第20話 断罪
「封印には意味がある。軽々しく触れるな」
――王城の門に刻まれた警告
「王よ、お前は許されない。永遠に」
――壁に刻まれた呪詛
通路の壁は、歩くほどに色を深めていった。
花畑の広場から入った時は藍色だった石が、奥に進むにつれて黒に近づいていく。
光る石は天井に密集して埋め込まれており、内郭の入口で見た星空のような配置とは違う。
白い光が壁面を鋭く照らし、彫刻の陰影をくっきりと浮かび上がらせていた。
彫刻は精緻だった。
花の意匠、幾何学の紋様、人物の列。
壁一面を隙間なく覆っている。
内郭で見た飾りの痕跡とは比較にならない密度だ。
(……遺跡の奥に向かっている)
空気が重い。
温度ではない。
質が変わっている。
一歩ごとに、見えない圧がかかるようだった。
セラが盾を構え直した。
無言だが、顔が硬い。
「……重いね」
フィノが呟いた。
壁の彫刻を見つめている。
目が潤んでいた。
この通路に染みついた感情を、フィノの体が受け取っているのだ。
ガルドは無言で歩いている。
だが、剣の柄に手を置いていた。
戦士の勘が、何かを察知しているのだろう。
通路は緩やかに上っていた。
そして――光が変わった。
外に出た。
空が見えた。
庭園以来の開けた空間だった。
だが、見上げて足が止まった。
空が暗い。
黒い雲が低く垂れ込め、渦を巻いていた。
風はない。
なのに雲だけが絶えず動いている。
庭園の空は穏やかだった。
ここは違う。
この空そのものが、怒っている。
「……あの空、おかしいよ」
フィノが立ち止まった。
顔が強張っている。
フィノがこんな顔をするのは珍しい。
石畳の広場が広がっていた。
左右を高い石壁に挟まれ、壁には通路と同じ精緻な彫刻が刻まれている。
だが光る石はない。
雲の隙間から差す鈍い光だけが、広場を薄暗く照らしていた。
花もない。
遺跡に入ってからどこにでも咲いていたあの白い花が、この広場には一輪もなかった。
足を踏み出した瞬間にわかった。
ここは、認められていない場所だ。
広場の正面に、門が見えた。
黒に近い石で組まれた重厚な門。
表面に金属の装飾が施されている。
この遺跡で見てきたどの扉よりも大きい。
門の左右に柱が立ち、柱の上部に翼を広げた獣の意匠が刻まれていた。
番人のように、門の前に構えている。
セラが目配せした。
全員が頷き、門に近づいた。
門の脇の壁に、碑文が刻まれていた。
周囲の彫刻とは筆跡が異なる。
整った字形だ。
『封印には意味がある。軽々しく触れるな』
碑文を読み終えた瞬間だった。
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二つの力が、同時に押し寄せた。
一つは空からだった。
頭上から降り注ぐ圧倒的な重圧。
体が地面に押しつけられる。
目の前が白く灼けた。
光が強すぎて何も見えない。
(……裁き)
聖なる力だった。
泉や聖堂で感じた穏やかさとは対極の、容赦のない神聖さ。
意志はない。
だが、ここに足を踏み入れた者すべてに等しく降りかかる力。
呼吸ができない。
胸を踏みつけられているかのような重さ。
立っていられない。
もう一つは、壁からだった。
憎悪が滲み出してきた。
壁の至るところから、黒い靄のようなものが漂い出している。
声が重なった。
一つではない。
何十、何百という声。
――王よ。
――許さない。
――返せ。
呪詛だった。
封印の間に満ちていた冷気とは質が違う。
あれは一人の番人の苦しみだった。
これは群衆の憎悪だ。
王に向けられた呪い。
だが壁に留まっていない。
溢れ出し、この場にいるすべてを飲み込もうとしている。
天からの裁きと、壁からの呪詛。
二つの力が広場の上空で激しくぶつかり合い、渦を巻いた。
白い光と黒い靄が絡み合い、空気そのものが軋んでいる。
膝が折れた。
石畳に手をついた。
顔のすぐ前に壁がある。
靄が渦巻く中、石の表面に文字が見えた。
靄が脈打つたびに、刻まれた文字が明滅している。
『王よ、お前は許されない。永遠に』
