第27話 王の玉座
「ここは玉座ではない。我が罪を見つめ続ける牢獄だ」
――玉座に縛られた王
広間が、凍りついた。
「彼女を壊した」。その言葉が黒い壁に反響し、消えていった。
誰も動けなかった。
セラが息を止めていた。
フィノが僕の袖を掴んでいた。
ガルドだけが微動だにせず、亡霊を見つめていた。
亡霊は目を閉じた。
長い、長い沈黙の後、再び口を開いた。
「……聞きたいのならば、聞くがいい。我の罪を」
諦めたような声だった。
もう隠す理由もないと。
この玉座に何千年も座り続けてきた男が、ようやく口を開く覚悟を決めていた。
僕は鞄から手帳を取り出した。
手が震えていた。
それでもペンを握った。
記録士として、ここにいる。
この告白を、一言も逃すわけにはいかない。
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「彼女は……我の王国の光だった」
亡霊の声は低く、掠れていた。
だが一言一言に重さがあった。
「聖女と呼ばれた女性がいた。神に選ばれし者。民が祈りを捧げ、王国が守護を願った存在。我はその聖女を守る立場にあった」
王の目は閉じたままだった。
遠い過去を見つめている。
見えない目で、失われた時間を追っている。
「守ることが誇りだった。彼女がいるから王国は安寧でいられた。彼女が笑えば民が安堵し、彼女が祈れば大地が応えた。……だが」
声が途切れた。
「いつからか、我は変わっていた。彼女を守りたいのではなかった。我だけの光であってほしかった。我だけが、彼女のそばにいたかった」
(……信奉が、独占欲に変わった)
聖典に刻まれた聖女。
碑文に記された王。
二人の間にあったものが、今初めて語られている。
「しかし、あの男がいた」
王の声に苦みが混じった。
「我が最も信頼していた男だった。忠義に溢れ、潔癖で、過ちという言葉の似合わぬ勇敢な男だった」
「我があの男に、聖女の護衛を命じた」
「あの男は忠実に務めた。誠実に、真摯に。……そして、彼女の心を得た」
近衛のことだ。
銀色のリングに誓いを刻み、婚礼の祭壇で式を挙げるはずだった男。
「彼女が見つめる先に、いつも、あの男がいた。我がどれほど手を差し伸べようとも、彼女は我を見なかった」
亡霊の手が玉座の肘掛けを握った。
石を掴む指が震えていた。
「婚礼の準備が進んでいった。花が飾られ、祭壇が整えられ、ヴェールが用意された。……白い、ヴェールが」
白いヴェール。
あの花嫁の控室で壁に掛かっていたもの。
縁に白い花があしらわれた薄い布。
聖女が婚礼の日を待ちながら眺めていたもの。
「我は、耐えられなかった」
声が低くなった。
「ある夜、我は命じた。あの男を処刑せよと」
広間の空気が重くなった。
命じた。
自らの手を汚すのではなく、命じた。
「あの男は抵抗しなかったと聞いた。最期まで、一言も発さなかったと」
(……何も言わず、死んでいったのか)
近衛の広間で聞いた叫びが蘇った。「あの方を守りたかっただけだ」。
最期まで飲み込んだ言葉が、あの怨念となって残ったのだ。
「そして……」
亡霊の声が震えた。
ここまでの告白で初めて、声に感情が滲んだ。
「我は自ら、あの部屋に行った」
息が止まった。
あの部屋。
花嫁の控室。
白い壁、白い花、白いヴェール。
聖女が婚礼の日を待っていた部屋。
(……あの幻視の人影は)
あの幻視の映像が蘇った。
扉が開き、誰かが入ってきた。
聖女に何かを告げた。
顔はぼやけて見えなかった。
だが今、わかった。
(――この王だったのか)
「あの方に、あの男の死を告げた」
亡霊の声が掠れた。
「彼女は……壊れた。我が告げた時、あの穏やかだった人が石のように動かなくなった。何も言わなかった。何も」
幻視の光景が蘇った。
王が告げて去った後、聖女は一人で立ち上がった。
ヴェールを掴み、床に叩きつけ、崩れ落ちた。
王は見ていない。
聖女は一人きりで壊れていったのだ。
