第21話 決断
「……みんな、生きてる?」
フィノの声だった。
かすれている。
「……生きてる」
僕が答えた。
声が出るまでに時間がかかった。
頭の奥で呪詛の声が響いている。
じわじわと強くなっている。
ここにいる限り削られ続ける。
体を起こした。
壁がすぐ目の前にあった。
壁に目をやった。
『王よ、お前は許されない。永遠に』
やはりその文字で壁は埋め尽くされている。
だがその中に、一箇所だけ別の文字があった。
嵐は去ったことによって見つけることができたその文字。
壁の中央、最も目立つ場所に、太く深く刻まれている。
呪詛とは筆致が違う。
怒りではない。
事実を刻もうとしている。
『王は近衛を殺した。聖女は壊れた』
呼吸が止まった。
(……王が、近衛を殺した)
近衛は、王に殺されたのだ。
一つずつ集めてきた断片が、繋がっていく。
二つに引き裂かれるほどの出来事。
婚礼の祭壇に誰も来られなかった理由。
番人が「命令に従った」と泣いていた。
あの命令は王のものだった。
近衛の穏やかさと、怨念の激しさ。
一人の人間が二つに分裂するほどの出来事。
忠誠を誓っていた者に殺された。
それがこの分裂の意味だった。
そして聖女は壊れた。
近衛の死を知って。
呪詛の声はまだ続いている。
頭の芯が痺れる。
だが、これだけは記録しなければならない。
手帳を取り出した。
震える手で書いた。
『碑文「王は近衛を殺した。聖女は壊れた」。近衛を殺したのは王。番人が従った命令は王のもの。聖女は近衛の死で壊れた。門の先に答えがある』
手帳を閉じた瞬間、視界が揺れた。
座っているだけで精神が削られていく。
門を見上げた。
黒い雲の下に、あの門がある。
碑文が「封印には意味がある」と警告していた。
王を呪う声と、王を閉じ込める力。
(……王城)
だが今の僕たちに、あの門を開く力はない。
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四人とも限界だった。
僕は壁に手をついてようやく立っているだけだ。
ガルドはまだ地面にいた。
セラは壁に背を預け、盾を持つ左腕が震えていた。
「ここで引くべきよ」
セラの声だった。
こちらを見ている。
顔に血の気がない。
だが目は揺れていなかった。
「このまま突入したら全員倒れるわ。広場にいるだけで削られている。今の状態では無理よ」
リーダーとしての判断だった。
冷静で、正しい。
ガルドが動いた。
「行けるなら、行く」
低い声だった。
ガルドが地面に手をついて、立ち上がろうとしている。
両腕が震えている。
片膝を立て、全身に力を込めた。
だが、足が折れた。
石畳に膝が落ちた。
ガルドの拳が石畳を叩いた。
もう一度立とうとする。
また、崩れた。
番人の声、怨念の叫び、壁からの呪詛。
この遺跡が突きつけてくるものが、ことごとくガルドの古傷を抉っている。
体ではない。
心が限界なのだ。
フィノだけが立っていた。
四人の中で、フィノだけが立ち続けていた。
だが平然としているわけではない。
目に涙を浮かべている。
この場に満ちる呪詛と悲しみの声を全身で受け止めながら、それでも立っている。
(……答えは、あの門の向こうにある)
王はなぜ近衛を殺したのか。
聖女はどうなったのか。
この遺跡は、何のために現れたのか。
全部、あの先にある。
今日ここまで来た。
碑文を見つけた。
あと少しだ。
だが――ガルドが立てない。
セラの腕が震えている。
フィノの涙が止まらない。
門を見た。
仲間を見た。
また門を見た。
ここで全員を無理に進ませれば、誰かが倒れる。
あの遺跡の奥で仲間を失うわけにはいかない。
それだけは駄目だ。
(……今のままでは、辿り着けない)
「……撤退する」
僕は言った。
ガルドが僕を見た。
「でも、必ず戻る。この先に答えがある。体を休めて、準備を整えて、必ずこの門を開ける」
セラが静かに頷いた。
ガルドがしばらく僕を見つめていた。
あの門の向こうに行きたい目をしていた。
だが自分の膝が折れたことも、わかっている。
