第23話 禁断の領域
朝の光が顔に差した。
目を開けた。
焚き火は灰になっていた。
フィノが毛布にくるまって寝息を立てている。
セラはすでに起きていた。
荷物を広げ、消耗品を並べている。
ガルドは野営地の端で素振りをしていた。
剣が空気を切る音が、静かな朝に響いている。
昨日あの広場で膝が折れた男が、今は迷いのない動きで剣を振っている。
「起きたわね。水と干し肉、先にどうぞ」
セラが水袋を差し出した。
簡素な朝食を取りながら、手帳を開いた。
昨夜読み返しておこうと決めた聖典の一節。
『我らの罪を、いつか裁いてくれるように』
この言葉は番人にも怨念にも届いた。
あの広場の呪詛にも届くかどうかはわからない。
だが今の僕たちが持てる、最も確かな手がかりだ。
手帳を閉じ、鞄にしまった。
セラが全員を見回した。
「あの門を開けて、その先へ行きましょう」
四人が立ち上がった。
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遺跡の入口に立った瞬間、空気が違った。
(……重い)
前の二回にはなかった圧迫感。
入口に立つだけで、身体に見えない重さがのしかかる。
足を踏み入れる前から、遺跡全体が拒んでいるような気配があった。
通路を進んだ。
光る石は変わらず壁を照らしている。
だが肌を刺す何かが漂い始めていた。
封印の間に満ちていた冷気に似た、しかしずっと薄い霧のようなもの。
これまで安全だった通路にまで、呪詛が滲み出している。
「……空気が変わった」
フィノが呟いた。
壁に手を当てている。
「前に来た時と違う。遺跡が……拒んでる」
遺跡そのものが侵入を拒んでいるのか、それとも試しているのか。
僕には判断がつかなかった。
ただ、三度目の探索で遺跡の態度が変わったことだけは確かだった。
(……遺跡が、拒んでいる)
庭園を抜け、封印の扉を越えて内郭に入った。
空気の重さが一段増した。
天井の光る石が揺らいでいた。
昨日までは安定していた光が、今は不規則に瞬いている。
遺跡の拒絶がここまで届いている。
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近衛の広間に近づいた時、全員の足が自然に止まった。
(……いる)
広間から怨念の圧力が漏れ出していた。
一晩経って聖典の効果が薄れたのだ。
セラが盾を構えた。
ガルドが剣の柄に手をかけた。
広間に踏み込んだ。
怨念が広間の中央で剣を構えたまま、こちらを見ていた。
圧力が膨れ上がり始めている。
ガルドが一歩前に出た。
「待って」
フィノが言った。
通路の方を見ている。
「……抑えてくれてる」
穏やかな気配が、僕たちを追い越すように広間に流れ込んできた。
近衛の魂だ。
消えていなかった。
淡い光を帯びた気配が、怨念の圧力に静かに抗っている。
怨念の剣が震えた。
刃先が僅かに持ち上がる。
振り上げようとしている。
だが穏やかな気配がそれを押し留めていた。
広間の空気が揺れていた。
二つの気配が静かにぶつかり合っている。
同じ人間の、同じ想いの、半分と半分。
怒りを、悲しみが包んでいる。
「今のうちに」
セラが低く言った。
四人が広間を駆け抜けた。
背後で怨念の気配が揺れたが、追ってはこなかった。
通路に出た。
振り返った。
穏やかな気配が、まだそこにあった。
(……ありがとう)
気配が微かに揺らいだ気がした。
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石の扉を抜けた。
悔恨の道に足を踏み入れた瞬間、胸の奥が揺れた。
あの感覚だ。
歩く者の後悔を引きずり出す通路。
エルドさんの穏やかな笑顔が浮かんだ。
「レイン、今日は何を読もうか」。あの声に「とうさん」と返せなかった日々。
(……重い)
だが足は止まらなかった。
「後悔は持っていけばいい」
フィノの言葉が、胸の中に残っていた。
三人が動けなくなった通路の中で、フィノだけが真っ直ぐ立ち、静かに放った言葉。
隣を見た。
セラが真っ直ぐ前を見て歩いている。
