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記憶の遺跡  作者: 智信
第二部
17/25

第17話 近衛の怨念

「守れなかった。誰も、何も、信じられなかった」

――近衛の広間に響く叫び

 広間に足を踏み入れた。


 通路とは比べものにならない広い空間だった。

 天井が高い。

 壁には大きな剣と盾の紋章が彫り込まれている。

 床は磨かれた石で、かつては衛兵の訓練にでも使われていたのだろうか。

 正面の奥に、さらに先へ続く道が見えた。

 だが、広間の中央に――それはいた。


(……怨念)


 広間の中心だけが暗かった。

 光る石はあるのに、そこだけ光が届いていない。

 その闇の中に、人影が立っていた。

 先ほどの近衛と同じ背格好。

 同じ剣を帯びた姿。

 だがあちらが光なら、こちらは闇だ。

 全身が怒りに震えている。


 先ほどの近衛に警告された通りだった。

 怒りと絶望になったもう半分が、ここにいる。


「来るわ」


 セラが盾を構えた瞬間、怨念の周囲が膨れ上がった。

 床から天井に届くほどの黒い影が広間を覆っていく。


 怨念が、叫んだ。


「来るなッ!」


 衝撃が広間を駆け抜けた。

 声だけで体が後ろに押される。

 従者の影とは次元が違う。

 影は扉の中に閉じ込められた感情だった。

 これは違う。

 剥き出しの怒りと絶望が、意志を持って暴れている。


 ガルドが前に出た。


 一言も発さず、剣を抜いた。

 両手剣の切っ先が怨念に向く。

 迷いのない構え。

 戦場を知る男の動きだった。


「お前たちは下がっていろ」


 低い声だった。

 番人の時とは違う。

 あの時ガルドは剣を抜かなかった。

 膝をつき、罪を差し出した。

 だが今は違う。

 怨念は対話を求めていない。

 その怒りと絶望でドス黒く染まった剣を抜き、力任せに振り下ろしてきた。


 ガルドが受け止めた。

 ガルドの剣と怨念の剣がぶつかり合う異質な金属音が広間に響く。

 ガルドの足が床を滑った。

 一歩後退。

 だが崩れない。

 歯を食いしばり、押し返す。


「セラ!」


「わかってる!」


 セラが盾を構え、聖術の祈りを唱えた。

 薄い光の壁がガルドの背後に広がる。

 防壁だ。

 僕とフィノを守る結界。

 セラの腕が震えている。

 怨念が放つ圧力は、従者の影の比ではなかった。


 ガルドが怨念と切り結んだ。

 二合、三合。

 打ち合うたびに火花が散った。

 ガルドの太刀筋は正確だった。

 怨念の剣を弾き、間合いを詰める。

 一歩も引かない。

 剣は確かに怨念に届いていた。


「守れなかった」


 怨念が吼えた。


 ガルドの剣が、止まった。


「守れなかった。誰も、何も、信じられなかった」


 怨念の叫びが広間を叩いた。

 怨念が膨れ上がる。

 ガルドが剣を構え直そうとしている。

 だが、腕が重い。

 一瞬だが、確かに動きが鈍った。


(……ガルド)


