第24話 花嫁の控室
いきなり閉じてしまった扉に駆け寄り、手を当てた。
押した。
動かない。
ガルドが肩を当てた。
びくともしなかった。
「……戻れないわね」
セラの声は静かだった。
驚いてはいない。
あの碑文が警告していた。
『封印には意味がある』。
通した後は、閉じる。
この門は、王を閉じ込める封印だから。
ガルドが門から手を離した。
「行くだけだ」
フィノが小さく息を吐いた。
「……うん。行こう」
僕は手帳を開いた。
『王城の門が開いた。あの力が四人の覚悟を認めた。だが門は入った後に閉じた。戻れない。あの力の本質は王を閉じ込める封印であり、通した後は門を閉じる。ここから先は、進むしかない』
手帳を閉じた。
前を向いた。
通路が続いている。
だが、これまでの通路とは明らかに違っていた。
壁の石が白い。
内郭の暗い石とは対照的な、磨かれた白い石壁。
彫刻はさらに精緻で、花と蔓と翼の意匠が壁面を覆っている。
天井は高く、光る石が等間隔に並び、柔らかな光を落としている。
城の中に入った。
そう思った。
これは遺跡の通路ではない。
誰かが暮らしていた場所だ。
「……きれい」
フィノが呟いた。
声が白い通路に静かに響いた。
四人が歩き出した。
門は閉じ、戻る道はない。
だが全員が、前を向いていた。
この先に、答えがある。
---
通路を進んだ。
足音が白い壁に反響する。
四人分の足音だけが、この場所に響く唯一の音だった。
あの広場にあった呪詛の圧力も、天からの力も、ここにはない。
空気が澄んでいる。
穏やかで、静かで、何かを待っているような気配だけが漂っていた。
(……静かだ)
あの広場で全員を打ちのめした力が嘘のように、ここには何の敵意もない。
だがそれが、かえって不安だった。
この静けさの中に、何が眠っているのか。
壁の彫刻に目を向けた。
花と蔓が絡み合い、翼のある生き物が飛んでいる。
内郭の通路に刻まれていたものとは格が違う。
線の一本一本が丁寧で、生きているかのようだった。
ここに暮らしていた人物が、どれほど大切にされていたかが伝わってくる。
手帳を開き、彫刻の特徴を書き留めた。
通路の左右に、扉がいくつか並んでいた。
どれも閉じている。
石の扉に木の枠が嵌め込まれている。
木が朽ちていないのは、この遺跡ではもう驚かない。
扉の一つ一つに丁寧な彫刻が施されていた。
セラが先頭を歩き、扉を一つずつ確認していく。
ガルドが後方を警戒し、フィノが壁に手を当てながら気配を探っている。
扉を押しても引いても動かない。
鍵がかかっているのか、それとも開く理由がないのか。
「……こっち」
フィノが立ち止まった。
通路の奥を見ている。
一つの扉が、僅かに開いていた。
他の扉とは違う。
隙間から、淡い光が漏れている。
(……光?)
