北嶺の鍛冶神
見捨てられた谷を出て、俺たちの旅が始まってから五日が過ぎた。
目指すは、アレイティア王国の北方にそびえる「巨人の寝床」と呼ばれる峻険な山脈。
そのどこかに、伝説の鍛冶神グラン・ドワーノンの工房があるという。
荷車の車輪が、ごとりと音を立てて街道を進む。
御者を務めるのは俺。
荷台には、聖なる布で覆われた《天空鋼》の原石と、奇跡の酒が入った樽。
その隣で、リナは街道脇に咲く小さな花を愛おしそうに見つめている。
デュランは、荷車の後ろを用心深く周囲を警戒しながら歩いていた。
「……おい、ユキ」
不意にデュランが声をかけてきた。
「なんだ?」
「お前は、これからどうするつもりだ。もし、グランの爺さんがハンマーを握ってくれたとして……その後は」
その問いに、俺は少しだけ考える。
追放された当初は、ただ生き延びることで精一杯だった。
だが、リナと出会い、デュランと出会い、俺の中には新しい目標が生まれていた。
「さあな。まだ決めてない。けど……」
俺は荷台で微笑むリナに目をやった。
「あの子が、胸を張って『自分には価値がある』って言えるようになるまで、俺はあの子の側にいる。あんたが、もう一度『騎士』として誇りを取り戻すまで、俺はあんたの相棒でいる。それだけは、決めてる」
俺の言葉に、デュランは何も言わなかった。
ただ、「フン」と鼻を鳴らしただけ。
だが、その横顔が少しだけ和らいで見えた。
旅は順調だった。
日が暮れれば野宿し、火を囲んで食事をとる。
デュランが、元騎士の知識で効率的な野営地の設営方法を教えてくれた。
リナは、俺が集めてきた名もなき薬草を調合し、驚くほど効果の高い傷薬や虫除けを作ってくれた。
彼女の聖なる力は、治癒だけでなく、植物の力を引き出すことにも長けているようだった。
俺とリナ、デュラン。
見捨てられた者同士が集まった、奇妙な旅の仲間。
だが、その間には確かな絆が生まれつつあった。
♢
旅の十日目。
俺たちは、ついに「巨人の寝床」の麓に位置する、ドワーフの鉱山町にたどり着いた。
活気はあるが、どこか排他的な雰囲気の町。
道行くドワーフたちは、人間である俺たちを値踏みするような厳しい視線で見てくる。
俺は、町の酒場で、グラン・ドワーノンの居場所について聞き込みを始めた。
しかし、返ってくる反応はどれも芳しくない。
「グラン様? あんたたち人間が会える方じゃねえよ」
「あの方は、もう何十年も山から下りてこねえ。諦めな」
「そもそも、あの山に入るなんぞ自殺行為だぜ。魔物もいるし、何よりグラン様自身が侵入者を許さねえ」
情報は絶望的なものばかりだった。
グランの工房は、この町のさらに奥、誰も近づかないという禁忌の山「隻眼の頂」にあるらしい。
俺たちが酒場で途方に暮れていると、一人の若いドワーフが興味深そうに声をかけてきた。
「あんたら、本当にグラン様に会うつもりなのかい?」
「ああ。どうしても、鍛えてほしいものがあるんだ」
「……物好きもいたもんだ。まあ、止めはしねえが、一つ忠告しといてやる。グラン様は『本物』じゃねえと、話すら聞いちゃくれねえ。手土産に、そこらの剣や鎧を持って行っても、谷底に放り投げられるのがオチだぜ」
その言葉に、俺は笑みを浮かべた。
「本物」なら、ここにある。
♢
翌朝、俺たちは町の者たちの忠告を振り切り「隻眼の頂」へと足を踏み入れた。
道なき道。
人の踏み入ることを拒むかのような、険しい獣道。
時折、魔物の気配もする。
デュランが、俺とリナを背に庇いながら警戒して進む。
その目は、もはや酒場の酔いどれのものではない。
王国騎士だった頃の、鋭い輝きを取り戻していた。
半日ほど登っただろうか。
俺たちの目の前に、不自然なほど巨大な鉄の扉が現れた。
山肌をくり抜いて作られたドワーフの工房の入り口だ。
「ここか……」
デュランがゴクリと唾を飲む。
俺が扉に手をかけようとした、その時だった。
「――そこを動くな、侵入者ども」
重く威厳のある声が響いた。
声の主は、扉の前にいつの間にか立っていた。
背は低いが、その体は鋼の塊のようにたくましい。
白く長い髭を編み込み、その眼光はまるで獲物を狙う鷹のように鋭い。
彼こそが、鍛冶神グラン・ドワーノン。
その人だった。
「何の用だ。ここは人間が遊びに来るところじゃねえ。さっさと失せろ。でなければ、そのナマクラごと叩き斬るぞ」
グランは、背負っていた巨大な戦鎚を、軽々と肩に担ぎ直した。
その威圧感に、俺はゴクリと息を呑む。
これが、伝説の鍛冶神……。
俺は、一歩前に出た。
「突然の訪問、失礼します、グラン様。我々は、あなたに依頼があって参りました」
「依頼だと? 聞こえなかったか。俺はもう、誰の依頼も受けねえと決めたんだ」
「それでも、これを見ていただければ、きっと考えが変わるはずです」
俺は、荷車にかけていた布をゆっくりと取り払った。
朝日を浴びて、青く神秘的に輝く《天空鋼》の原石がその姿を現す。
グランの目が、わずかに見開かれた。
彼の視線が原石に釘付けになる。
伝説の鍛冶師である彼がその価値を分からないはずがなかった。
「……そいつは」
「《天空鋼》。そして、こちらが手土産の酒です」
俺はリナが祈りを込めて作った奇跡の酒の樽を、彼の前に差し出した。
樽の栓を開けると、百年物の熟成香にも似た芳醇な香りがふわりと立ち上る。
グランは、黙って酒の香りを一嗅ぎすると、革袋を受け取り、それを一気に呷った。
彼の喉が、ゴクリと大きく鳴る。
そして、彼はカッと目を見開いた。
「……なんだ、この酒は。神々の蜜酒か……」
最高の素材と、最高の酒。
二つの手土産は、彼の心を動かすに十分なはずだった。
だが、グランはゆっくりと首を横に振った。
「……確かに、どちらも『本物』だ。だが、それでも俺がハンマーを握る理由にはならねえ」
「最高の素材には、最高の使い手がいてこそ意味を成す。そこのお前か?」
グランの鋭い視線が、デュランを射抜く。
「片腕の騎士、か。面白い。だが、その魂の輝きはまだ曇っている。そんな半端者に俺の打った武具を持つ資格はねえ」
彼は俺たちに背を向けた。
「酒は貰っておく。だが、依頼は受けん。それを持って、とっとと山を降りろ」
鉄の扉が、ギィィ、と音を立てて開き始める。
このまま、終わらせるわけにはいかない。
俺は叫んだ。
「待ってください! 彼が半端者だというのなら、ここで証明させてほしい! あなたが認めるに足る『最高の使い手』になる男かどうかを!」
その言葉に、グランの足がピタリと止まった。
彼はゆっくりと振り返り、面白そうに口の端を吊り上げた。
「……面白いことを言う、小僧。いいだろう。ならば、試してやろうじゃねえか」
「お前たちが、俺の『試練』を超える資格があるかどうかをな」