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記憶の遺跡 ― 失われた王国  作者: 智信
第二部

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第13話 泉の記憶

「あの子の泉を、汚さないで」

――泉のほとりで聞いた声

 ソレに導かれるまま、僕たちは来た道を戻った。


 護衛兵の部屋を出て、細い脇道を通り、本道に合流する。

 藍色の通路を封印の扉に向かって歩く。

 天井の星のような光が、行きと同じように足元を照らしていた。

 ソレは僕たちの少し前を飛んでいた。

 手のひらほどの小さな姿。

 振り返りもせず、まっすぐに進んでいく。

 フィノだけが、その軌跡を目で追い続けていた。


 封印の扉は開いたままだった。

 「一度開いた者を、もう拒まない」。ソレの言った通りだ。

 扉の前を通り過ぎた時、行きに感じた冷たい風はなかった。

 内郭の空気の重さも和らいでいる。


 灰色の石畳に足が触れた。

 通路を抜け、庭園に出る。

 空が見えた。

 白い花が風に揺れている。

 噴水の水音が近づいてくる。

 ここまで戻ってきたのだ。


 ソレがここに来て初めて立ち止まった。

 小さな体が微かに震え、光の粒が溢れ出しそうなほどに全身が輝いていた。


「……泉の方を見てる」


 フィノが呟いた。


 ソレは花壇の上を滑るように飛び始めた。

 白い花の間を縫って、奥へ。

 僕たちが最初に泉を見つけた時に辿ったのと同じ道だ。

 泉が見えた。


 透明な水。

 波紋ひとつない鏡のような水面。

 水底から湧く青白い光。

 昨日と何も変わっていない。

 だが、空気が違った。

 前回は近づくだけで花の匂いに頭が満たされ、泣いている気配に引きずり込まれそうになった。

 今はそれがない。

 匂いも気配もあるのだが、圧倒されないのだ。

 ソレが傍にいるだけで、泉の感情の奔流が穏やかになっているかのようだった。


 碑文の続きを読みたかった。

 岩肌に近づこうと一歩踏み出した時――


 ソレが振り返った。


 小さな体が、僕たちの前に立ちはだかる。


「あの子の泉を、汚さないで」


 声は静かだが、有無を言わせない響きがあった。

 泉を守るものの声だ。

 以前フィノが「何かがこの泉を守ってる」と言ったのは、この存在のことだったのか。


「汚すつもりはない」


 僕は答えた。

 ソレはしばらく僕に顔を向けていた。


「……お前は嘘をついていないね」


 ソレがゆっくりと体の位置を下げ、水面のすぐ上に浮かんだ。

 泉の光に照らされて、その輪郭が水面に映っている。


「あたしは知ってるよ、あんたのこと」


 フィノが一歩前に出た。

 目が潤んでいたが、声はしっかりしていた。


「あたしの中にあんたたちの血が流れてるって言った。なら、あんたは……あたしのご先祖の仲間?」


 ソレが水面の上でゆらりと揺れた。


「仲間ではない。私はこの泉から生まれた。あの子の祝福が、この水に宿った時に」


 あの子の祝福。

 泉の碑文が頭に浮かんだ。「この水だけが、あの頃のまま」。


「私は妖精。この泉が生きている限り、ここにいる」


 妖精。

 養父の手帳に記載があった。

 聖なる場所に宿る存在。

 現代ではその名を知る者すらほとんどいない。


(……妖精が、目の前にいる)


 ソレは――妖精は、フィノの顔を見上げた。


「お前の先祖は、この泉のそばで暮らしていた。あの子に仕え、あの子を慕い、ここで水を汲み、花を世話し、祈りを捧げていた。やがてこの地を去り、遠い土地で血を繋いだ。私たちの力は薄まりながら、お前に届いた」