拳は白くない。
ガルドの膝は折れていない。
フィノが先頭を歩いている。
涙は浮かべていたが、足取りに迷いはなかった。
四人とも、止まらなかった。
後悔を全部持って、歩いた。
通路を抜けた。
昨日ほどの消耗はなかった。
足が覚えている。
心が覚えている。
花畑の広場に出た。
白い花が変わらず咲いている。
甘い匂いが鼻をかすめたが、足は止めなかった。
留まることなく通り抜け、王城への通路に入った。
壁の色が深まっていく。
藍から、黒へ。
昨日ここを歩いた時、この先に何が待っているか知らなかった。
今は知っている。
知った上で、ここにいる。
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広場に出た。
あの場所だ。
空はいまだ暗い。
変わらず黒い雲が低く垂れ込め、渦を巻いていた。
昨日と変わらない。
花のない石畳、精緻な彫刻に覆われた壁、門前の獣の意匠がこちらを見下ろしている。
「来たわ」
セラが呟いた。
盾を正面に構えている。
壁の文字が見えた。
『王よ、お前は許されない。永遠に』。
何百もの筆跡で刻まれた呪詛が壁を埋め尽くしている。
一歩踏み出した。
二つの力が、押し寄せた。
天からの圧力。
白い光が頭上から降り注ぎ、体を地面に押しつけようとする。
容赦のない神聖さ。
壁からは黒い靄が滲み出し、何百という声が重なった。
――王よ。
――許さない。
呪詛だ。
昨日はこの二つの力に全員が倒された。
膝をつき、地面に叩きつけられた。
だが今回は違う。
僕は鞄から手帳を取り出した。
震える指でページを開いた。
聖典の一節。
番人にも怨念にも届いた言葉。
昨夜、もう一度読み返した言葉。
「『我らの罪を、いつか裁いてくれるように』!」
声が広場に響いた。
呪詛が、揺らいだ。
壁から滲み出す黒い靄が、一瞬だけ縮んだ。
聖典の言葉は、この呪詛と同じ人々から生まれていた。
聖女を守れなかったことを悔いた懺悔と、聖女を壊した王を呪った怒り。
表と裏だ。
懺悔の言葉が、呪詛の声を包み込んでいく。
消えたのではない。
だが声の激しさが和らいだ。
黒い靄がまだ漂っている。
だが昨日のように体を飲み込もうとはしなかった。
(……聖典の言葉が、盾になっている)
呪詛を抑え込んだわけではない。
同じ人々の、同じ想いの、もう半分を差し出しただけだ。
怒りと懺悔。
両方があって、初めて一つになる。
壁に刻まれた文字が、微かに揺れた気がした。
何百もの筆跡。
何百人もの怒りの奥にある、同じ数の悲しみ。
呪詛が鎮まった空間の中で、天からの圧力だけが残った。
白い光が四人に降り注いでいる。
膝が震えた。
体の芯まで貫くような力だ。
昨日はここで全員が崩れ落ちた。
この場所に足を踏み入れた者すべてに等しく降りかかる力。
だが、四人は立っていた。
セラが盾を掲げ、歯を食いしばっている。
ガルドが両足を踏みしめ、微動だにしない。
フィノが涙を流しながら、それでも目を開けている。
(……見ている)
この力は、僕たちを見ている。
軽々しく触れる者を排除する力。
だが僕たちは軽々しく来たのではない。
番人と向き合い、怨念の叫びを聞き、後悔を背負い、壁に刻まれた人々の声を受け止めた。
そして、再びここにやって来た。
僕も立っていた。
手帳を胸に押し当て、両足で地面を踏みしめている。
膝が折れそうになった。
歯を食いしばった。
白い光が、ゆっくりと弱まった。
頭上の圧力が薄れていく。
息ができた。
門が、軋んだ。
重い石が擦れる音が広場に響いた。
門の左右の扉が、ゆっくりと内側に開いていく。
あれほど堅く閉ざされていた門が。
セラの目が見開かれている。
ガルドが門を見上げた。
フィノが涙を拭い、息を呑んだ。
あの力が僕たちを認めたんだ。
門の向こう、そこには通路が続いていた。
「行くわよ」
セラが最初に歩き出した。
ガルドが続いた。
フィノが僕の腕を引いた。
四人が、門をくぐった。
門を抜けた瞬間、背後で音がした。
重く、深い音だった。
地面が揺れた。
振り返った。
門が閉じていた。




