表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
記憶の遺跡  作者: 智信
第二部
14/25

第14話 従者の誓い

「お嬢様の幸せが、私の幸せです」

――控室の扉に刻まれた文字

 鞄からロザリオを取り出した。

 手のひらの上で、まだ震えている。


 フィノが指した方向へ歩いた。

 脇道のさらに奥へ。

 天井は低く、壁の光る石はまばらだ。

 一歩進むごとに、手のひらの上のロザリオの震えが強くなっていく。

 近づいている。

 奥に進むにつれ、通路が狭くなっていく。

 両側の壁がわずかに迫ってくるような感覚。

 セラが無言で盾を下ろし、片手を壁に添えた。

 ガルドは肩を微かに縮めて先を窺っている。


 だがフィノだけは違った。

 足取りに迷いがない。

 まっすぐに通路の奥を見つめて歩いている。

 何かに引かれるように。


 通路の突き当たりに、扉があった。


 ロザリオの震えがさらに強くなった。

 指先が痺れるほどに。


「ここだね」


 フィノが扉の前で立ち止まった。


 木の扉だった。

 護衛兵の部屋の扉と造りは似ている。

 だが一つだけ違うものがあった。

 表面に文字が刻まれている。

 古代文字だ。

 護衛兵の部屋にはなかった。

 自室の扉にわざわざ文字を刻んだ者がいる。

 養父の手帳に書き写しがある語彙の範囲で、読めた。


「お嬢様の幸せが、私の幸せです」


 声に出した瞬間、ロザリオの震えが止まった。

 そして、扉が光った。


 刻まれた文字の一つ一つが淡い光を帯び、扉全体が柔らかく輝き始める。

 ロザリオと扉が呼応しているのだ。

 光が溢れた。

 扉から通路へ、僕たちを包むように広がっていく。

 足元まで光が這い、壁の石までが微かに輝いた。


 映像が重なった。

 泉で見た時と同じだ。

 目を閉じてはいない。

 通路に立ったまま、視界に別の光景が浮かび上がる。


 だが、泉の幻視とは質が違った。

 泉が見せたのは場所の記憶だった。

 あの泉のほとりに刻まれた風景。

 今度は違う。

 ロザリオと扉が呼び起こしたのは、一人の人間の記憶だ。


---


 小さな部屋が見えた。

 質素な机と椅子。

 壁に掛かった仕立ての道具。

 棚に布地と糸巻きが並んでいる。

 窓はなく、光る石が柔らかい明かりを落としている。


 一人の人物が、机に向かっていた。


 顔は見えない。

 泉の幻視と同じで、輪郭は鮮明なのに顔だけがぼやけている。

 だが手の動きは見えた。

 白い布を丁寧に畳んでいる。

 皺を一つずつ伸ばし、折り目を整え、また広げて、また畳む。

 何度も繰り返す。

 完璧になるまで。


 場面が変わった。

 花を活けている。

 庭園にも咲いていた、あの白い花だ。

 一本ずつ長さを揃え、花瓶に差していく。

 花に触れる指先が壊れ物を扱うように慎重で、けれどどこか嬉しそうだった。


 また変わった。

 廊下を歩いている。

 小さな手押しの台車を押している。

 台車の上に茶器が並んでいる。

 足取りが軽い。

 急いでいるわけではないが、逸る心を抑えているのがわかった。


 扉の前で立ち止まった。

 一つ深呼吸。

 姿勢を正す。

 控えめに扉を叩く。

 扉の向こうに、光が満ちていた。


 白い衣の人がいた。

 泉のほとりで見た人と同じ人だ。

 窓辺に座り、花を手にしている。

 この人物は台車を傍に寄せ、卓の上に茶器を一つずつ並べていく。

 湯を注ぎ、杯を差し出す。

 その手つきに淀みがなかった。


(……従者だ)


 衣を畳み、花を活け、茶を淹れる。

 すべてがこの人のための仕事だった。


 白い衣の人が杯を受け取り、何か言った。

 声は聞こえない。

 だが口元が動いているのがわかった。


 そして――微笑んだ。


 泉で見たのと同じ、穏やかな微笑み。


 従者が深く頭を下げた。

 下げたまま、しばらく動かなかった。

 頭を上げた時、肩が微かに揺れていた。

 嬉しいのだ。

 あの人の微笑み一つで、この人の一日が満たされている。


(「お嬢様の幸せが、私の幸せです」)


