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記憶の遺跡  作者: 智信
第二部
12/25

第12話 銀色のリング

「渡せなかった。永遠に」

――小箱の内側に刻まれた文字

 花の匂いを辿るように、僕たちは藍色の通路を進んだ。


 天井の光る石が星空のように広がり、足音が石壁に反響する。

 外郭とは空気そのものが違っていた。

 フィノの言葉を借りるなら「感情の痕跡が濃い」。

 それは僕にさえ感じ取れた。

 壁が、床が、空気が、何かを訴えようとしている。

 封印の扉一枚を隔てただけで、これほど変わるものなのか。

 外郭が遺跡の「表」だとすれば、ここは「奥」だ。

 誰かの暮らしの気配が、石の隅々にまで染みついている。


 壁面の装飾が変わっていく。

 外郭では控えめだった花のレリーフが、ここでは通路全体を覆うように彫り込まれていた。

 見覚えのある花だ。

 庭園に咲いていたあの白い花。

 同じ意匠が壁一面に広がっている。

 彫りの一つ一つが丁寧だった。

 一輪ずつ、花弁の重なりまで正確に刻まれている。

 単なる装飾ではない。

 これを刻んだ人間にとって、この花には意味があったのだ。


(……この花は、よほど大切にされていたんだな)


 通路が緩やかに曲がった先で、右手に細い脇道が見えた。

 本道より一段狭く、天井も低い。

 覗き込むと、その両側に木製の扉が並んでいた。

 外郭の聖堂や祈りの部屋とは造りが違う。

 もっと個人的な空間だ。


「人が住んでいた場所ね」


 セラが先頭で最初の部屋を確認し、安全を確かめてから僕たちを招き入れた。

 石の寝台、壁の棚。

 生活の跡。

 二つ目も似た造り。

 三つ目も。

 家具も調度品も、何千年も前のものとは思えないほど形を保っている。

 寝台の上には毛布のようなものが畳まれたまま残っていた。

 この遺跡の中では、時間さえも止まっているかのようだ。

 部屋の数が気になった。

 少なくとも数人が、ここで暮らしていたことになる。

 それは祈りの部屋で燭台を灯した人間であったり、そして――まだ僕たちが知らない誰かであったり。


 四つ目の部屋に入った時、僕の足が止まった。


 他の部屋より少し広い。

 壁に剣を掛けていたらしい金具が二つ。

 鎧を置いていたであろう石の台。

 右の壁には小さな棚が設えてあり、書物か何かが置かれていた痕跡がある。

 護衛か、兵士の部屋だ。

 戦う人間の部屋なのに、ここにも壁の花の意匠がある。

 武骨な部屋と繊細な花の取り合わせが、妙に切なかった。


 石の寝台の脇に、小さな箱が置かれていた。


 手のひらに収まるほどの木箱。

 不思議なほど形を保っている。

 蓋に装飾はない。

 だが手に取ればわかった。

 丁寧に、大切に作られた箱だった。

 木目が滑らかに磨かれていて、何度も手で触れられた跡がある。

 この箱の持ち主は、これを頻繁に手に取っていたのだろう。

 開けては、閉じ、また開ける。

 そういう類の箱だ。


 蓋を開けた。


 中に、銀色のリングが一つ。


 華美ではない。

 だが繊細な細工が施されている。

 手に取って内側を覗くと、何か刻まれていた。

 古代文字だ。

 セラに燭台を近づけてもらったが、刻みが細かすぎて読み取れない。


(……後で手帳に写して解読しよう)


 箱の内側にも文字があった。

 こちらは大きく、はっきりと読めた。


『渡せなかった。永遠に』


 指先が震えた。


 リングに触れていた手から、感情が流れ込んでくる。

 泉の時と同じだ。

 だがあの時のような悲しみではない。


 切なさだった。


 胸を押し潰すような、息ができなくなるような。

 泉で感じた悲しみは遠くから漂ってくるものだったが、これは違う。

 もっと近い。

 もっと生々しい。

 一人の人間の、剥き出しの感情だ。

 渡したかった。

 この指輪を、あの人に。

 でも渡せなかった。

 もう二度と――


「っ……」


 リングから手を離した。

 額を押さえる。

 息が荒い。


「レイン!」


 フィノの声が近い。


「大丈夫だ……」


 息を整えてから続けた。


「この指輪を持っていた人の感情が、流れ込んできた」


「婚約の指輪じゃないかしら」


 セラが静かに言った。

 僕もそう思った。

 細い銀の輪、繊細な細工、内側の刻印。

 装飾品ではなく、誰かに贈るためだけに作られた指輪だ。

 渡せなかった指輪。

 この部屋の主は、誰かを愛していた。

 想いを伝えられないまま、この箱をここに残した。

 箱の磨り減った跡。

 何度も手に取っていた理由が、今はわかる。

 この人はずっと迷っていたのだ。

 渡すべきか、渡さざるべきか。

 そしてついに、渡せないまま終わった。


(……誰に、渡したかったんだ)


 リングを箱に戻し、手帳を開いた。


 手帳に記録した。


『内郭の私室エリアにて、護衛兵と思しき部屋を発見。寝台脇の小箱に銀色のリングを確認。内側に古代文字の刻印あり(解読不能、要書き写し)。箱の内側に「渡せなかった。永遠に」の文字。リングに触れた際、泉と同様に感情が流れ込む現象を確認。切なさ――渡したかったが渡せなかったという強い感情。婚約の指輪と推測』


