第29話 聖女の願い
「ただ、幸せになりたかった。それだけだったのに」
――聖女の最後の想い
扉は黒い石でできていた。
装飾はない。
取手もない。
ただ壁の中に浮かび上がった、四角い輪郭。
石壁が崩れた向こうに、それはあった。
扉の向こうから、熱が伝わっている。
石を通して、微かな振動が足の裏に届いていた。
何かがいる。
巨大な何かが、扉の向こうで息をしている。
「開けられるかしら」
セラが盾を構えたまま呟いた。
ガルドは剣を抜いたまま、扉の両脇を見回している。
フィノが僕の後ろに立っていた。
顔色が悪い。
扉の向こうの気配を、誰よりも強く感じているのだろう。
僕は手帳を鞄に戻した。
扉に歩み寄り、手を伸ばした。
指先が石に触れた瞬間、体の奥で何かが応えた。
かつてリングに触れた時の記憶だ。
銀色のリングを握った時に感じた、あの微かな温もり。
あの時と同じものが、今、胸の奥から蘇っている。
光が弾けた。
---
白い光に包まれた。
目を閉じたのか、開いているのか、わからなかった。
仲間の声が消えた。
石の床の感覚が消えた。
体ごと、光の中に引きずり込まれていく。
これまでに何度も幻視を経験した。
だが今回は、何もかもが違った。
黒いヴェールに触れた時でさえ、自分の体の輪郭は残っていた。
今は、それすらない。
意識ごと、別の場所に運ばれている。
(……これは、何だ)
だが抗えなかった。
映像が、始まった。
光の中に、人影が降り立った。
白い衣を纏っている。
顔はぼやけて見えない。
だが、わかる。
この人だ。
この遺跡のすべての中心にいる人。
聖女だった。
大地に光が広がった。
彼女が歩いた後に、草が芽吹き、花が咲いた。
彼女が大地に手を置くと、そこから水が湧いた。
澄んだ水だ。
聖なる泉と同じ、あの透き通った水。
彼女が腰をかけると、その周りから白い花が咲いた。
白い花弁に淡い紫の筋が入った花。
あの花だ。
ヴェールに飾られていた花。
花畑に咲いていた花。
泉のほとりに揺れていた花。
空を、小さな光が舞った。
妖精だ。
光の粒子のような存在が、彼女の周りを飛び回っている。
フィノの中に流れているという妖精の血。
その源がここにあった。
人々が集まってきた。
笑っている。
手を合わせている。
祈っている。
彼女の前にひざまずき、涙を流している者もいた。
映像が流れていく。
止めることはできない。
走馬灯のように、次々と。
彼女の祝福のもとで、王国には平和が約束された。
王は慈悲深く、人々は笑顔の絶えない日々を送った。
城の回廊を歩く彼女の姿。
窓から差し込む光。
庭園の花々。
子どもたちが庭を駆け回り、人々が彼女の名を口にするたび、その顔に笑みが浮かんだ。
穏やかな日々が、矢のように過ぎていく。
一人の男が映った。
彼女の傍に立っている。
背が高く、真っ直ぐな姿勢。
誠実な顔つきをしていた。
顔は見える。
近衛だ。
あの通路で怨念となっていた男。
だが映像の中の彼は、穏やかに笑っていた。
あの叫びも、あの怒りも、まだどこにもない。
ただ一人の男が、愛する人の傍に立っている。
彼女と並んで歩いている。
花畑の中を。
肩が触れるほど近くに。
時折、視線を交わしている。
彼女が足を止め、花に手を伸ばす。
男がそれを見守っている。
二人の間にある空気は穏やかで、静かで、満ち足りていた。
幸せだった。
映像から伝わってくるのは、ただそれだけだった。
声は聞こえない。
だが感情は伝わる。
彼女が感じていたものが、胸の奥に直接流れ込んでくる。
穏やかで、温かくて、ただ幸せだった。
彼女が望んでいたのは、ただそれだけだったのだ。
特別な何かではない。
誰もが望む、当たり前の幸せ。
それだけを、彼女は望んでいた。
---
映像が暗転した。
唐突だった。
光が消え、花が消え、空が暗くなった。
男の姿が、なかった。
さっきまで隣にいた男が、映像の中からいなくなっていた。
何の前触れもなく。
何の説明もなく。
ただ、消えていた。
隣にいた温もりだけが、残像のように漂っていた。
(……処刑だ)
王が語った。
ある夜、命じたと。
近衛は抵抗しなかったと。