 番人の時を思い出した。

「命令に従った。それが罪だった」。

 あの言葉にガルドは凍りついた。

 そして番人の前に膝をつき、自らの過去を差し出した。

 今、怨念が叫んでいるのは別の言葉だ。

 「守れなかった」。命令に従った罪と、守れなかった罪。

 ガルドの中に、その両方がある。


 番人の前では膝をつけた。

 だが「守れなかった」の叫びには、剣を持ったまま凍りついている。

 こちらの傷のほうが深いのだ。


「信じた! 信じて仕えた!」


 怨念の叫びが続く。

 一言ごとに怨念が剣を力任せに振る。

 一撃が重い。

 振り下ろすたびに足元が揺れ、壁の紋章が震える。

 ガルドはそれを受け止めることしかできなかった。


「なのに奪われた!」


 ガルドが辛うじて受け止めた。

 だが衝撃に体が沈み、膝が崩れ始めている。

 剣の腕ではない。

 怨念の叫びが、ガルドの心を叩いている。


「フィノ!」


「……聞こえる。この人、ずっと叫んでる。守りたかった人を守れなかったって。信じていた人に裏切られたって。ずっと、ずっと」


 フィノが涙を流していた。

 怨念の感情を、まともに受け止めている。


「なぜだ、なぜなんだ!!」


 怨念の叫びが広間を震わせた。

 空気そのものが重くなる。

 セラの防壁が軋んだ。


 ガルドの膝が落ちた。

 このままでは持たない。


 何かしなければ。

 だが僕には剣がない。

 盾もない。

 フィノの魔法も、怒りの塊に効くかどうかわからない。


 無意識に鞄を探った。

 指先が手帳に触れた。

 その瞬間、あの聖典から書き写した一節が、頭に浮かんだ。

 僕は聖典の記述を断片的にしか読めていない。

 だが、一つだけ完全に読み解けた一節がある。

 番人にも届いた言葉。

 この遺跡の人々が遺した、祈りの言葉。


「『我らの罪を、いつか裁いてくれるように』!」


 叫んだ。

 声の限りに。


 怨念が、止まった。


 広間に沈黙が落ちた。

 振り上げた剣が空中で凍りついている。

 怨念の輪郭が大きく揺らいだ。

 聖典の言葉が、この遺跡に残る者たちに届く。

 番人に届いたように。


「裁いて……くれる……」


 怨念の声が変わった。

 怒りが消えたのではない。

 だが一瞬、その奥にあるものが透けた。

 怒りの下にあったのは、悲しみだった。


「あの方を……守りたかっただけだ……」


 声が震えていた。

 先ほどの近衛と同じ声だった。

 同じ人間の、同じ悲しみ。

 怨念の圧力が縮んでいく。

 広間を満たしていた重さが、中央に凝縮されていった。

 剣を構えたまま、そこに立っている。

 だが、振り下ろすことをやめていた。

 時折微かに震えている。

 あの震えは、怒りなのか。

 それとも泣いているのか。

 奥への道が、見えた。


「今のうちに!」


 セラが叫んだ。

 僕たちは怨念の脇を駆け抜けた。

 振り返る余裕はなかった。

 背中に、あの震えるような気配だけが張りついていた。

 広間を抜けた先の通路で、ようやく足を止めた。

 全員が肩で息をしている。

 背後から怨念が追ってくる気配はなかった。


---


 ガルドが通路の前後を確認し、剣を鞘に収めた。

 それから片膝をつき、額の汗を拭った。

 セラが駆け寄った。


「……怪我はないか」


「ああ」


 ガルドの声は平静だった。

 だが剣を鞘に収めた後も、その手が震えていた。

 握り締めていた柄の跡が、その掌に白く残っていた。


 僕はガルドの横顔を見つめた。

 番人の時、ガルドは「命令に従った罪」に向き合った。

 膝をつき、自らの過去を差し出し、番人を解放した。

 今度は「守れなかった罪」だ。

 ガルドの過去に何があったのか、僕はまだ詳しく知らない。

 だが、この遺跡が突きつけてくるものが、ことごとくガルドの古傷に触れている。


(……この近衛は、あの方を愛して、守れなかった者だ)


 先ほどの近衛は穏やかだった。

 悲しみを受け入れ、次に守る者が現れることを祈っていた。

 だが怨念は違う。

 受け入れられなかった悔恨が、怒りと絶望になって残っている。

 同じ人間の、同じ想いの、別の姿だ。

 愛していたから守りたかった。

 信じて仕えたのに裏切られた。

 そして壊れた。


 フィノが涙を拭い、広間の方を振り返った。

 怨念を見つめている。


「……まだ震えているよ。追いかけてはこないみたい」


 静かだ。

 この怨念は、鎮まっただけで、まだそこにいる。

 僕は手帳に記録した。


『近衛の広間にて怨念と遭遇。通路の近衛の警告通り、もう半分が出現。怒りと絶望の塊。暴力的に襲いかかる。ガルドが迎撃するも、「守れなかった」の叫びに動きが鈍る。番人は「命令に従った罪」、怨念は「守れなかった罪」――ガルドの中にその両方がある。聖典の一節を叫んだところ、怨念が一時停止。完全には鎮まらないが、道が開いた。怨念は広間の隅に留まっている』


 手帳を閉じた。


 ガルドが立ち上がった。

 表情は読めない。

 いつもの寡黙な顔だ。

 だがその目だけが、まだ広間の方を向いていた。


「……先に行くぞ」


 ガルドがそう言って、通路の奥へ歩き出した。

 いつもと同じ歩幅。

 いつもと同じ背中。

 だが僕には、その背中がいつもより少しだけ重く見えた。

 あの怨念の叫びを、ガルドはまだ背負っている。


 セラが黙ってその後に続いた。

 フィノが僕の隣に並び、小さく、長く息を吐いた。

 そして、僕たちも、歩き出した。

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