 記録を終え、手帳を閉じた。

 文字にすれば事実の羅列だが、あの感情の奔流は文字では捉えきれない。

 改めて部屋を見回した。


 壁の花の意匠。

 武骨な兵士の部屋に刻まれた、繊細な花。

 外郭の通路にも庭園にも咲いていた、あの白い花だ。

 この部屋の主が自分で刻んだのか、それとも誰かがこの部屋のために刻んだのか。


「この部屋にも花がある」


 ガルドが壁を見ていた。

 珍しく、自分から口を開いた。


「兵士の部屋に花か」


 それだけ言って、黙った。

 ガルドらしい。

 だが、その短い言葉に込められた意味は僕にもわかった。

 渡せなかった指輪と、壁一面の花。

 この部屋の主は、戦う人間でありながら、誰かを深く想っていた。

 その想いは指輪に閉じ込められ、何千年もこの部屋で眠っていた。

 僕が箱を開けるまで。


 フィノが、ずっと黙っていた。


 僕たちが部屋を調べている間、フィノは入口の近くに立ったまま動かない。

 いつもなら真っ先に「ここ、何か感じる」と声を上げるのに。

 目を閉じて、何かに耳を澄ませるような姿勢をしていた。

 内郭に入ってから、フィノの様子はどこかおかしかった。

 外郭では感覚が活性化するたびに嬉しそうにしていたのに、ここでは口数が少ない。

 何かを感じすぎているのか、それとも――何か別のものが、フィノに触れているのか。


「フィノ?」


「……ねぇ、それ」


 フィノの目が小箱に向いていた。


「触ってもいい?」


 何かを感じているのだろうか。

 フィノの勘は、これまで何度も正しかった。

 泉で最初に「泣いてる」と言ったのもフィノだ。

 僕が感じ取れないものを、フィノは感じ取る。

 僕は小箱からリングを取り出し、フィノに差し出した。

 フィノの手が伸びてくる。

 その指先がかすかに震えているのが見えた。


 フィノの指がリングに触れた瞬間――部屋の空気が変わった。


 リングから光が零れ出した。

 淡い青白い光。

 それだけではない。

 部屋の隅から、壁と床の隙間から、天井の星のような光る石から、小さな光の粒が次々に浮かび上がっていく。

 部屋全体が呼応するように輝き始めた。


 セラが盾を構えた。

 ガルドの手が剣の柄にかかる。

 僕も後ずさりかけた。

 だがフィノは動かない。

 リングを握ったまま、立ち尽くしている。


 光の粒が一点に集まり、形を成していく。

 手のひらほどの大きさの、透き通った姿。

 羽のような、光のような、水のような。


 僕たちの知らない生き物が、この部屋に現れた。


 セラが盾を構えた。

 ガルドが僕たちの前に出た。

 だがソレは僕たちには目もくれなかった。

 セラの盾の横を回り込み、ガルドの頭上を越え、まっすぐフィノの前へ飛んでいき――ぴたりと、止まった。


 フィノも凍りついていた。

 リングを握ったまま、息すら止めている。

 見たことのない表情だった。

 驚きでも恐怖でもない。

 何かを思い出しかけているような、遠い目。


 ソレがゆっくりとフィノに近づいていく。

 フィノは動かなかった。

 逃げないのではない。

 動く必要がないと、体が知っているように見えた。


 フィノの頬のそばでソレが静止した。

 フィノの目に涙が溜まっていく。

 本人にも理由がわかっていないのだろう。

 困惑した顔のまま、涙だけが頬を伝い始めた。


 ソレが声を発した。

 水が滴るような、静かな響きだった。


「お前の中に、私たちの血が流れている」


 フィノが小さく首を振った。

 否定しているようには見えなかった。

 言葉の意味を、受け止めようとしている。


「……あたしの、中に?」


「遠い。とても遠い。だが確かに。お前は、私たちの子孫だ」


 セラが息を呑む気配がした。

 ガルドは剣の柄から手を離し、静かに見守っている。


 フィノが自分の手を見た。

 小さな手のひら。

 光と水と風を操る、誰にも説明できなかった力。


「……だから、あたしはこうなんだ」


 その一言に、これまでのすべてが詰まっていた。

 理由もなく魔法が使えたこと。

 水辺で落ち着くこと。

 この遺跡で誰よりも多くのものを感じてきたこと。


(……フィノは、ずっとこの答えを探していたのか)


 幼馴染として何年も一緒にいて、フィノの力を「そういうもの」として受け入れていた。

 だがフィノ自身はずっと、自分の中の「違うもの」に戸惑い続けていたのだろう。


 ソレがフィノから離れ、僕を見た。


「あの子のことを知りたいか」


 あの子。


「あの子は泉を愛していた。花を愛していた。そして、この指輪の持ち主を愛していた」


 泉を。

 花を。

 そして――この部屋の主を。

 壁の花のレリーフ。

 武骨な兵士の部屋に刻まれた、繊細な花。

 あの花を大切にしていたのは、この部屋の主ではない。

 この部屋の主が想っていた誰かが、愛した花なのだ。


「聖女……のことか」


 ソレは答えなかった。

 一瞬揺らいだだけだった。


(……やはり、「お嬢様」は聖女だったのだ)


「この先に進みたいなら、泉に戻りなさい。扉は開いたままだよ。一度開いた者を、もう拒まない」


 ソレはそう言って、フィノの前に降りてきた。

 小さなソレの手が、フィノの指先に触れた。


「来て。あの子の泉に」


 フィノの指が震えていた。

 だが振り払わなかった。

 涙の跡が残る顔で、小さく頷いた。


「……うん」


 僕は手帳を握りしめた。

 リングの内側の文字はまだ読めていない。

 この指輪が誰のために用意されたものか、まだわからない。


 だがこの遺跡が守っているのは――誰かの、報われなかった想いだ。

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