表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
記憶の遺跡  作者: 智信
第三部
24/25

第24話 花嫁の控室

 いきなり閉じてしまった扉に駆け寄り、手を当てた。

 押した。

 動かない。

 ガルドが肩を当てた。

 びくともしなかった。


「……戻れないわね」


 セラの声は静かだった。

 驚いてはいない。

 あの碑文が警告していた。

『封印には意味がある』。

 通した後は、閉じる。

 この門は、王を閉じ込める封印だから。

 ガルドが門から手を離した。


「行くだけだ」


 フィノが小さく息を吐いた。


「……うん。行こう」


 僕は手帳を開いた。


『王城の門が開いた。あの力が四人の覚悟を認めた。だが門は入った後に閉じた。戻れない。あの力の本質は王を閉じ込める封印であり、通した後は門を閉じる。ここから先は、進むしかない』


 手帳を閉じた。

 前を向いた。

 通路が続いている。

 だが、これまでの通路とは明らかに違っていた。

 壁の石が白い。

 内郭の暗い石とは対照的な、磨かれた白い石壁。

 彫刻はさらに精緻で、花と蔓と翼の意匠が壁面を覆っている。

 天井は高く、光る石が等間隔に並び、柔らかな光を落としている。

 城の中に入った。

 そう思った。

 これは遺跡の通路ではない。

 誰かが暮らしていた場所だ。


「……きれい」


 フィノが呟いた。

 声が白い通路に静かに響いた。

 四人が歩き出した。

 門は閉じ、戻る道はない。

 だが全員が、前を向いていた。


 この先に、答えがある。


---


 通路を進んだ。

 足音が白い壁に反響する。

 四人分の足音だけが、この場所に響く唯一の音だった。

 あの広場にあった呪詛の圧力も、天からの力も、ここにはない。

 空気が澄んでいる。

 穏やかで、静かで、何かを待っているような気配だけが漂っていた。


(……静かだ)


 あの広場で全員を打ちのめした力が嘘のように、ここには何の敵意もない。

 だがそれが、かえって不安だった。

 この静けさの中に、何が眠っているのか。

 壁の彫刻に目を向けた。

 花と蔓が絡み合い、翼のある生き物が飛んでいる。

 内郭の通路に刻まれていたものとは格が違う。

 線の一本一本が丁寧で、生きているかのようだった。

 ここに暮らしていた人物が、どれほど大切にされていたかが伝わってくる。

 手帳を開き、彫刻の特徴を書き留めた。

 通路の左右に、扉がいくつか並んでいた。

 どれも閉じている。

 石の扉に木の枠が嵌め込まれている。

 木が朽ちていないのは、この遺跡ではもう驚かない。

 扉の一つ一つに丁寧な彫刻が施されていた。

 セラが先頭を歩き、扉を一つずつ確認していく。

 ガルドが後方を警戒し、フィノが壁に手を当てながら気配を探っている。

 扉を押しても引いても動かない。

 鍵がかかっているのか、それとも開く理由がないのか。


「……こっち」


 フィノが立ち止まった。

 通路の奥を見ている。

 一つの扉が、僅かに開いていた。

 他の扉とは違う。

 隙間から、淡い光が漏れている。


(……光?)


 光る石の光ではなかった。

 もっと柔らかい。

 もっと温かい。

 セラが盾を構え、扉に近づいた。

 隙間から中を覗き、しばらく動かなかった。

 それから、ゆっくりと扉を押し開けた。


「……入って」


 セラの声が、小さく震えていた。


---


 小さな部屋だった。

 窓があった。


(……窓)


 大きな窓から、外の光が差し込んでいる。

 光の筋が白い石の床に落ち、部屋を柔らかく照らしていた。

 温かい光だった。

 部屋の中央に、椅子が一脚あった。

 背もたれの低い、素朴な造りの椅子だ。

 座面に手で触れられた跡がある。

 木の表面が滑らかになっている。

 長い時間、誰かがここに座っていた。


(……ここに、座っていたのか)


