第18話 悔恨の道
「伝えられなかった想いが、どれほど重いか」
――石の扉に刻まれた言葉
近衛の広間を抜けて、さらに奥へ進んだ。
通路はしばらくまっすぐ続いていた。
壁の光る石が徐々に暗くなっている。
天井が低い。
幅も狭まっていく。
やがて通路の先に、扉が見えた。
石の扉だった。
通路を塞ぐように嵌め込まれた重い一枚岩。
だが、僅かに開いていた。
人が一人通れるほどの隙間がある。
足元に細かい石の粉が散っていた。
「……つい先ほど開いたみたいね」
セラが扉の縁に触れた。
長い間閉ざされていたものが、ほんの少し前に動いた痕跡だった。
フィノが扉の表面に手を当てた。
「……従者の部屋の時と同じ気配がする。あの影と同じものが、この扉にも残ってる」
従者の扉の内側にあったものと同じ、負の感情の残滓。
あの影に出会ったことが、この扉を開けたのだろうか。
扉の表面に、古代文字の刻印があった。
『伝えられなかった想いが、どれほど重いか』
手帳に書き写した。
隙間をすり抜け、扉の先へ出た。
壁に、もう一つ碑文が刻まれていた。
『己の罪を省み、悔い改めよ』
これも書き写した。
指先が冷えていた。
文字を追うだけで、胸の奥が微かに疼いた。
まだ碑文の先に踏み入れてもいないのに。
碑文の先から、通路の雰囲気が一変していた。
壁の石は光を失い、足元だけが仄かに白い。
天井はもう見えない。
音がない。
自分の足音だけが、やけに大きく響く。
冷たい。
肌に触れる空気が、外郭のどの通路よりも冷たかった。
「気をつけて」
セラが低い声で言った。
盾を構えている。
僕たちは足を踏み入れた。
一歩目は何もなかった。
二歩目で、胸の奥が揺れた。
三歩目で、それが何か分かった。
後悔だ。
自分の中にある、古い後悔。
蓋をして、見ないふりをしてきたもの。
四歩目で、養父の顔が浮かんだ。
(……エルドさん)
いつもそう呼んでいた。
辺境の街グレンツの教会図書館で、孤児だった僕を拾い、文字を教え、世界を教えてくれた人。
最後まで「エルドさん」と呼んだ。
一度も「とうさん」と呼べなかった。
呼びたくなかったわけじゃない。
呼ぼうとした日もあった。
朝、食卓で向かい合っている時。
夕方、書庫で一緒に古い写本を読んでいる時。
喉の奥まで言葉は来ていた。
だが、出せなかった。
エルドさんは孤児である僕を引き取った人であって、僕の本当の父親ではない。
そう言い聞かせていた。
引き取ってもらった恩を、甘えで返してはいけないと。
エルドさんは僕を本当の息子のように扱ってくれていた。
食事を作り、風邪をひけば徹夜で看病してくれた。
その温かさを僕はしっかりと感じていたのに、それでも僕は、言葉にすることができなかった。
(……馬鹿だ。あの人は、あんなにも優しく僕を受け入れてくれたのに。待っていてくれたのに)
僕が「とうさん」と呼ぶのを。
エルドさんは僕が十六の時に病で亡くなった。
最後の夜、寝台の傍で手を握っていた。
何か言わなければと思った。
喉の奥で「とうさん」が震えていた。
だが出てきたのは、いつも通りの「エルドさん」だった。
言えなかった。
伝えられなかった。
もう二度と、伝えることはできない。
刻印の言葉が頭の中で反響していた。
一度ではない。
何度も、何度も。
繰り返すたびに後悔が膨れ上がっていく。
『伝えられなかった想いが、どれほど重いか』
重い。
足が動かない。
後悔から逃れるように、隣に目を向けた。
セラも止まっていた。
盾を構えたまま、一歩も動けなくなっている。
何かを堪えるように歯を食いしばっている。
怒りではない。
後悔だ。
セラがかつて騎士団にいたことは知っている。
だがなぜ去ったのか、去った後に何があったのか、セラは語らない。
今、この通路がそれを引きずり出している。
セラの手が震えていた。
盾を握る拳が白くなっている。
噛み締めた歯の隙間から、押し殺した息だけが漏れていた。
セラは堪えている。
後悔と正面から向き合っている。
僕にはそれすらできなかった。
自分の弱さを直視できず、目を逸らした。
その先に、ガルドがいた。
ガルドは壁に手をついていた。
片膝が落ちかけている。
両肩が揺れている。
あの鉄のような男の背中が、小さく見えた。
唇を噛み締め、何かに耐えている。
番人の「命令に従った」。
怨念の「守れなかった」。
二つの声がこの通路の中で重なり、何倍にもなっているのだろう。
