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記憶の遺跡 ― 失われた王国  作者: 智信
第二部

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第19話 婚礼の祭壇

「誰も、ここで誓いを交わすことはなかった」

――婚礼の祭壇に刻まれた言葉

 花の匂いが濃くなった。


 通路を抜けると、広場に出た。

 花畑だった。

 白い花が一面に咲き乱れている。

 庭園でも見た花だ。

 白い花弁に淡い紫の筋が入った小さな花。

 それが足元から壁際まで、広場いっぱいに広がっていた。

 手入れする者などいないはずなのに、一輪も枯れていない。

 光る石の輝きを受けて、白い花弁の一つ一つが淡く浮かび上がっている。

 まるで地上の花畑に迷い込んだかのようだった。


「……きれい」


 フィノが足を止めた。

 僕も言葉を失っていた。

 悔恨の道の暗さと重さの直後だ。

 この光景が目に沁みた。

 だが、誰もいない。

 花は咲いている。

 空気は甘い。

 それなのに、人の気配が一切ない。

 祝われるべき場所が、ただ静かに時を止めている。


 広場の奥に壁があった。

 行き止まりだ。


「……ここで終わり?」


 フィノが首を傾げた。

 セラが壁を確かめている。

 ガルドが広場の左右を見渡したが、別の通路は見当たらない。


 壁に近づいた。

 レリーフが刻まれていた。

 壁の半分以上を使って、精緻に彫り込まれている。

 中央に二人の人物が立っていた。

 一人は白い衣を纏い、もう一人は剣を帯びている。

 顔は判別できない。

 だが身を寄せ合うように立っていた。

 その周囲を大勢の人々が囲んでいる。

 花を掲げ、手を打ち、笑っている。


 祝福の図だった。

 二人の幸せを、皆が祝っている。

 花に囲まれ、笑顔に囲まれ、祝福に包まれている。


(……婚礼だ)


 鞄が揺れた。


 燭台が鞄の中で震えていた。

 隣のリングも温もりを帯びている。

 二つの反応が同時に来た。

 燭台を左手に、リングを右手に取り出した。

 両方が淡い光を放ち始めた。

 光がレリーフに向かって伸びていく。


(……祈りと、想い)


 燭台は従者の祈り。

「お嬢様」の幸せを、毎日あの小さな部屋で祈り続けた想い。

 リングは近衛の想い。

 渡したかった。

 渡せなかった。

 それでもずっと持ち続けた想い。

 二つの光がレリーフに触れた。


 壁が動いた。


 地面が微かに震えた。

 レリーフの中央、二人の人物の間に亀裂が走る。

 壁が左右に割れていく。

 隠し扉だった。


 セラが盾を構え、僕たちの前に出た。

 だが扉の向こうから流れてきたのは、敵意ではなかった。

 花畑のものとは違う、甘く厳かな香の残り香。


 僕たちは扉をくぐった。


---


 白い石の壁に囲まれた、広く美しい空間だった。

 高い天井から光が差し込んでいる。

 壁面には花の意匠が丁寧に彫り込まれ、床には花弁を模した石畳が敷き詰められている。

 空気が澄んでいた。

 ここが遺跡の奥底であることを忘れさせるほど、穏やかで厳かな空間だった。

 正面に祭壇があった。

 石の台座の上に、二つの杯が並んでいる。

 誓いの杯だ。

 杯の間にあの白い花が添えられている。

 まだ咲いている。


 婚礼の祭壇だったのだ。


 祭壇の台座に、文字が刻まれていた。


『誰も、ここで誓いを交わすことはなかった』


 手帳に書き写した。

 書き写しながら、違和感を覚えた。

 この碑文は建造時に刻まれたものではない。

 後から、誰かが刻んだのだ。

 この場所は使われた形跡がなかった。

 杯に口をつけた痕はない。

 祭壇の前に人が立った気配がない。

 花が美しく飾られ、準備は万全に整えられている。

 なのに、式は始まらなかった。


「……誰も、来なかったんだ」


 フィノが呟いた。

 目に涙を浮かべている。

 この場所の感情が流れ込んでいるのだろう。


 手の中のリングに目を落とした。

 ずっと気になっていたことがある。

 近衛の部屋で見つけた時、外側は確認した。

 だが内側は暗くて読めなかった。

 この祭壇の光の下で、リングを傾けた。


 内側に、文字が刻まれていた。

 古代文字だ。

 細く、丁寧に彫られている。


『我が魂を、あなたに』


 誓いの言葉だった。


(……近衛から、あの方への)