 フィノが自分の手を見つめた。

 光と水と風を操る手。

 誰にも教わらなかった力。


「あたしが水辺で落ち着くのも……」


「そう。この泉の記憶が、お前の血の中に残っている」


 フィノの目から涙が溢れた。

 今度は泣いている自覚があるようだった。

 拭おうとして、やめた。

 セラがフィノの肩に手を置いた。

 何も言わない。

 ただ、そばにいた。


「……水に触れてもいい?」


 フィノが聞いた。

 声が震えていた。


 妖精が水面を見下ろした。

 長い間があった。


「あの子は、お前のような子を愛した。この血を持つ者を」


 それは許可だった。

 フィノが泉に近づいた。

 膝をつき、ゆっくりと手を伸ばす。

 セラが見守っている。

 ガルドも動かない。

 僕も息を止めていた。


 フィノの指先が、水面に触れた。


 波紋が広がった。


 泉の底から光が湧き上がり、水全体が輝き始める。

 光は水面を越え、周囲の岩を、花を、空気を満たしていく。

 僕たちの体を包み込んで、泉のほとり一帯が淡い青白い光に染まった。

 そして――映像が見えた。


 目を閉じているわけではない。

 泉のほとりに立ったまま、僕たちの目の前に別の風景が重なっている。

 泉だった。

 同じ泉。

 同じ水面。

 同じ白い花。

 だが光がもっと溢れている。

 水底の輝きがもっと強い。

 空がもっと澄んでいる。

 これは今ではない。

 遠い過去の泉だ。


 泉のほとりに、一人の人影があった。


 石の腰掛けに座り、水面を見つめている。

 白い衣の裾が風に揺れていた。

 顔は見えない。

 だが花を手にしていた。

 あの白い花。

 花弁を指先で撫でている。

 慈しむように。


 そして、微笑んでいた。


 顔は見えないのに、微笑んでいることがわかった。

 体全体から穏やかな空気が立ち昇っている。

 この泉のほとりで、この花を手にして、この人は幸せだった。

 映像が消えた。

 光が引いていく。

 泉の水面が静まり、元の透明さを取り戻した。


 フィノの手が水面から離れていた。

 四人とも、言葉が出なかった。


 これは泉に漂っていた匂いや気配とは違う。

 映像だ。

 過去を映し出す光景。

 宝玉に手を近づけた時に一瞬だけ見えた玉座の幻とも違う。

 もっと長く、もっと鮮明で、もっと温かかった。

 この泉に、この人の記憶が残っている。

 何千年も。

 あの頃のまま。


「……見えた?」


 フィノが振り返った。


「ああ。全員、見えた」


 セラが頷いた。

 目の縁が赤い。

 ガルドも無言で頷いていた。


 妖精が水面のそばでゆらりと揺れた。


「この先に進むなら、あの子への想いを持っていきなさい」


「想い?」


「祈りの品。権力の証。お前たちはもう見つけている。持っていきなさい。あの子に触れた者たちの声を聞くために」


 ロザリオ。

 燭台。

 宝玉。

 外郭で見つけた遺物たちのことだ。


 妖精がゆっくりと水面に降りていった。

 光が水に溶けるように、輪郭が薄くなっていく。


「あの子を……お願い……」


 声が遠くなる。

 水の中に還っていく。

 小さな光の粒が水面に散り、泉の光に混ざって消えた。

 フィノが水面に手を伸ばしかけて、途中で止めた。


「……また来る」


 小さな声だった。

 届いたかどうかはわからない。

 泉は静かだった。

 水底の光は変わらず輝いている。

 妖精の姿はもう見えない。


 僕は手帳に記録した。


『泉にて妖精と対話。妖精は泉の祝福から生まれた存在。フィノの先祖は泉のそばで聖女に仕えていた者の末裔。妖精の許しを得てフィノが水面に触れたところ、過去の映像が出現――泉のほとりで花を手にする人物の幻視。全員が同時に視認。泉に残る記憶が映像として再生されたものと推定。妖精は「あの子が遺したものを持っていけ」と告げ、泉に還った。外郭の遺物を回収し内郭探索に持ち込む方針』


---


 外郭を回った。


 まず祈りの部屋へ。

 聖堂の奥のあの小さな部屋は、前回来た時のままだった。

 棚の上のロザリオ。

 壁際の燭台。

 床に残る膝の跡。

 ロザリオを手に取った時、僕は息を呑んだ。


 前回触れた時は何も感じなかった。

 手の温もりが木に残っているような気がしただけだった。

 だが今は違う。

 手のひらに乗せた瞬間、感覚が流れ込んできた。


 膝をつく人の姿。

 燭台の火。

 繰り返される祈り。


(「お嬢様」……)


 お嬢様の幸せを。

 お嬢様が今日も笑っていますように。

 お嬢様の泉が、いつまでも澄んでいますように。

 声は聞こえない。

 だが祈りの内容が感覚として伝わってくる。

 以前とは比べものにならないほど鮮明だった。

 妖精と出会い、泉で幻視を経た後で、僕の感覚が変わったのか。


 妖精が「あの子」と呼ぶ人を、この人は「お嬢様」と呼んでいた。

 同じ人だ。

 もう疑いようがなかった。


 ロザリオと燭台を鞄に収めた。

 次に宝物庫へ向かい、台座から宝玉を持ち上げた。

 一瞬、あの玉座の幻がよぎる。

 震える肩。

 それだけだった。


「全部揃ったわね」


 セラが言った。


「ああ。戻ろう」


---


 封印の扉を再び越え、内郭に入った。


 藍色の通路。

 天井の星。

 花の匂い。

 すべて行きと同じだ。

 だが鞄の中には外郭から持ち出した遺物が収まっている。

 歩きながら鞄に手を当てた。

 微かに、温かい。

 ロザリオも、燭台も、宝玉も。

 それぞれが異なる感情を帯びている。

 別々の人間の、別々の想い。

 だがすべてが同じ場所を、同じ人を巡って繋がっていた。


 通路を進んだ時、鞄の中で何かが揺れた。


 僕は立ち止まった。

 それはロザリオだった。

 手で触れたわけでもない。

 なのに鞄の中でロザリオが微かに震えていた。


「レイン?」


「ロザリオが反応している」


 フィノが鞄に手を近づけ、目を閉じた。


「……呼んでる。この先の何かに」


 フィノの指が、通路の奥を指した。

 私室エリアの脇道が見える。

 護衛兵の部屋を過ぎた、さらにその先。

 ロザリオが、行き先を示していた。

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