 フィノが僕の袖を掴んだ。


「……悲しい」


 フィノの目が潤んでいた。


「すごく、悲しい。でも、怒りはない。怨念も、呪詛もない。ただ……悲しいだけ」


 この部屋に満ちているのは、悲しみだけだった。

 窓辺に花瓶が置かれていた。

 近づいた。

 花が活けられていた。

 白い花弁に、淡い紫の筋が入っている。


 庭園で見た花と同じ白い花だった。

 花畑の広場に咲いていた花と同じ。

 瑞々しいまま、窓辺に佇んでいた。

 この遺跡では何もかもが朽ちない。

 この花も、活けられたあの日のまま、ここに在り続けている。

 ガルドが壁の前で足を止めた。

 壁面に小さな金具があった。

 何かを吊るすためのものだ。

 金具の周りに、布が長く掛かっていた痕跡が残っていた。

 掛けられていたものの輪郭が、壁にうっすらと浮き出している。


「……ヴェールだ」


 僕は言った。


「ここにヴェールが掛かっていた」


 椅子。

 花。

 ヴェールの痕。

 断片が繋がっていく。

 誰かがこの椅子に座っていた。

 窓辺の花を見ていた。

 壁のヴェールを手に取り、身支度をしていた。

 婚礼の、準備を。

 あの祭壇で式を挙げるために。

 叶わなかった式のために。


(……ここは、花嫁の控室だ)


 僕は手帳を開いた。


『王城の通路を進んだ先に、小さな部屋。窓から外光が差す。椅子が一脚、使い込まれた跡。窓辺に花瓶、白い花が瑞々しいまま。壁にヴェールが掛かっていた痕跡。ここは花嫁の控室だ。聖女がここで婚礼の日を待っていた』


 手帳を閉じた。

 椅子を見つめた。

 座面の滑らかな跡。

 窓辺の花。

 壁に残るヴェールの輪郭。

 聖女が、ここにいた。

 聖典の中の存在ではない。

 碑文に刻まれた概念でもない。

 映像の中の存在でもない。

 この椅子に座り、この花を眺め、この部屋で婚礼の日を待っていた。

 あの祭壇の花を見て、あの近衛と並ぶ日を想っていた。


(……彼女は確かにいた)


 一人の人間として、ここに。

 手帳を振り返った。

 聖典の中の聖女。

 碑文に刻まれた聖女。

 映像の中で見た聖女。

 番人が守り、従者が仕え、近衛が愛した聖女。

 全員が彼女について語っていた。

 だが、彼女自身が残したものは何もなかった。

 この部屋が、初めてだった。

 彼女自身が過ごした場所。

 彼女の手が触れた椅子。

 彼女の目が見ていた花。

 ここにだけ、聖女が一人の人間として在った痕跡がある。

 しかし、姿はどこにもなかった。

 椅子は空で、部屋には悲しみだけが残っている。

 ここにいた人は、もうどこにもいない。


---


 セラが窓辺に立っていた。

 花瓶の花を見つめている。

 その目が潤んでいた。

 何かを想っている。

 何を想っているかは聞かなかった。

 ガルドは壁に背を預け、腕を組んでいた。

 目を閉じている。

 この部屋の悲しみを、静かに受け止めている。

 僕は椅子の横に立ったまま、部屋を見回した。

 小さな部屋だった。

 一人で身支度をするための、一人きりの場所。

 ここで聖女は何を想っていたのだろう。

 窓の外を見て、何を願っていたのだろう。

 フィノが部屋の奥を見つめた。


「……レイン」


 フィノの声が、小さく震えていた。


「奥に、何かある」


 部屋の奥。

 床に何かが落ちていた。

 近づいた。

 窓の光が届かない場所だった。

 目が慣れた。


 黒いヴェールだった。

 薄い布だ。

 床の上に広がっている。

 だがその黒さは、この白い部屋の中で異質だった。

 窓からの光を吸い込んでいるかのように、深く、濃い黒。

 さっきの壁の痕。

 あそこには白いヴェールが掛かっていたはずだ。

 花嫁のヴェールは白いものだから。

 だが、ここにあるのは黒いヴェール。

 白い部屋、白い石壁、白い花。

 すべてが白いこの場所に、一つだけ黒いものが残されている。


(……白いヴェールは、どこへ行ったんだ)


 フィノが一歩下がった。


「……触っちゃだめ。何か……すごく重いものが、あの中にある」


 フィノの警告が耳に入った。

 だが、足は止まらなかった。

 この遺跡で集めてきた断片が、すべてこの一点に向かっている。

 従者の献身と嫉妬。

 近衛の愛と怨念。

 王の罪と人々の呪い。

 そしてこの部屋。

 花嫁が婚礼の日を待っていた部屋。

 白いヴェールが消え、黒いヴェールだけが残っている。


 手を伸ばした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