拳を握り、ゆっくりと開いた。
小さく頷いた。
フィノが涙を拭った。
「……うん。戻ろう」
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門を背にして、通路へ向かった。
フィノがガルドの腕を肩に回した。
ガルドが僕たちの中で一番重いはずだ。
それでもフィノは歯を食いしばって支えた。
一歩ごとに、頭の奥で響く呪詛の声が薄くなっていく。
広場から離れるにつれ、空気が軽くなった。
通路に入った時、全員が深く息を吐いた。
だが安堵はなかった。
削られた精神は戻らない。
足が重い。
思考が霞んだ。
来た道を戻った。
行きには気配に注意を払い、壁の彫刻を観察し、通路の構造を記録した。
今はそのどれもできない。
ただ、歩いた。
ガルドの足取りが遅い。
フィノが支えているが、二人とも壁に手をつきながら進んでいる。
セラが先頭を歩き、僕が最後尾を務めた。
いつもの隊列だ。
だが足音に力がない。
花畑の広場を抜けた。
白い花が変わらず咲いている。
甘い匂いが鼻をかすめた。
あの広場には花が一輪もなかった。
婚礼の祭壇への隠し扉はまだ開いている。
王が近衛を殺した。
だからあの祭壇には誰も来られなかった。
あの花は、来るはずだった人を待ち続けている。
悔恨の道を戻る。
行きでは後悔を引きずり出された通路だが、戻る方向には揺さぶられなかった。
なぜかを考える気力もない。
ただ通り過ぎた。
壁の碑文「己の罪を省み、悔い改めよ」が目に入った。
行きの時は足を止められた言葉だ。
今は何も感じなかった。
近衛の広間を通過した。
怨念がまだ蠢いている。
だがこちらには向かってこなかった。
通路から漂う穏やかな気配が、静かに怨念を抑えている。
封印の扉を越え、外郭に出た。
光る石が穏やかに通路を照らしている。
空気が柔らかい。
庭園に出た時、フィノが足を止めて空を見上げた。
穏やかな夕暮れの空だった。
あの広場の黒い渦巻く雲が嘘のように、薄い雲が茜色に染まっている。
行きには当たり前だった遺跡の穏やかさが、あの広場を経た今、別の世界のように感じられた。
ずっと張り詰めていたものが、ようやく緩んだ。
遺跡を出た。
空が赤く焼けていた。
入った時にはまだ上り初めだった太陽が、もう山の端にかかっている。
一日の大半を遺跡の中で過ごしたのだ。
遺跡の中にいた時間は、もっとずっと短く感じていた。
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野営地に辿り着いた時、全員が限界だった。
ガルドがフィノの肩から離れ、地面に座り込んだ。
そのまま動かなくなった。
フィノもその場にしゃがみ込む。
ガルドを支え続けた足が、限界を迎えたのだ。
セラは荷物を下ろし、水を配った。
誰もが黙って水を飲んだ。
乾いた喉に水が沁みる。
こんな当たり前のことが、今はありがたかった。
焚き火に火を入れた。
小さな炎が揺れ、四人の影が地面に長く伸びた。
しばらく、誰も口を開かなかった。
フィノが僕の隣に腰を下ろした。
膝を抱えている。
「……レイン」
「ん」
「あの壁の声、全部聞こえたよ。何百人分も、何千人分も、もしかしたらそれ以上も……」
フィノの目が、焚き火を見つめていた。
「……あの人たち、ずっと怒ってたんだね。ずっと……」
声が揺れた。
「ずっと、悲しかったんだね」
怒りの奥にある悲しみ。
フィノにはそれが聞こえていた。
ガルドが腕を組み、目を閉じていた。
眠っているのではない。
あの怨念の叫びと、番人の涙。
ガルドの中で、何かが繋がろうとしているのかもしれない。
セラが毛布を引き出し、フィノの肩にかけた。
何も言わなかった。
だがその仕草に、今日一日を共に耐えた者だけがわかる労りがあった。
僕は空を見上げた。
あの広場の黒い雲が嘘のように、星が瞬き始めている。
あの門の向こうに、答えがある。
今日は届かなかった。
だが、必ず戻る。
体を休めて、わかったことを整理して。
必ず、あの門を開ける。




