第26話 王の亡霊
「逃げろ。我のようになるな」
――玉座の間に響いた声
目を開けた時、窓からの光は傾いていた。
どれくらい眠っていたのかわからない。
背中に白い壁の冷たさがある。
椅子の横に座ったまま、眠り込んでいたらしい。
フィノが向かいの壁にもたれて目を閉じていた。
セラの上着がまだ肩にかかっている。
顔色は先ほどより良くなっていた。
あの幻視で力を使い果たしたフィノの体が、少しずつ回復している。
セラが水袋を差し出した。
「飲んで。食料も少し口にしなさい」
干し肉と固いパンを受け取った。
体が渇いていた。
水を含んだ瞬間、全身に染み渡るのがわかった。
幻視に飲み込まれかけた体は、想像以上に消耗していた。
ガルドは壁際に立ち、腕を組んで目を閉じていた。
眠っているのではない。
この男の休息は、いつも立ったままだった。
「……ん」
フィノが目を開けた。
何度か瞬きをして、こちらを見た。
「……おはよう」
小さな声だった。
「おはよう。大丈夫か」
「うん。……まだちょっとふわふわするけど」
フィノが壁から背を起こした。
セラが水袋をフィノにも渡した。
フィノが両手で受け取り、ゆっくりと口をつけた。
僕は鞄から手帳を取り出した。
さっき書いた記録を読み返した。
黒いヴェールの幻視。
白いヴェールが黒く染まった瞬間。
聖女の悲しみ。
「……あの幻視のことを、整理したい」
フィノが頷いた。
セラも干し肉を噛みながら、こちらに視線を向けた。
「あの映像の中で、誰かが部屋に入ってきた。聖女に何かを告げた。声は聞こえなかった。だが、その後で聖女は壊れた。白いヴェールを床に叩きつけた」
手帳のページをめくった。
「碑文にはこうあった。『王は近衛を殺した。聖女は壊れた』。あの映像で聖女に告げられたのは、近衛の死だと思う。近衛が殺されたことを知って、聖女は壊れた」
セラが口を開いた。
「あの人は、誰だったのかしら」
「わからない。顔はぼやけていた」
「でも、聖女に近づける人物は限られるわ。従者か……それとも」
セラはそこで言葉を止めた。
その先を、誰もが考えていた。
フィノが膝を抱えた。
「……白いヴェールが黒くなった時、窓の外が壊れ始めた。空が暗くなって、山が揺れた」
「聖女の力が暴走したのかもしれない」
僕は言った。
碑文が刻んでいた。
聖女は壊れた。
その後、世界に何が起きたのか。
壁に刻まれた何百もの呪詛。
天からの裁き。
あの広場を覆っていた二つの力。
すべてが、聖女が壊れた後の出来事に繋がっている。
ガルドが壁から背を離した。
目を開けていた。
「残るのは一つだ。なぜ王は近衛を殺したのか」
短い言葉だった。
だが核心を突いていた。
近衛は聖女を愛し、聖女も近衛を愛していた。
婚礼の準備まで進んでいた。
それを王が壊した。
なぜだ。
セラが立ち上がった。
「答えは、この先にあるわ」
---
花嫁の控室を出た。
通路は続いていた。
白い石壁が緩やかに曲がりながら奥へ伸びている。
窓からの光が途切れ、天井の光る石だけが通路を照らしていた。
歩を進めるごとに、空気が変わっていく。
壁の色が変わり始めた。
白い石が、少しずつ暗くなっていく。
灰色を経て、濃い色へ。
花嫁の控室にあった柔らかさが、足を進めるたびに消えていく。
壁の彫刻も変わった。
花と蔓の意匠が減り、代わりに直線的な装飾が増えていく。
そしてそれすらも、やがて消えた。
黒い石の壁になった。
装飾はない。
磨かれた黒い石が、光る石の明かりを鈍く反射している。
(……花嫁の控室とは、正反対だ)
あの部屋は白く、温かく、柔らかかった。
ここは黒く、冷たく、何もない。
同じ城の中に、光と闇が隣り合っている。
フィノが壁に手を当てた。
「……重い。呪詛とは違う。怨念でもない。ただ……重い」
後悔だ。
この通路に満ちているのは、後悔の重さだった。
悔恨の道とは質が違う。
あの通路は歩く者の後悔を引き出す仕掛けだった。
だがここに漂っているのは、この場所にいた者自身の後悔だ。
壁に染み込み、石の一つ一つに染み渡っている。
通路の先に、開けた空間が見えた。
---
広い。
天井が高い。
だが暗かった。
壁も床も天井も、すべて黒い石で造られている。
光る石がまばらに並んでいるが、光が弱い。
薄暗い空間の奥に、黒い影があった。
玉座だ。
黒い石を削り出した巨大な座。
装飾はなかった。
花もなく、彫刻もなく、王の威厳を示すものは何一つない。
だがその輪郭は、ただの石にしては歪だった。
