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記憶の遺跡 ― 失われた王国  作者: 智信
第三部

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第25話 黒のヴェール

「白いヴェールは、もう二度と纏えない」

――花嫁の控室に残された黒いヴェール

 指先が、布に触れた。


 冷たかった。

 氷のように冷たい布だった。

 指先から腕へ、腕から胸へ、冷たさが一瞬で全身を駆け抜けた。

 背後でフィノが叫んだ。


「レイン!」


 遅かった。

 世界が消えた。

 白い部屋が消え、仲間の声が消え、自分の体の感覚が消えた。

 視界が白く塗りつぶされ、何も見えなくなった。


(……幻視だ)


 これまでに何度も経験した。

 遺物に触れた時、過去の記憶が映像として流れ込んでくる現象。

 だが今回は、比べものにならなかった。

 意識ごと引きずり込まれている。


 白い光が晴れた。

 映像が見えた。


---


 同じ部屋だった。


 花嫁の控室。

 同じ椅子、同じ窓、同じ花瓶。

 だが、今見ているのは過去だ。

 この部屋が生きていた頃の姿。

 窓から柔らかな光が差し込んでいた。

 花瓶の白い花が風に揺れている。

 壁には白いヴェールが掛かっていた。

 金具の上に丁寧に広げられた、薄く透き通る白い布。

 縁に白い花があしらわれていた。

 花瓶の花と同じ、白い花弁に淡い紫の筋が入った花。


(……ヴェールの花だ)


 あの花畑に咲いていた花。

 花瓶に活けられていた花。

 あれはヴェールに飾られた花と同じものだった。


 椅子に、女性が座っていた。


(……聖女)


 白い衣を纏っている。

 顔はぼやけて見えない。

 これまでの幻視と同じだ。

 泉で見た映像も、従者の部屋で見た映像も、顔だけが不鮮明だった。

 だが姿勢はわかる。

 背筋を伸ばし、窓の外を見つめている。

 膝の上で両手を重ねている。

 穏やかな姿だった。

 窓の向こうに、光がある。

 花が咲いている。

 遠くに空が広がっている。

 この部屋から見えていた景色。

 聖女が毎日眺めていた景色。


(……婚礼の日を、待っていたのか)


 壁のヴェール。

 花瓶の花。

 窓辺の光。

 すべてが穏やかで、美しい。

 あの祭壇で式を挙げる日を、この部屋で待ち続けていた。


 映像が揺れた。


 扉が開いた。

 誰かが入ってきた。

 人影が見える。

 だが顔はわからない。

 口が動いている。

 何かを告げている。

 声は聞こえなかった。

 幻視には音がない。

 映像だけだ。

 だが、伝わった。


 女性の体が強張った。


 膝の上で重ねていた手が、ゆっくりと握りしめられた。

 肩が震え始めた。

 人影がまだ何かを言っている。

 女性は動かなかった。

 凍りついたように、椅子に座ったまま。

 人影が去った。

 扉が閉まった。


 静寂。


 女性が立ち上がった。


 ゆっくりと。

 体が揺れている。

 一歩、窓に向かった。

 花瓶の前で足が止まった。

 手が伸びた。

 花瓶ではなかった。

 壁の白いヴェールに手が伸びた。

 指先が白い布に触れた。

 そして――掴んだ。

 引いた。

 引き千切るように。

 白いヴェールが金具から外れ、女性の手の中で床に叩きつけられた。

 白い布が石の床に広がった。


(……白いヴェールを、脱ぎ捨てた)


 その瞬間、世界が変わった。


 窓の外の光が消えた。

 空が暗くなっていく。

 花瓶の花が萎れた。

 白い花弁が一枚ずつ落ちていく。

 部屋の中にあった穏やかさが、一瞬で消え去った。

 女性の全身から、何かが溢れ出していた。

 光ではない。

 色ではない。

 だが見える。

 感じる。

 悲しみだ。

 底のない、果てのない悲しみ。

 愛した者を失った人間の、壊れていく心。


 女性が膝をついた。


 崩れ落ちるように。

 両手が床に落ちた。

 顔は見えない。

 だが、全身が震えている。

 床に広がった白いヴェールが、端から黒く染まり始めた。

 白が消え、黒が広がっていく。

 女性の悲しみが布に染み込んでいくように。

 窓の外で、遠くの山が揺れた。

 大地が震えた。

 空は暗雲で覆われ、その奥で何かが目覚めようとしている。


 ……白いヴェールは、もう二度と纏えない……


 映像が黒に飲まれた。


---


 感情が、洪水のように流れ込んできた。


 映像が消えた後も、悲しみだけが残った。

 視界は黒い。

 何も見えない。

 だが感じる。

 体の芯まで侵食してくる、底のない悲しみ。


(……これが、聖女の……)


 愛した者を奪われた悲しみ。

 白いヴェールを纏う日は二度と来ないと知った絶望。

 世界への怒り。

 信じていたものへの裏切り。

 すべてが一度に流れ込んでくる。

 これまでの幻視とは質が違った。

 泉の映像も、従者の記憶も、近衛の想いも、誰かの記憶を「見ていた」。

 だがこれは違う。

 感情そのものが意識に流れ込んでいる。

 見ているのではない。

 溺れている。


 膝が落ちた気がした。

 自分の体がどこにあるのかわからない。

 涙が頬を伝っている気がした。

 だが手を動かせない。


(……意識が……)


