し込み、空間全体を照らしていた。
そこに広がっていたのは、庭園だった。
石畳の小道が曲線を描いて続いている。
道の両脇には草が茂り、花が咲いていた。
何千年も放置されていたはずなのに。
手入れする者も、水をやる者もいないはずなのに。
中央には小さな噴水があった。
水が音を立てている。
あの水の音は、これだったのか。
「……嘘でしょ」
セラが呟いた。
「花が咲いてる。こんな場所に。枯れずに」
ガルドが無言で周囲を見回している。
警戒しているのか、驚いているのか。
たぶん、両方だ。
剣の柄から手が離れていた。
フィノが一歩前に出た。
目を閉じて、深く息を吸い込む。
「……ここ、すごく澄んでる。空気も、水も。ずっと、誰かが大切にしてた場所だ」
僕は手帳を開いた。
書かなければ。
この光景を記録しなければ。
養父が見たら、どんな顔をしただろう。
あの人が追い続けた「失われた王国」。
その手がかりが、こんな形で目の前に広がっている。
あの人の代わりに、僕がここにいる。
しかし、何を書けばいいのかわからなかった。
記録士として、いくつもの遺跡を見てきた。
崩れた城壁、朽ちた祭壇、砂に埋もれた石碑。
遺跡とは、失われたものの痕跡だ。
かつてそこにあったものが消えた後の、残骸だ。
しかし、ここは違う。
何も失われていない。
何も消えていない。
花は咲き、水は流れ、光は満ちている。
(……時の外側)
遺跡を初めて見た時に思い浮かんだ言葉が、背筋をなぞった。
ここは、本当に時間の外にあるのだ。
「レイン、あんた泣きそうな顔してるわよ」
「……そんなことはない」
「嘘おっしゃい」
セラがため息をついた。
けれど、その目も少しだけ潤んでいるように見えた。
僕たちは庭園の中を慎重に歩いた。
石畳の道は噴水を中心に緩やかな弧を描いている。
花壇には見たことのない花が咲いていた。
白い花弁に薄紫の筋が入った、小さな花だ。
図鑑にも記憶にもない種だった。
フィノがしゃがみ込み、花に顔を近づけた。
「いい匂い。甘くて、少しだけ悲しい匂い」
「悲しい匂いってなんだよ」
「わかんない。でも、そうとしか言えない」
ガルドが噴水の縁を調べていた。
石の継ぎ目を指で確かめ、水の流れ出る口を覗き込んでいる。
「水源が見えない。どこから湧いてる」
「自然の水脈か、あるいは……」
僕は言葉を濁した。
自然現象では説明がつかない。
この庭園を維持しているのは、自然の力ではない。
何か別のものだ。
記録士の知識では、これに最も近い現象は「聖域」だ。
聖術師や高位の祭司が、特定の場所を時間の劣化から守る術。
だが、それはせいぜい数十年しか持たない。
ここは、数百年か、もしかしたらそれ以上だ。
僕はペンを手帳に走らせた。
『通路を抜けた先に庭園。数百年放置されていたはずだが、花が咲き、水が湧いている。風化・劣化の痕跡なし。フィノの感覚は活性化。遺跡全体が何らかの力で保存されている可能性。調査を継続する』
顔を上げると、庭園の奥にさらに通路が見えた。
噴水の向こう側、花に囲まれた石の門。
その先は暗く、光る石の道標はまだ続いていた。
この遺跡は、まだ続いている。
僕たちの最初の一歩は、まだ始まったばかりだった。




