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記憶の遺跡 ― 失われた王国  作者: 智信
第三部

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第29話 聖女の願い

「ただ、幸せになりたかった。それだけだったのに」

――聖女の最後の想い

 扉は黒い石でできていた。


 装飾はない。

 取手もない。

 ただ壁の中に浮かび上がった、四角い輪郭。

 石壁が崩れた向こうに、それはあった。

 扉の向こうから、熱が伝わっている。

 石を通して、微かな振動が足の裏に届いていた。

 何かがいる。

 巨大な何かが、扉の向こうで息をしている。


「開けられるかしら」


 セラが盾を構えたまま呟いた。

 ガルドは剣を抜いたまま、扉の両脇を見回している。

 フィノが僕の後ろに立っていた。

 顔色が悪い。

 扉の向こうの気配を、誰よりも強く感じているのだろう。


 僕は手帳を鞄に戻した。

 扉に歩み寄り、手を伸ばした。


 指先が石に触れた瞬間、体の奥で何かが応えた。

 かつてリングに触れた時の記憶だ。

 銀色のリングを握った時に感じた、あの微かな温もり。

 あの時と同じものが、今、胸の奥から蘇っている。

 光が弾けた。


---


 白い光に包まれた。


 目を閉じたのか、開いているのか、わからなかった。

 仲間の声が消えた。

 石の床の感覚が消えた。

 体ごと、光の中に引きずり込まれていく。

 これまでに何度も幻視を経験した。

 だが今回は、何もかもが違った。

 黒いヴェールに触れた時でさえ、自分の体の輪郭は残っていた。

 今は、それすらない。

 意識ごと、別の場所に運ばれている。


(……これは、何だ)


 だが抗えなかった。

 映像が、始まった。


 光の中に、人影が降り立った。

 白い衣を纏っている。

 顔はぼやけて見えない。

 だが、わかる。

 この人だ。

 この遺跡のすべての中心にいる人。

 聖女だった。


 大地に光が広がった。

 彼女が歩いた後に、草が芽吹き、花が咲いた。

 彼女が大地に手を置くと、そこから水が湧いた。

 澄んだ水だ。

 聖なる泉と同じ、あの透き通った水。

 彼女が腰をかけると、その周りから白い花が咲いた。

 白い花弁に淡い紫の筋が入った花。

 あの花だ。

 ヴェールに飾られていた花。

 花畑に咲いていた花。

 泉のほとりに揺れていた花。

 空を、小さな光が舞った。

 妖精だ。

 光の粒子のような存在が、彼女の周りを飛び回っている。

 フィノの中に流れているという妖精の血。

 その源がここにあった。

 人々が集まってきた。

 笑っている。

 手を合わせている。

 祈っている。

 彼女の前にひざまずき、涙を流している者もいた。


 映像が流れていく。

 止めることはできない。

 走馬灯のように、次々と。

 彼女の祝福のもとで、王国には平和が約束された。

 王は慈悲深く、人々は笑顔の絶えない日々を送った。

 城の回廊を歩く彼女の姿。

 窓から差し込む光。

 庭園の花々。

 子どもたちが庭を駆け回り、人々が彼女の名を口にするたび、その顔に笑みが浮かんだ。

 穏やかな日々が、矢のように過ぎていく。


 一人の男が映った。


 彼女の傍に立っている。

 背が高く、真っ直ぐな姿勢。

 誠実な顔つきをしていた。

 顔は見える。

 近衛だ。

 あの通路で怨念となっていた男。

 だが映像の中の彼は、穏やかに笑っていた。

 あの叫びも、あの怒りも、まだどこにもない。

 ただ一人の男が、愛する人の傍に立っている。

 彼女と並んで歩いている。

 花畑の中を。

 肩が触れるほど近くに。

 時折、視線を交わしている。

 彼女が足を止め、花に手を伸ばす。

 男がそれを見守っている。

 二人の間にある空気は穏やかで、静かで、満ち足りていた。


 幸せだった。


 映像から伝わってくるのは、ただそれだけだった。

 声は聞こえない。

 だが感情は伝わる。

 彼女が感じていたものが、胸の奥に直接流れ込んでくる。

 穏やかで、温かくて、ただ幸せだった。

 彼女が望んでいたのは、ただそれだけだったのだ。

 特別な何かではない。

 誰もが望む、当たり前の幸せ。

 それだけを、彼女は望んでいた。


---


 映像が暗転した。


 唐突だった。

 光が消え、花が消え、空が暗くなった。

 男の姿が、なかった。

 さっきまで隣にいた男が、映像の中からいなくなっていた。

 何の前触れもなく。

 何の説明もなく。

 ただ、消えていた。

 隣にいた温もりだけが、残像のように漂っていた。


(……処刑だ)


