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記憶の遺跡  作者: 智信
第三部
23/24

第23話 禁断の領域

 朝の光が顔に差した。

 目を開けた。

 焚き火は灰になっていた。

 フィノが毛布にくるまって寝息を立てている。

 セラはすでに起きていた。

 荷物を広げ、消耗品を並べている。

 ガルドは野営地の端で素振りをしていた。

 剣が空気を切る音が、静かな朝に響いている。

 昨日あの広場で膝が折れた男が、今は迷いのない動きで剣を振っている。


「起きたわね。水と干し肉、先にどうぞ」


 セラが水袋を差し出した。

 簡素な朝食を取りながら、手帳を開いた。

 昨夜読み返しておこうと決めた聖典の一節。


『我らの罪を、いつか裁いてくれるように』


 この言葉は番人にも怨念にも届いた。

 あの広場の呪詛にも届くかどうかはわからない。

 だが今の僕たちが持てる、最も確かな手がかりだ。

 手帳を閉じ、鞄にしまった。

 セラが全員を見回した。


「あの門を開けて、その先へ行きましょう」


 四人が立ち上がった。


---


 遺跡の入口に立った瞬間、空気が違った。


(……重い)


 前の二回にはなかった圧迫感。

 入口に立つだけで、身体に見えない重さがのしかかる。

 足を踏み入れる前から、遺跡全体が拒んでいるような気配があった。

 通路を進んだ。

 光る石は変わらず壁を照らしている。

 だが肌を刺す何かが漂い始めていた。

 封印の間に満ちていた冷気に似た、しかしずっと薄い霧のようなもの。

 これまで安全だった通路にまで、呪詛が滲み出している。


「……空気が変わった」


 フィノが呟いた。

 壁に手を当てている。


「前に来た時と違う。遺跡が……拒んでる」


 遺跡そのものが侵入を拒んでいるのか、それとも試しているのか。

 僕には判断がつかなかった。

 ただ、三度目の探索で遺跡の態度が変わったことだけは確かだった。


(……遺跡が、拒んでいる)


 庭園を抜け、封印の扉を越えて内郭に入った。

 空気の重さが一段増した。

 天井の光る石が揺らいでいた。

 昨日までは安定していた光が、今は不規則に瞬いている。

 遺跡の拒絶がここまで届いている。


---


 近衛の広間に近づいた時、全員の足が自然に止まった。


(……いる)


 広間から怨念の圧力が漏れ出していた。

 一晩経って聖典の効果が薄れたのだ。

 セラが盾を構えた。

 ガルドが剣の柄に手をかけた。

 広間に踏み込んだ。


 怨念が広間の中央で剣を構えたまま、こちらを見ていた。

 圧力が膨れ上がり始めている。

 ガルドが一歩前に出た。


「待って」


 フィノが言った。

 通路の方を見ている。


「……抑えてくれてる」


 穏やかな気配が、僕たちを追い越すように広間に流れ込んできた。

 近衛の魂だ。

 消えていなかった。

 淡い光を帯びた気配が、怨念の圧力に静かに抗っている。

 怨念の剣が震えた。

 刃先が僅かに持ち上がる。

 振り上げようとしている。

 だが穏やかな気配がそれを押し留めていた。

 広間の空気が揺れていた。

 二つの気配が静かにぶつかり合っている。

 同じ人間の、同じ想いの、半分と半分。

 怒りを、悲しみが包んでいる。


「今のうちに」


 セラが低く言った。

 四人が広間を駆け抜けた。

 背後で怨念の気配が揺れたが、追ってはこなかった。

 通路に出た。

 振り返った。

 穏やかな気配が、まだそこにあった。


(……ありがとう)


 気配が微かに揺らいだ気がした。


---


 石の扉を抜けた。


 悔恨の道に足を踏み入れた瞬間、胸の奥が揺れた。

 あの感覚だ。

 歩く者の後悔を引きずり出す通路。

 エルドさんの穏やかな笑顔が浮かんだ。

 「レイン、今日は何を読もうか」。あの声に「とうさん」と返せなかった日々。


(……重い)