あの告白が蘇った。
彼女の全身から何かが溢れ出した。
光ではない。
色でもない。
だが見える。
黒いヴェールの幻視で見たものと同じだ。
底のない悲しみ。
だが今度はそれだけではなかった。
悲しみの奥に、もっと激しいものがある。
憎しみだ。
世界を、憎んでいる。
空が裂けた。
大地が震えた。
花が枯れ、泉が濁り、人々が逃げ惑っている。
あれほど美しかった世界が、一瞬で壊れていく。
映像の端に、巨大な影が見えた。
空を覆うほどの翼。
炎のような光を纏った影が、暗闇の中を旋回している。
聖女の怒りに呼応するように、その影は暴れ狂っていた。
大地が燃え、城が揺れた。
世界が壊れていく。
映像の中の彼女は立ち尽くしていた。
周囲が崩壊していくのを、見つめてすらいなかった。
あの花嫁の控室で見たのと同じだ。
目は虚ろだった。
何も映していなかった。
壊れた人間の目だった。
そこに、一人の人影が歩み出た。
彼女の前に立った。
小柄な人影だった。
従者だ。
あの部屋で誓いの言葉を残し、影を宿していた人。
従者は彼女の前に立ち、何かを伝えていた。
口が動いている。
声は聞こえない。
だが、意味が伝わった。
胸の奥に、直接。
——お嬢様、もう十分です。
その言葉が、沈んでいく。
体の奥底まで。
従者がどれほどの想いでその言葉を発したのか。
映像を通じて、伝わってくる。
巨大な影が遠ざかっていった。
空の闇が、止まった。
崩壊が、止まった。
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映像が静まった。
彼女が立っていた。
一人で。
周囲は沈黙していた。
暗い空。
枯れた花。
濁った水。
割れた大地。
美しかった世界は、もうどこにもなかった。
従者の姿も消えていた。
彼女は一人きりだった。
彼女がゆっくりと顔を上げた。
顔はやはりぼやけて見えない。
だが、その姿勢から伝わるものがあった。
怒りではない。
悲しみでもない。
もっと静かなもの。
彼女が、目を閉じた。
最後の感情が伝わった。
言葉ではない。
だが意味が胸を貫いた。
——もう、いいの。
諦めではなかった。
許しでもなかった。
これ以上誰かを傷つけないために、自ら終わらせる決意だった。
彼女の全身が淡い光に包まれていく。
輪郭が薄れていく。
光の粒子になって、散っていく。
泉を湧かせ、花を咲かせ、妖精を生んだあの光が、今度は彼女自身を包んでいた。
(……消えていく)
最後に残ったのは、一つの感情だけだった。
ただ、幸せになりたかった。
それだけだったのに。
光が弾け、散った。
そして、映像が消えた。
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石の床の冷たさが、最初に戻ってきた。
膝をついていた。
頬が濡れていた。
泣いていた。
いつからかわからない。
隣でフィノが声を殺して泣いていた。
両手で顔を覆い、肩を震わせている。
セラが壁にもたれていた。
目を閉じ、唇を噛んでいる。
頬に光るものがあった。
ガルドは片膝をつき、拳を床に押し当てていた。
目を閉じたまま、動かなかった。
誰も、しばらく言葉を発せなかった。
僕は鞄から手帳を取り出した。
手が震えていた。
それでもペンを握った。
記録する。
それが、僕がここにいる理由だ。
『聖女の人生の幻視。扉に触れた瞬間に始まった。神に遣わされた日。祝福の時代。近衛との愛。幸せな時間。そして崩壊。従者の言葉で踏みとどまり、自ら光の中に消えた。最後の感情——ただ幸せになりたかった、と』
手帳を閉じた。
顔を上げた。
扉が、開いていた。
幻視の間に開いていた。
黒い石の扉が、内側に向かって静かに開いている。
その向こうは暗かった。
だが暗闇の奥に、熱がある。
振動がある。
そして——光があった。
赤い光だった。
二つ、並んでいる。
暗闇の中で、こちらを見つめている。
目だ。
何かの、目だった。
セラが立ち上がった。
盾を構えた。
ガルドが剣を握り直した。
フィノが僕の袖を掴んだ。
暗闇の奥から、低い息遣いが聞こえた。
重く、熱い息だった。




