第15話 従者の影
「お嬢様は私のもの。誰にも渡さない」
――扉の奥から聞こえた声
セラが扉を押した。
重い音を立てて、扉が開く。
最初に感じたのは冷たさだった。
通路の空気とは明らかに違う。
湿り気を含んだ冷気が、肌を撫でるように流れてくる。
(……幻視で見た部屋と、同じはずなのに)
さっきまで見ていた温かな光景が、嘘のようだった。
同じ扉の向こう側なのに、空気がまるで違う。
「……入るわよ」
セラが盾を構え、先頭を切った。
僕とフィノが続き、ガルドが最後尾につく。
部屋の中は暗かった。
光る石はあるが、ほとんど光を失っている。
目が慣れてくると、幻視で見た光景と重なった。
机と椅子。
壁に掛かった仕立ての道具。
棚の布地と糸巻き。
同じ部屋だ。
従者が衣を畳み、花を活けていた場所。
配置は幻視のままだった。
だが花瓶は空だった。
机の上に布はない。
幻視で見た従者の日常の温もりは、ここには残っていない。
幻視の中では光る石が柔らかい明かりを落とし、従者の手元を照らしていた。
今この部屋にあるのは、冷たい暗がりだけだ。
「レイン」
フィノが僕の袖を引いた。
声が硬い。
「……何かいる」
部屋の奥。
机の向こう側。
暗がりの中に、何かが蠢いていた。
影だった。
壁に張り付くように佇む黒い人影。
輪郭がゆらゆらと揺れている。
人の形をしているが、顔はない。
この影を構成しているのは光ではなく、凝縮された闇だった。
部屋の冷たさの源は、これだった。
影が、こちらを向いた。
フィノが息を呑んだ。
セラが一歩前に出て、盾を構えた。
「――出て行け」
声が部屋中に響いた。
低い。
押し殺したような声だが、怒りが滲んでいる。
「ここは私の場所だ。お前たちに見せるものは何もない。出て行け」
セラの盾が微かに鳴った。
ガルドが剣の柄に手をかけた。
「お前たちに何がわかる」
影が一歩、前に出た。
暗がりから滲み出すように。
「私は尽くした。誰よりもお嬢様のそばにいた。誰よりもお嬢様のことを思っていた」
声が震えている。
怒りだけではない。
別の何かが混じっている。
「朝、衣を整えた。花を選んだ。お嬢様が好む花を、誰よりも知っていた。茶を淹れた。杯を差し出した。お嬢様が微笑んでくれた。それだけでよかった。それだけで……」
影の声が揺らいだ。
一瞬だけ、怒りが消え、別のものが透けて見えた。
「なのに――」
また怒りが戻った。
前よりも強い。
「あの男が来た。あの男がお嬢様のそばにいるようになった。お嬢様はあの男に笑いかけた。私に向けるよりも深い微笑みを」
影の輪郭が膨れ上がった。
「お嬢様の微笑みは私だけのもの」
冷気が一気に強まる。
「お嬢様は私のもの。誰にも渡さない」
叫びだった。
部屋が震える。
棚の糸巻きが転がり落ち、机の上の道具がかたかたと鳴った。
(……これが、あの苦しみの正体か)
幻視の最後に見た従者の横顔が蘇った。
白い衣の人と並んで歩くもう一人。
唇を引き結び、苦しみを宿した目。
扉の外に刻まれた誓い。「お嬢様の幸せが、私の幸せです」。
あれは嘘ではなかった。
映像の中の献身に偽りはなかった。
だが、この部屋の中に閉じ込めていたものがある。
扉の外では決して見せなかった感情。
「これは……愛じゃない」
フィノが呟いた。
影を見つめたまま、声が震えている。
「嫉妬だよ。この人の中にあったのは……お嬢様を独り占めにしたいっていう気持ち。それが歪んで、こうなった」
フィノの言葉に、影が反応した。
輪郭が激しく揺れる。
影がフィノに向かって腕を伸ばした。
「黙れ!」
叫びと同時に、冷気が膨れ上がり、部屋全体を満たした。
息が白くなる。
「下がれ!」
セラが前に出た。
盾を構え、冷気の奔流を受け止める。
盾の表面に霜が張った。
セラの腕が震えたが、足は退かない。
フィノとガルドと僕を背中で庇っている。