同じ言葉が壁を埋め尽くしていた。
下半分のすべてに刻まれている。
大きな文字、小さな文字、丁寧なもの、乱暴に叩きつけたようなもの。
筆跡が違う。
一人ではない。
何十、何百という人間が、同じ呪いの言葉をこの壁に刻み続けたのだ。
右の壁にも、左の壁にも。
広場を囲む壁のすべてに。
これが呪詛の源だった。
人々の憎悪が文字となって石に刻まれ、その一字一字が力を持って溢れ出している。
隣でセラが盾を正面に構え、歯を食いしばっていた。
ガルドは片膝をつき、両手で剣の柄を握りしめている。
顔が蒼白だ。
呪詛の声が――命令に従った者を呪う声が、ガルドの中の何かに触れている。
その中で、フィノだけが立っていた。
両手を広げ、目を閉じている。
涙が頬を伝っていた。
フィノの周囲だけ、わずかに空気が澄んでいる。
だがその足も震えていた。
フィノですら、この力の中に長くはいられない。
壁の文字が脈動した。
刻まれた呪詛の声が、脳裏に直接流れ込んできた。
映像ではない。
言葉だ。
断片的な、だが烈しい感情を伴った声の奔流。
――あの方を奪った。
――王が殺した。
――我々は忘れない。
(……人々の声だ)
この王国に生きた人々の声。
聖女を慕い、王に仕え、そして裏切られた人々。
彼らの憎悪が、ここに凝縮されている。
声の奔流の中で、視界に過去の映像が飛び込んできた。
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外郭の通路。
初日に歩いたあの通路。
壁のレリーフに描かれた行列。
先頭に立つ人物の顔が削り取られていた。
あの時は風化か悪戯かと思っただけだった。
(……あれは王だ)
人々が削ったのだ。
憎悪で。
王の顔を、自分たちの手で消した。
あの行列を率いた人物の顔だけが、消し去られていた。
権力区画の壁。
くぼみが並んでいた。
何かが飾られていた痕跡。
宝物庫は無事だったのに、あのくぼみだけが空だった。
(……王の象徴を排除したのか)
王の権威を示すものが、人々の手で持ち去られていた。
聖典の言葉が浮かんだ。『我らの懺悔』。
聖堂に残された、人々の悔恨の書。
(……懺悔と呪詛は、同じ人々から生まれている)
聖女を守れなかったことを悔い、聖女を壊した王を呪った。
『我らの懺悔』は表だった。
裏が、これだ。
壁に刻まれた呪詛。
永遠に王を許さないという叫び。
懺悔と反逆は、表裏一体だったのだ。
そこまで考えた時、視界から過去の映像が消えた。
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どれほどの時間が経ったのかわからない。
一瞬か、それとも長い時間か。
力の奔流は、唐突に収まった。
白い光が薄れ、黒い靄が壁に沈んでいく。
声が遠ざかり、嵐のような激しさは去った。
過去の映像が消えた瞬間だった。
偶然ではない気がした。
碑文は「軽々しく触れるな」と警告していた。
あの嵐は、この場所に眠る記憶を軽々しく扱わないかどうかを、見ていたのかもしれない。
だが、消えたわけではなかった。
空気が重い。
頭の奥で、呪詛の声が低く響き続けている。
頭上の空は変わらず黒い雲が渦を巻いている。
この場所そのものが、力の溜まり場なのだ。
ここにいる限り、僕たちは削られ続ける。
四人とも、地面に倒れていた。
精神を直接殴られたような疲弊だった。
悔恨の道とは質が違う。
あの通路は記憶を引きずり出した。
ここでは、場所そのものが心を削った。
そして、まだ削り続けている。
ガルドが動かない。
目は開いているが、虚ろだった。
命令に従った者を呪う声。
あの声が、ガルドの中の古い傷を抉ったのだ。
セラは壁に背を預けたまま、荒い息をしている。
盾を持つ左腕が震えていた。
顔に血の気がない。
立ち続けていたフィノも、ついに膝をついていた。
それでも顔を上げ、三人を見回している。
まだ壁の文字が目の端で脈動している。
『王よ、お前は許されない。永遠に』。
この圧力は、ここにいる限り、終わらない。