ガルドの目が揺れていた。
耐えようとしている。
だが揺さぶられている。
あの広間で怨念の叫びを受け止めていた時と同じだ。
(……ガルドの足が、一番重い)
三人とも、動けなかった。
通路が感情を増幅している。
敵ではない。
罠でもない。
ただ、歩く者の後悔を揺さぶる。
剣では斬れない。
盾では防げない。
(……駄目だ、足が……)
エルドさんの穏やかな笑顔がちらつく。
「レイン、今日は何を読もうか」。あの声に「とうさん」と返せなかった日々が、鉛のように足にまとわりつく。
「レイン」
声がした。
フィノだった。
僕たち三人が止まっている通路の中で、フィノだけが真っ直ぐ立っていた。
目に涙を浮かべている。
だが倒れていない。
震えてもいない。
(……なぜだ)
フィノの目が僕を見ていた。
それからセラを、ガルドを。
三人の顔を一人ずつ見つめ、何かを決めたように頷いた。
「……聞こえるよ。三人とも、すごく苦しそう」
フィノの声は静かだった。
僕たちの後悔が流れ込んでいるはずだ。
感情を読む力がある。
それなのに立っている。
(……妖精の血か)
泉で目覚めた力。
妖精との繋がり。
この通路の増幅を、フィノの血が和らげている。
フィノが一歩踏み出した。
僕たちの前を歩き始めた。
「フィノ、待っ――」
声が出なかった。
喉が詰まっている。
フィノは振り返らなかった。
三歩、四歩。
通路の先へ歩いていく。
足取りに迷いはなかった。
そして、振り返った。
涙が頬を伝っていた。
フィノも泣いていた。
でも、笑っていた。
「後悔は持っていけばいい」
フィノが言った。
「置いていかなくていいよ」
静かな声だった。
だが、この通路の重さを突き抜けて届いた。
置いていかなくていい。
捨てろとは言わない。
忘れろとも言わない。
持っていけばいい。
背負ったまま、歩けばいい。
(……エルドさん)
あの穏やかな笑顔。
「とうさん」と呼べなかった後悔は消えない。
消えなくていい。
持っていく。
僕は顔を上げた。
セラが深く息を吐いた。
白かった拳に、少しずつ色が戻っていく。
ガルドが壁から手を離した。
片膝を立て、立ち上がった。
揺れていた目が、据わっていた。
何も言わなかった。
だが、立った。
フィノが通路の先で待っていた。
涙を拭って、僕たちを見ている。
歩き出した。
一歩目が重かった。
二歩目も重かった。
だが三歩目で、少しだけ軽くなった。
フィノが先を歩いている。
その背中を、三人が追った。
通路はまだ暗い。
だが、足は止まらなかった。
後悔を置いていかなかった。
全部持って、歩いた。
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通路を抜けた。
空気が変わっていた。
後悔は消えていない。
だが、顔を上げることができる。
僕らは足を止めた。
僕は壁に手をつき、深く息を吸った。
吐いた。
隣でセラも同じことをしていた。
ガルドは腕を組み、目を閉じている。
この遺跡に残る悔恨が、この通路を作ったのだろう。
歩く者の後悔を引きずり出し、増幅する形で。
僕は手帳に記録した。
『近衛の広間の先に石の扉。従者の影と同質の残滓があり、あの影との遭遇で開いたと推定。刻印「伝えられなかった想いが、どれほど重いか」。扉の先に碑文「己の罪を省み、悔い改めよ」。通路は歩く者の後悔を増幅する。三人の足が止まった。フィノだけが妖精の血の力で耐え、先を歩いた。「後悔は持っていけばいい。置いていかなくていい」。この通路を「悔恨の道」と記す』
手帳を閉じた。
フィノが僕の隣に戻ってきた。
さっきの凛とした表情はもうなくて、いつものフィノだった。
「……格好つけすぎたかな」
「いや。助かった」
「えへへ」
フィノが笑った。
だがその目の奥に、微かな疲れが見えた。
平気なふりをしているが、三人分の感情を受け止めていたのだ。
あの通路の中で、僕たちの後悔を聞きながら、それでも前を歩いた。
セラがフィノの頭に手を置いた。
何も言わなかった。
フィノが目を丸くし、それからくしゃっと笑った。
ガルドが前を向いた。
「先に行くぞ」
いつもの声だった。
短くて、低くて、不愛想で。
だが、歩幅がさっきより広い。
僕は通路の先を見た。
壁の石が再び光を帯び始めている。
空気が柔らかい。
そして、微かに花の匂いがした。
通路の先に、花で飾られた場所が見える。