「部屋を出た後、窓の外で空が暗くなり、大地が震えた。白いヴェールが黒く染まったと、後に知った。……すべては、我が招いたことだった」
亡霊が目を開けた。
濁った瞳がこちらを見た。
「ここは玉座ではない。我が罪を見つめ続ける牢獄だ」
声に力があった。
枯れた声の底に、確信があった。
何千年もの歳月をかけて辿り着いた、もはや揺るがない結論だった。
「神の裁きがここに集まっている。我をこの場に縛り、罪を見続けさせるために」
(……天の裁き)
あの広場で僕たちを打ちのめした力。
頭上から降り注ぐ白い光。
あれは王を閉じ込めるための封印だった。
門を越えた者を試し、通した後は門を閉じる。
すべては、この玉座に座る王を逃がさないための仕組みだったのだ。
「眠ることは許されない。目を閉じても、あの瞬間が繰り返される。我が告げた瞬間、凍りついた彼女の目を、永遠に見続ける。それが……我に与えられた罰だ」
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沈黙が広間を満たした。
王の告白が終わった。
すべてが語られた。
なぜ近衛を殺したのか。
なぜ聖女が壊れたのか。
この遺跡に刻まれた悲劇の全貌が、一人の男の口から語られた。
僕は手帳にペンを走らせていた。
震える手で、一言も逃すまいとして。
セラが目を伏せていた。
拳を膝の上で握っている。
フィノは僕の袖を掴んだまま、涙を流していた。
声は出さなかった。
ただ、静かに泣いていた。
ガルドが、一歩前に出た。
全員の視線がガルドに集まった。
あの寡黙な男が、自ら動いた。
剣ではなく、言葉を求めて前に出た。
玉座の前に立ち、亡霊を見上げた。
「一つ聞く」
低い声だった。
だが揺れていなかった。
「命令した者と、従った者。どちらの罪が重い」
亡霊の目が、ガルドを見た。
ガルドがなぜこの問いを発するのか、僕にはわかっていた。
番人の前で膝をついた夜。
「命令に従った。それが最大の罪だ」と告白した男。
命令に従い、手を下した過去。
ガルドはずっとこの問いを抱えていた。
命令した者と、従った者。
どちらが重いのか。
答えを知ることが怖かったのではない。
その答えを、自分では出せなかった。
亡霊が、ゆっくりと答えた。
「我だ」
短い言葉だった。
だが迷いはなかった。
「命じた我の罪が、重い」
間があった。
全員が息を止めた。
広間の空気が張り詰めた。
「だが、それでお前の罪が消えるわけではない」
ガルドの肩が僅かに震えた。
亡霊はガルドの過去を知らない。
だがこの男の目を見れば、わかるのだろう。
同じ重さを背負っている者の顔を。
ガルドは黙った。
言葉を返さなかった。
拳を握り、歯を食いしばっていた。
だが目は逸らさなかった。
亡霊を真っ直ぐに見つめていた。
ガルドが求めていたのは赦しではなかった。
確認だった。
自分の罪がどこにあるのか。
消えないと知った上で、それでもどう向き合うのか。
この亡霊の答えが、ガルドの中で何かを定めた。
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長い沈黙の後、亡霊の視線がゆっくりと動いた。
広間の奥を見た。
玉座の背後、黒い壁の一部に、通路が口を開けていた。
薄暗い通路が、さらに奥へと続いている。
「行くがよい」
亡霊の声は静かだった。
告白を終えた後の、空になった声だった。
「真実を知りたければ」
通路を見つめたまま、亡霊が続けた。
「この先に……あの方が残したものがある」
あの方。
聖女だ。
この先に、聖女自身が残したものがある。
僕は手帳を握った。
ここまで来た。
番人の涙。
従者の誓いと影。
近衛の愛と怨念。
人々の呪い。
聖女の悲しみ。
そして王の告白。
すべての断片が、一つの物語として繋がった。
だがまだ、聖女自身の声だけが欠けている。
この先に、その答えがある。
僕たちは玉座の奥の通路に足を向けた。
背後で、亡霊が再び目を閉じた。
永遠の罰の中に、一人きりで戻っていく。