(……これが、王の場所か)
セラが盾を構えた。
ガルドが剣の柄に手をかけた。
だが攻撃は来なかった。
この広間には呪詛も怨念もない。
ただ、重い。
空気そのものが重い。
一歩踏み出すたびに、体にのしかかってくる。
フィノが息を呑んだ。
「……いる」
近づいた。
玉座の輪郭が歪に見えた理由がわかった。
玉座の上に、人影があった。
背もたれに身を預け、微動だにしない。
黒い石に溶け込むように動かない。
男だった。
長い衣を纏っている。
仕立ては立派だった。
だが王冠はなかった。
指輪も、紋章も、権威を示すものは何もない。
(……王)
これが、碑文に刻まれた王。
近衛を殺し、聖女を壊し、人々に呪われた王。
歴史から名前を消された王。
壁から顔を削り取られ、通路から象徴を持ち去られた王。
亡霊だった。
番人とも、近衛とも違う。
この場に意識を持ったまま縛られている存在。
顔がはっきりと見えた。
幻視や近衛のように、ぼやけてはいなかった。
だが生気がない。
深い皺が刻まれた顔。
窪んだ目。
かつては威厳があったのだろう。
だが今は、すべてを失い、疲れ果てた老いた男の顔だった。
四人が玉座の前で立ち止まった。
亡霊の目が、ゆっくりと開いた。
こちらを見た。
濁った瞳が、四人の姿を映している。
長い沈黙があった。
この広間に、生きた人間が来たのは何千年ぶりなのだろう。
「……誰だ」
声が響いた。
低い声だった。
広間の黒い壁に反響し、消えていく。
かつて威厳を湛えていただろう声。
今は枯れ、擦れ、底に疲労だけが残っていた。
「冒険者です」
僕は答えた。
声が震えていたかもしれない。
だが退かなかった。
「この遺跡の真実を知るために来ました」
亡霊の目が僅かに細まった。
こちらを見ている。
見定めている。
視線が、僕の手元に落ちた。
手帳を握っていた。
いつの間にか鞄から取り出していた。
亡霊の目が手帳に止まった。
瞳の奥で、何かが揺れた。
苦しみとも、驚きとも違う。
もっと深い場所にある、遠い記憶に触れたような表情。
「……懐かしい気配がする」
亡霊が呟いた。
手帳を見つめたまま、それ以上は語らなかった。
何に反応したのか、僕にはわからなかった。
この手帳は養父エルドから受け継いだものだ。
養父が書き残した古代文字と、僕が書き足した記録で半分ずつ埋まっている。
亡霊が「懐かしい」と感じたのは、何に対してだったのか。
(……わからない)
亡霊の視線が手帳から離れた。
四人を見回した。
そして、顔が歪んだ。
苦しみだった。
底のない、果てのない苦しみ。
この玉座に座り続けてきた時間の重さが、その表情に凝縮されていた。
「逃げろ」
声が変わっていた。
枯れた声の奥に、切迫があった。
「逃げろ、我のようになるな。この場所に来るべきではなかった」
セラが一歩前に出た。
「逃げられません。門は閉じました」
亡霊の目が見開かれた。
一瞬だった。
すぐに閉じ、深い息を吐いた。
「……そうか。あの門が、お前たちを通したか」
沈黙。
「ならば、もう遅い」
亡霊が目を閉じた。
終わりだと言わんばかりに。
この対話を拒むように。
僕は退かなかった。
ここまで来た。
番人の涙を見た。
近衛の叫びを聞いた。
壁に刻まれた人々の呪いを浴びた。
悔恨の道を三度歩いた。
聖女の悲しみに飲み込まれかけた。
すべてを経て、この場所にいる。
「あなたは何をしたんだ」
亡霊の閉じた目が、震えた。
「碑文には刻まれていました。あなたが近衛を殺したと。聖女が壊れたと。壁を埋め尽くす呪詛が、あなたを永遠に許さないと」
声が広間に響いた。
黒い壁が、その言葉を吸い込んだ。
「でも、なぜなのかは誰も語っていなかった。あなたはなぜ近衛を殺したんだ。なぜ聖女の婚礼を壊さなければならなかったんだ」
亡霊は目を閉じたままだった。
沈黙が広間を満たした。
長い沈黙だった。
薄暗い光の中で、四人が立ち、亡霊が座っている。
それだけだった。
ガルドが亡霊を見つめていた。
目を逸らさなかった。
この男も何かを感じている。
命令に従った罪。
守れなかった罪。
ガルドが背負ってきたものと、この亡霊が背負っているものは、どこかで重なっているのかもしれない。
沈黙が続いた。
一分か、五分か、それ以上か。
時間の感覚が薄れるほど長い沈黙の後、亡霊がゆっくりと目を開けた。
濁った瞳に、涙はなかった。
枯れ果てていた。
泣くことすらできないほどに。
「我は」
声が、掠れた。
「……彼女を壊した」