光る石の光ではなかった。
もっと柔らかい。
もっと温かい。
セラが盾を構え、扉に近づいた。
隙間から中を覗き、しばらく動かなかった。
それから、ゆっくりと扉を押し開けた。
「……入って」
セラの声が、小さく震えていた。
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小さな部屋だった。
窓があった。
(……窓)
大きな窓から、外の光が差し込んでいる。
光の筋が白い石の床に落ち、部屋を柔らかく照らしていた。
温かい光だった。
部屋の中央に、椅子が一脚あった。
背もたれの低い、素朴な造りの椅子だ。
座面に手で触れられた跡がある。
木の表面が滑らかになっている。
長い時間、誰かがここに座っていた。
(……ここに、座っていたのか)
フィノが僕の袖を掴んだ。
「……悲しい」
フィノの目が潤んでいた。
「すごく、悲しい。でも、怒りはない。怨念も、呪詛もない。ただ……悲しいだけ」
この部屋に満ちているのは、悲しみだけだった。
窓辺に花瓶が置かれていた。
近づいた。
花が活けられていた。
白い花弁に、淡い紫の筋が入っている。
庭園で見た花と同じ白い花だった。
花畑の広場に咲いていた花と同じ。
瑞々しいまま、窓辺に佇んでいた。
この遺跡では何もかもが朽ちない。
この花も、活けられたあの日のまま、ここに在り続けている。
ガルドが壁の前で足を止めた。
壁面に小さな金具があった。
何かを吊るすためのものだ。
金具の周りに、布が長く掛かっていた痕跡が残っていた。
掛けられていたものの輪郭が、壁にうっすらと浮き出している。
「……ヴェールだ」
僕は言った。
「ここにヴェールが掛かっていた」
椅子。
花。
ヴェールの痕。
断片が繋がっていく。
誰かがこの椅子に座っていた。
窓辺の花を見ていた。
壁のヴェールを手に取り、身支度をしていた。
婚礼の、準備を。
あの祭壇で式を挙げるために。
叶わなかった式のために。
(……ここは、花嫁の控室だ)
僕は手帳を開いた。
『王城の通路を進んだ先に、小さな部屋。窓から外光が差す。椅子が一脚、使い込まれた跡。窓辺に花瓶、白い花が瑞々しいまま。壁にヴェールが掛かっていた痕跡。ここは花嫁の控室だ。聖女がここで婚礼の日を待っていた』
手帳を閉じた。
椅子を見つめた。
座面の滑らかな跡。
窓辺の花。
壁に残るヴェールの輪郭。
聖女が、ここにいた。
聖典の中の存在ではない。
碑文に刻まれた概念でもない。
映像の中の存在でもない。
この椅子に座り、この花を眺め、この部屋で婚礼の日を待っていた。
あの祭壇の花を見て、あの近衛と並ぶ日を想っていた。
(……彼女は確かにいた)
一人の人間として、ここに。
手帳を振り返った。
聖典の中の聖女。
碑文に刻まれた聖女。
映像の中で見た聖女。
番人が守り、従者が仕え、近衛が愛した聖女。
全員が彼女について語っていた。
だが、彼女自身が残したものは何もなかった。
この部屋が、初めてだった。
彼女自身が過ごした場所。
彼女の手が触れた椅子。
彼女の目が見ていた花。
ここにだけ、聖女が一人の人間として在った痕跡がある。
しかし、姿はどこにもなかった。
椅子は空で、部屋には悲しみだけが残っている。
ここにいた人は、もうどこにもいない。
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セラが窓辺に立っていた。
花瓶の花を見つめている。
その目が潤んでいた。
何かを想っている。
何を想っているかは聞かなかった。
ガルドは壁に背を預け、腕を組んでいた。
目を閉じている。
この部屋の悲しみを、静かに受け止めている。
僕は椅子の横に立ったまま、部屋を見回した。
小さな部屋だった。
一人で身支度をするための、一人きりの場所。
ここで聖女は何を想っていたのだろう。
窓の外を見て、何を願っていたのだろう。
フィノが部屋の奥を見つめた。
「……レイン」
フィノの声が、小さく震えていた。
「奥に、何かある」
部屋の奥。
床に何かが落ちていた。
近づいた。
窓の光が届かない場所だった。
目が慣れた。
黒いヴェールだった。
薄い布だ。
床の上に広がっている。
だがその黒さは、この白い部屋の中で異質だった。
窓からの光を吸い込んでいるかのように、深く、濃い黒。
さっきの壁の痕。
あそこには白いヴェールが掛かっていたはずだ。
花嫁のヴェールは白いものだから。
だが、ここにあるのは黒いヴェール。
白い部屋、白い石壁、白い花。
すべてが白いこの場所に、一つだけ黒いものが残されている。
(……白いヴェールは、どこへ行ったんだ)
フィノが一歩下がった。
「……触っちゃだめ。何か……すごく重いものが、あの中にある」
フィノの警告が耳に入った。
だが、足は止まらなかった。
この遺跡で集めてきた断片が、すべてこの一点に向かっている。
従者の献身と嫉妬。
近衛の愛と怨念。
王の罪と人々の呪い。
そしてこの部屋。
花嫁が婚礼の日を待っていた部屋。
白いヴェールが消え、黒いヴェールだけが残っている。
手を伸ばした。