 だが足は止まらなかった。


「後悔は持っていけばいい」


 フィノの言葉が、胸の中に残っていた。

 三人が動けなくなった通路の中で、フィノだけが真っ直ぐ立ち、静かに放った言葉。

 隣を見た。

 セラが真っ直ぐ前を見て歩いている。

 拳は白くない。

 ガルドの膝は折れていない。

 フィノが先頭を歩いている。

 涙は浮かべていたが、足取りに迷いはなかった。

 四人とも、止まらなかった。

 後悔を全部持って、歩いた。

 通路を抜けた。

 昨日ほどの消耗はなかった。

 足が覚えている。

 心が覚えている。

 花畑の広場に出た。

 白い花が変わらず咲いている。

 甘い匂いが鼻をかすめたが、足は止めなかった。

 留まることなく通り抜け、王城への通路に入った。

 壁の色が深まっていく。

 藍から、黒へ。

 昨日ここを歩いた時、この先に何が待っているか知らなかった。

 今は知っている。

 知った上で、ここにいる。


---


 広場に出た。

 あの場所だ。

 空はいまだ暗い。

 変わらず黒い雲が低く垂れ込め、渦を巻いていた。

 昨日と変わらない。

 花のない石畳、精緻な彫刻に覆われた壁、門前の獣の意匠がこちらを見下ろしている。


「来たわ」


 セラが呟いた。

 盾を正面に構えている。

 壁の文字が見えた。


『王よ、お前は許されない。永遠に』。


 何百もの筆跡で刻まれた呪詛が壁を埋め尽くしている。


 一歩踏み出した。


 二つの力が、押し寄せた。

 天からの圧力。

 白い光が頭上から降り注ぎ、体を地面に押しつけようとする。

 容赦のない神聖さ。

 壁からは黒い靄が滲み出し、何百という声が重なった。


 ――王よ。

 ――許さない。


 呪詛だ。

 昨日はこの二つの力に全員が倒された。

 膝をつき、地面に叩きつけられた。

 だが今回は違う。

 僕は鞄から手帳を取り出した。

 震える指でページを開いた。

 聖典の一節。

 番人にも怨念にも届いた言葉。

 昨夜、もう一度読み返した言葉。


「『我らの罪を、いつか裁いてくれるように』!」


 声が広場に響いた。


 呪詛が、揺らいだ。

 壁から滲み出す黒い靄が、一瞬だけ縮んだ。

 聖典の言葉は、この呪詛と同じ人々から生まれていた。

 聖女を守れなかったことを悔いた懺悔と、聖女を壊した王を呪った怒り。

 表と裏だ。

 懺悔の言葉が、呪詛の声を包み込んでいく。

 消えたのではない。

 だが声の激しさが和らいだ。

 黒い靄がまだ漂っている。

 だが昨日のように体を飲み込もうとはしなかった。


(……聖典の言葉が、盾になっている)


 呪詛を抑え込んだわけではない。

 同じ人々の、同じ想いの、もう半分を差し出しただけだ。

 怒りと懺悔。

 両方があって、初めて一つになる。

 壁に刻まれた文字が、微かに揺れた気がした。

 何百もの筆跡。

 何百人もの怒りの奥にある、同じ数の悲しみ。

 呪詛が鎮まった空間の中で、天からの圧力だけが残った。

 白い光が四人に降り注いでいる。

 膝が震えた。

 体の芯まで貫くような力だ。

 昨日はここで全員が崩れ落ちた。

 この場所に足を踏み入れた者すべてに等しく降りかかる力。


 だが、四人は立っていた。

 セラが盾を掲げ、歯を食いしばっている。

 ガルドが両足を踏みしめ、微動だにしない。

 フィノが涙を流しながら、それでも目を開けている。


(……見ている)


 この力は、僕たちを見ている。

 軽々しく触れる者を排除する力。

 だが僕たちは軽々しく来たのではない。

 番人と向き合い、怨念の叫びを聞き、後悔を背負い、壁に刻まれた人々の声を受け止めた。

 そして、再びここにやって来た。

 僕も立っていた。

 手帳を胸に押し当て、両足で地面を踏みしめている。

 膝が折れそうになった。

 歯を食いしばった。


 白い光が、ゆっくりと弱まった。

 頭上の圧力が薄れていく。

 息ができた。


 門が、軋んだ。

 重い石が擦れる音が広場に響いた。

 門の左右の扉が、ゆっくりと内側に開いていく。

 あれほど堅く閉ざされていた門が。

 セラの目が見開かれている。

 ガルドが門を見上げた。

 フィノが涙を拭い、息を呑んだ。


 あの力が僕たちを認めたんだ。


 門の向こう、そこには通路が続いていた。


「行くわよ」


 セラが最初に歩き出した。

 ガルドが続いた。

 フィノが僕の腕を引いた。

 四人が、門をくぐった。


 門を抜けた瞬間、背後で音がした。

 重く、深い音だった。

 地面が揺れた。

 振り返った。

 門が閉じていた。

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