 このリングは婚約の証だったのだろう。

 近衛が渡すはずだった指輪。

 だが、渡されることはなかった。

 燭台が再び温かくなった。

 リングも光を帯びている。

 二つの遺物が共鳴している。


 映像が重なった。


---


 幻視だった。


 同じ祭壇。

 だが今は人がいた。


 花を運ぶ人々。

 壁に飾りを掛ける人々。

 祭壇を磨く人々。

 皆が忙しく動いている。

 笑っている。

 声は聞こえないのに、喜びが伝わってくる。


 婚礼の準備だ。


 白い衣が運ばれていく。

 白い花が大量に束ねられている。

 杯が丁寧に磨かれ、祭壇に並べられる。

 人々の顔はぼやけて見えない。

 だが、笑っていることだけはわかった。

 誰もが手を休めない。

 少しでも美しく、少しでも完璧にと、心を尽くしている。


 準備は整った。


 人々が祭壇の両側に並び、入口を見つめている。

 待っている。

 花を手に、笑顔で。


 だが――誰も来なかった。


 入口から花嫁は現れなかった。

 花婿も来なかった。

 人々はただ待ち続けた。

 笑顔が消え、不安が広がり、やがて一人、また一人と顔を伏せていった。


 式は、行われなかった。


 花は飾られたまま。

 杯は並べられたまま。

 誓いの言葉は、交わされないまま。


 映像が薄れ始めた。

 最後に見えたのは、祭壇の前に一人で立つ小さな人影だった。

 控えめな立ち姿。

 従者だ。

 従者は祭壇を見つめ、長い間そこに立っていた。

 やがて深く頭を下げ、踵を返した。


 幻視が消えた。


---


 僕は目を閉じた。

 幻視の残像がまぶたの裏に揺れている。

 やがてゆっくりと目を開いた。

 祭壇は変わらない。

 白い石、二つの杯、白い花。

 何千年もこのまま、ここにある。


 セラが祭壇の前に立っていた。

 杯を見つめている。


「……叶わなかったのね」


 セラの声は低かった。

 ここで誓いが交わされるはずだった。

 それが叶わなかった。

 選ぶことすら許されなかった誰かがいる。

 セラがかつて騎士団にいた頃にも、選べないまま失われたものがあったのだろうか。

 セラは何も語らなかった。

 ただ、杯に手を伸ばしかけて、止めた。

 ガルドは祭壇から距離を置いて立っていた。

 腕を組み、壁に彫り込まれた花の意匠を眺めている。

 何を思っているのかは、わからなかった。

 ただ、いつになく静かだった。


 フィノが祭壇に近づき、杯の隣に添えられた白い花に触れた。


「……待ってたんだね。ずっと」


 花はまだ咲いている。

 枯れずに、ここで待ち続けている。


 僕は手帳に記録した。


『花畑の広場にて燭台とリングが同時に反応。壁のレリーフが左右に割れ、隠し扉が開いた。その先に婚礼の祭壇を発見。祭壇は完全に準備されているが、使用された形跡がない。台座に碑文「誰も、ここで誓いを交わすことはなかった」。リングの内側に誓いの言葉「我が魂を、あなたに」。近衛から聖女への婚約の証と推定。幻視にて婚礼の準備を確認。人々が待つも、花嫁も花婿も現れず。式は行われなかった。最後に従者が一人で祭壇の前に立つ姿。この祭壇が誰の婚礼のために用意されたかは不明。近衛の死との関連を調査』


 手帳を閉じた。


 この祭壇で、誰かが誓いを交わすはずだった。

 王国中が祝福していた。

 花を飾り、杯を磨き、笑顔で待っていた。

 なのに、誰も来なかった。

 来なかったのではない。

 来られなかったのだ。

 なぜ来られなかったのか。


 近衛の魂は「もう半分がある」と言った。

 怨念は「守れなかった」と叫んでいた。

 魂と怨念に分かれるほどの出来事が、近衛の身に起きた。


(……もしかして、近衛は死んだのか。この祭壇が使われる前に)


 あの番人が「命令に従った」と泣いていた。

 誰かの命令。

 それが近衛の死と繋がっているとしたら――命令したのは……


 まだわからない。

 だが、断片が一つの方向を指し始めている。


 祭壇の奥に道はなかった。

 ここは行き止まりだ。


 花畑の広場まで戻った。

 来た時と同じ花畑。

 だが、先ほどとは違う空気の流れを感じた。

 隠し扉が開いたことで、風の通り道が変わったのだろう。

 風を辿ると、広場の隅に植えられた木々の奥に通路があった。

 通路の壁の石が、色を変えていた。

 白ではない。

 深い藍色だった。

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