 あの碑文が映像と重なる。

 この従者は毎日ここにいたのだ。

 あの小さな部屋で衣を畳み、花を活け、茶を淹れ、あの人のもとに通い続けた。

 ロザリオに触れた時は感覚だった。

 匂い、温もり、祈りの気配。

 それが今、映像になっている。

 感じていたものが、こうして姿を持って目の前にある。


 場面がまた変わった。


 暗い部屋。

 膝をつき、祈っている。

 燭台の火。


(……祈りの部屋だ)


 外郭のあの小さな部屋だ。

 ロザリオを手に、額がつくほど深く頭を下げている。

 長い間、動かない。

 燭台の炎が揺れるたびに、従者の影が壁に伸びたり縮んだりしていた。


 お嬢様が今日も笑っていますように。

 お嬢様の泉が、いつまでも澄んでいますように。


 ロザリオに触れた時に感覚で受け取った祈りが、今は映像として見えていた。

 声は聞こえないのに、祈りの中身がわかる。

 同じ人物の、同じ祈り。

 毎日同じ場所で、同じ言葉を、繰り返していたのだ。


 この人にとって、あの人の笑顔がすべてだったのだ。


 映像が薄れ始めた。

 最後の場面。


 廊下を歩く従者の後ろ姿。

 いつもの足取り。

 その前方に、二人の人影があった。

 白い衣の人と、もう一人。

 並んで歩いている。

 二人の距離が近い。


 従者の足が、一瞬だけ止まった。

 そして、また歩き出した。

 何事もなかったかのように。


 だが映像が消える直前、従者の横顔が見えた。

 唇を引き結んでいる。


 その目に、苦しみが宿っていた。


---


 光が引いた。

 扉の文字から輝きが消え、通路が元の薄暗さに戻る。

 しばらく、誰も動けなかった。


「……全員、見えたか」


 掠れた声だった。

 セラが静かに頷いた。

 目の縁が赤い。


「……立派な人ね」


 セラの声が低い。

 セラは騎士団にいた。

 見習いとはいえ、誰かに仕え、誰かを守る生き方を知っている。

 だからこそ、この従者の献身の重さがわかるのだろう。


 ガルドも腕を組んだまま頷いた。

 言葉はない。

 だが、いつもより目を伏せている。

 ちらりとフィノを見た。

 フィノがゆっくりと扉に手を伸ばし、片手を置いた。

 目を閉じている。


(……泉の時と同じだ。四人全員に見えている)


 泉の幻視は、泉の力だと思った。

 だが今回はロザリオと扉の共鳴で起きた現象だ。

 泉から遠く離れたこの場所で、なぜ全員に見える。

 偶然か。

 それとも、何か別の理由があるのか。


 フィノが目を開けた。

 いつの間にか涙の跡があった。


「……この人、毎日ここで準備してたんだね」


 フィノの声が震えている。


「ああ」


 毎日。

 衣を畳み、花を活け、茶を淹れ、祈りを捧げていた。

 あの人の笑顔のために。

 それだけのために。


「最後に……二人、見えたよね」


 フィノが小さな声で言った。


「白い服の人と、もう一人……」


「見えたわ」


 セラが頷いた。


(……やはり、全員に見えていたのか)


 白い衣の人と並んで歩くもう一人。

 従者の足が止まった瞬間。

 あの目。

 従者は聖女の幸せを願っていた。

 それは本当だ。

 映像の中の献身には嘘がなかった。

 だが最後の一瞬――


(……あの苦しみは、何だったんだ)


 もう一人が誰なのかはわからない。

 だが、並んで歩く二人を見た時の従者の表情が、それまでの穏やかな献身とあまりにも違っていた。

 答えは出なかった。


 僕は手帳に記録した。


『内郭奥の扉にて幻視発生。碑文の内容と幻視から、従者の部屋と推定。ロザリオが碑文に呼応し、従者の記憶が映像として出現。献身の日常――衣の手入れ、花の世話、給仕、祈り。泉の場所の記憶とは異なり、遺物を介した個人の記憶。四人全員が視認。泉以外で共有幻視が起きたのは初。幻視の最後に従者が二人の人影を見つめる場面あり。表情に苦痛の色。献身の奥に別の感情が存在する可能性』


 手帳を閉じ、扉を見つめた。

 碑文は光を失い、ただの刻み跡に戻っている。

 だが今はこの一行が何を意味するのか、さっきまでよりずっと深くわかる。

 「お嬢様の幸せが、私の幸せです」。この従者がすべてを賭けた誓い。

 だがその誓いの奥に、あの苦しみの目があった。


「……中に、入る?」


 フィノが扉に手を置いたまま、こちらを見た。


 幻視は扉の外で起きた。

 碑文に刻まれた誓いが見せた記憶。

 ならば扉の向こうには、この従者の別の何かが残っているかもしれない。


「入ろう」


 セラが扉に手をかけた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