 王が語った。

 ある夜、命じたと。

 近衛は抵抗しなかったと。

 あの告白が蘇った。


 彼女の全身から何かが溢れ出した。

 光ではない。

 色でもない。

 だが見える。

 黒いヴェールの幻視で見たものと同じだ。

 底のない悲しみ。

 だが今度はそれだけではなかった。

 悲しみの奥に、もっと激しいものがある。

 憎しみだ。

 世界を、憎んでいる。


 空が裂けた。

 大地が震えた。

 花が枯れ、泉が濁り、人々が逃げ惑っている。

 あれほど美しかった世界が、一瞬で壊れていく。

 映像の端に、巨大な影が見えた。

 空を覆うほどの翼。

 炎のような光を纏った影が、暗闇の中を旋回している。

 聖女の怒りに呼応するように、その影は暴れ狂っていた。

 大地が燃え、城が揺れた。


 世界が壊れていく。


 映像の中の彼女は立ち尽くしていた。

 周囲が崩壊していくのを、見つめてすらいなかった。

 あの花嫁の控室で見たのと同じだ。

 目は虚ろだった。

 何も映していなかった。

 壊れた人間の目だった。


 そこに、一人の人影が歩み出た。


 彼女の前に立った。

 小柄な人影だった。

 従者だ。

 あの部屋で誓いの言葉を残し、影を宿していた人。

 従者は彼女の前に立ち、何かを伝えていた。

 口が動いている。

 声は聞こえない。

 だが、意味が伝わった。

 胸の奥に、直接。


 ——お嬢様、もう十分です。


 その言葉が、沈んでいく。

 体の奥底まで。

 従者がどれほどの想いでその言葉を発したのか。

 映像を通じて、伝わってくる。


 巨大な影が遠ざかっていった。

 空の闇が、止まった。

 崩壊が、止まった。


---


 映像が静まった。


 彼女が立っていた。

 一人で。

 周囲は沈黙していた。

 暗い空。

 枯れた花。

 濁った水。

 割れた大地。

 美しかった世界は、もうどこにもなかった。

 従者の姿も消えていた。

 彼女は一人きりだった。


 彼女がゆっくりと顔を上げた。

 顔はやはりぼやけて見えない。

 だが、その姿勢から伝わるものがあった。

 怒りではない。

 悲しみでもない。

 もっと静かなもの。


 彼女が、目を閉じた。


 最後の感情が伝わった。

 言葉ではない。

 だが意味が胸を貫いた。


 ——もう、いいの。


 諦めではなかった。

 許しでもなかった。

 これ以上誰かを傷つけないために、自ら終わらせる決意だった。

 彼女の全身が淡い光に包まれていく。

 輪郭が薄れていく。

 光の粒子になって、散っていく。

 泉を湧かせ、花を咲かせ、妖精を生んだあの光が、今度は彼女自身を包んでいた。


(……消えていく)


 最後に残ったのは、一つの感情だけだった。


 ただ、幸せになりたかった。

 それだけだったのに。


 光が弾け、散った。

 そして、映像が消えた。


---


 石の床の冷たさが、最初に戻ってきた。


 膝をついていた。

 頬が濡れていた。

 泣いていた。

 いつからかわからない。

 隣でフィノが声を殺して泣いていた。

 両手で顔を覆い、肩を震わせている。

 セラが壁にもたれていた。

 目を閉じ、唇を噛んでいる。

 頬に光るものがあった。

 ガルドは片膝をつき、拳を床に押し当てていた。

 目を閉じたまま、動かなかった。


 誰も、しばらく言葉を発せなかった。


 僕は鞄から手帳を取り出した。

 手が震えていた。

 それでもペンを握った。

 記録する。

 それが、僕がここにいる理由だ。


『聖女の人生の幻視。扉に触れた瞬間に始まった。神に遣わされた日。祝福の時代。近衛との愛。幸せな時間。そして崩壊。従者の言葉で踏みとどまり、自ら光の中に消えた。最後の感情——ただ幸せになりたかった、と』


 手帳を閉じた。


 顔を上げた。

 扉が、開いていた。

 幻視の間に開いていた。

 黒い石の扉が、内側に向かって静かに開いている。

 その向こうは暗かった。

 だが暗闇の奥に、熱がある。

 振動がある。

 そして——光があった。


 赤い光だった。

 二つ、並んでいる。

 暗闇の中で、こちらを見つめている。


 目だ。


 何かの、目だった。


 セラが立ち上がった。

 盾を構えた。

 ガルドが剣を握り直した。

 フィノが僕の袖を掴んだ。

 暗闇の奥から、低い息遣いが聞こえた。

 重く、熱い息だった。

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