 沈んでいく。

 黒い水の底に引きずり込まれるように。


 どこかで声が聞こえた。

 遠い。

 セラの声だった。

 嗚咽だ。

 何かに堪えようとして、堪えきれずに漏れた声。

 あのセラが泣いている。

 ガルドの呻きも聞こえた。

 歯を食いしばるような、押し殺したうめき声。

 膝が石の床を叩く音がした。

 あの鉄のような男が、また膝をついている。


(……みんな……)


 仲間も飲み込まれている。

 聖女の悲しみが、全員の意識に流れ込んでいる。

 フィノの力がここにいる全員に幻視を共有している。

 僕が触れてしまったせいで。


 意識がさらに沈む。

 もう声も遠い。

 黒い水が耳を塞いでいく。


「泣いちゃだめ」


 声が聞こえた。


 近い。

 すぐそばで。

 すべてが遠ざかっていく中で、その声だけが鮮明だった。


 手を握られていた。

 温かかった。

 凍りつくような悲しみの中で、その温もりだけが確かだった。


「ここで泣いたら、飲み込まれる」


 フィノだった。


 フィノの手だ。

 小さな手が、僕の手を強く握っている。


(……フィノ)


 目を開けた。

 黒い幻視の中に、光が見えた。

 淡い光だ。

 フィノの手から広がっている。

 妖精の血脈の力。

 悔恨の道では三人分の後悔を受け止めながら耐えることしかできなかった。

 だが今、フィノは耐えているのではない。

 力を使っている。

 光を放って、幻視を押し返そうとしている。


 光が広がった。

 フィノの手を起点に、温かな光が黒い悲しみの中に染み出していく。


 聖女の悲しみが抵抗した。

 黒が光を押し返す。

 フィノの手が震えた。

 小さな体に、この幻視の重さは大きすぎる。


「……大丈夫」


 フィノの声が震えていた。

 だが手は離さなかった。


 光が、もう一度広がった。

 今度は強かった。

 フィノの全身から光が溢れ出した。

 黒い幻視の壁に亀裂が入る。

 光の筋が走り、黒が裂けていく。


(……見える)


 亀裂の向こうに、白い壁が見えた。

 花嫁の控室の白い壁。

 現実の壁だ。


 光が黒を砕いた。


 一瞬だった。

 フィノの光が弾けるように広がり、幻視が粉々に散った。

 黒い破片が宙に舞い、消えていく。


 世界が戻った。


---


 石の床の冷たさが、最初に感じたものだった。


 膝をついていた。

 両手が床に落ちている。

 涙が顎から床に落ちた。

 顔を上げた。

 花嫁の控室だ。

 白い壁。

 窓からの光。

 椅子。

 花瓶。


(……戻った)


 隣でフィノが僕の手を握ったまま、座り込んでいた。

 顔色が白い。

 息が荒い。

 額に汗が浮いている。

 そんなフィノが僕を見て、笑った。

 力のない笑みだった。


「……間に合った」


 セラが壁にもたれていた。

 目が赤い。

 頬に涙の跡が残っている。

 盾を床に置いている。

 あのセラが、盾を手放していた。

 ガルドは床に膝をついたまま、両拳を石畳に押し当てていた。

 目を閉じている。

 肩が大きく上下している。


 しばらく、誰も動けなかった。


 フィノの手がゆっくりと僕の手から離れた。

 フィノが壁に背を預けた。

 目を閉じた。

 力を使い果たしている。

 悔恨の道で三人を導いた時よりも、遥かに大きな力を使った。

 あの時は感情の増幅に耐えただけだ。

 今回は幻視そのものを力で砕いた。


(……フィノがいなかったら、全員飲み込まれていた)


 僕がヴェールに触れたせいだ。

 フィノが止めたのに。

「触っちゃだめ」と言ったのに。


「……ごめん、フィノ」


「……レインのせいじゃないよ」


 小さな声だった。


「あれは……見なきゃいけないものだった。あの人の悲しみ。見ないで通り過ぎちゃいけなかった」


 黒いヴェールが床に広がったままだった。

 だがもう、あの異質な重さは感じない。

 幻視は一度だけだったのだ。

 残されていた感情が再生され、そして終わった。


 僕は鞄から手帳を取り出した。

 手が震えていた。

 それでも書いた。


『黒いヴェールに触れた。聖女の悲しみの幻視が全員を襲った。誰かが何かを告げ、聖女が白いヴェールを脱ぎ捨て、壊れていく映像。白いヴェールが黒く染まった。窓の外の世界が崩壊し始めた。感情が全員に流れ込み、意識が飲み込まれかけた。フィノが妖精の血脈の力で幻視を遮断し、全員を引き戻した』


 手帳を閉じた。

 あれが近衛の死を知った聖女が壊れた瞬間だったのだろう。

 碑文が刻んでいた通りだ。

 セラが壁から背を離した。

 涙を拭い、盾を拾い上げた。


「……少し、休みましょう」


 声がかすれていた。

 だがリーダーの判断だった。


 全員が頷いた。

 フィノはもう目を閉じていた。

 壁にもたれたまま、浅い寝息を立てている。

 セラがフィノの肩に上着をかけた。

 何も言わなかった。


 僕は椅子の横に座り、窓を見上げた。

 外の光はまだ差し込んでいる。

 幻視の中で消えた光は、現実では消えていなかった。


 フィノが全員を引き戻した。

 だが、門は閉じている。

 戻る道はない。


 進むしかない。

 この先に、まだ答えがある。

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