「退くわよ! この部屋から出なさい!」
ガルドがフィノの腕を掴み、扉へ向かって引いた。
僕も弾かれたように走った。
セラが最後尾で盾を構えたまま後退する。
影が追ってくる。
暗がりが廊下にまで伸びてきた。
だが――扉の枠のところで、影は止まった。
伸ばした腕が、見えない壁に阻まれたかのように止まっている。
扉の外には出られないのだ。
この感情は、この部屋に閉じ込められている。
従者自身がそうしたように。
影が叫んだ。
言葉にならない声だった。
怒りなのか悲しみなのか、もう区別がつかない。
扉の枠に両手を突いて、外に出ようともがいているように見えた。
だが出られない。
この感情は、ここから出ることを許されていない。
僕たちが通路に出ると、影の姿が薄れ始めた。
冷気が引いていく。
影が部屋の奥へ退いていく。
最後に一度だけ、こちらを見た気がした。
あの目のない顔が、何かを訴えていた。
やがて暗がりに溶け、見えなくなった。
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セラが盾を下ろした。
霜に覆われた盾の表面が、ゆっくりと溶け始めている。
「……大丈夫か」
ガルドがセラに声をかけた。
「ええ。大丈夫」
セラが息をついた。
腕がまだ震えている。
番人の呪詛とは違った。
番人は贖罪の意志だった。
だがあの影には個人の感情がある。
怒りがあり、悲しみがあり、剥き出しの嫉妬がある。
内郭に入ってから、遺跡に残るものの質が変わっている。
フィノはガルドに腕を掴まれたまま、扉の向こうを見つめていた。
「……あの人、ずっとあそこに閉じ込めてたんだ」
フィノの声が小さい。
「自分の本当の気持ちを。あの部屋の中に」
扉の外は誓い。
扉の中は影。
この従者は、献身の裏側に押し殺し続けた想いを抱えていた。
あの部屋は仕事場だった。
毎日聖女のために衣を整え、花を活け、茶を準備する場所。
その同じ場所に、見せてはいけない感情を閉じ込めていた。
影の声が蘇る。「あの男が来た」。
あの男。
幻視の最後に見えた、聖女と並んで歩いていた人物。
護衛兵の部屋でリングを見つけた。
渡せなかったという想いが残る指輪。
あれは――
(……あの部屋の主だ。従者が「あの男」と呼んだのは、指輪を渡せなかったあの人物のことだ)
聖女とあの部屋の主。
二人が近づいたことで、従者の想いは行き場を失った。
「お嬢様の幸せが、私の幸せです」と誓いながら、その幸せの中に自分がいないことに耐えられなかった。
僕は手帳に記録した。
『従者の部屋に進入。内部にて影が出現。影は従者の抑圧された感情が実体化したもの。フィノの見立てでは「愛ではなく嫉妬と独占欲」。影は扉の外には出られなかった。扉の外に誓い、扉の内に影――この構造が従者の内面を映している。幻視の最後に見えた苦痛の表情は、聖女の隣にいた人物への嫉妬と推定。従者は聖女を慕っていた。献身として見せた誓いの裏に、恋慕の情があった』
手帳を閉じた。
扉は開いたまま、その奥は暗い。
もう影の気配はない。
だが影が叫んだ言葉が、まだ耳の奥に残っていた。
「お嬢様の微笑みは私だけのもの。誰にも渡さない」
(……従者は、あの聖女に恋をしていたのか)
誓いだけなら、あの影は生まれなかった。
「お嬢様の幸せが、私の幸せです」。それだけで済んでいたなら、この部屋の中にあんなものは残らなかった。
だが、済まなかったのだ。
あの部屋の中にいた影が、その証拠だった。
扉の外で見た従者と、扉の中で見た影。
同じ人間の、表と裏。
献身と嫉妬。
どちらも本当の姿だったのだ。
「……先に進もう」
セラが立ち上がり、通路の奥を見据えた。
フィノが扉を一度だけ振り返った。
何かを言いかけて、やめた。
小さく首を振り、前を向いた。
僕たちは、通路の奥へ歩き出した。




