隻腕の剣神
未来の聖女が目を覚したのは、俺があの谷に来てから三日目の朝だった。
それまでの間、俺は彼女の看病に付きっきりだった。
奴隷商人の元で負った傷と、長旅の疲労、そして何より心の消耗が彼女の体を蝕んでいた。
熱は下がらず、時折苦し気に魘されている。
このままでは危ない。
俺は【未来価値鑑定】のスキルを使い、彼女を救うための「可能性」を探した。
「この谷で、薬草として最も価値を持つ植物は?」
そう強く念じると、俺の心のコンパスが、岩の隙間に生えるただの湿った苔に強く共鳴した。
俺はそれに意識を集中させ、アクティブ鑑定を発動する。
【対象:潤い苔】
【現在価値:ただの苔(薬効:なし)】
【未来価値:あらゆる病を癒やす《万能苔》(伝説級)】
【条件:月光で一夜干しにした後、《大聖泉》の水で煎じること】
「月光で一夜干し…? 聖泉の水…?」
鑑定結果を見て、俺は歯噛みした。
条件が、今の俺にはあまりにも厳しい。
今すぐには、完璧な薬を作ることはできない。
だが、諦めるわけにはいかない。
俺は、鑑定結果をもう一度よく見る。
「条件」を満たせば「伝説級」になる。
だが、条件を満たしていない「今」のこの苔は、本当にただの苔なのか?
そして《大聖泉》の水とは?
俺は、鑑定で場所を突き止めていた「枯泉」へと向かった。
泉はまだ枯れたままだが、その中心部から、ごく僅かに染み出す地下水があった。
俺はそれを鑑定する。
【対象:名もなき枯泉の地下水】
【現在価値:微量の魔力を含む清水】
【未来価値:《大聖泉》】
これだ。
《大聖泉》そのものではないが、この水もまた聖泉になる「ポテンシャル」を秘めている。
完全な薬は作れない。
だが、ゼロじゃない。
俺は、まだ「ただの苔」である潤い苔を採取し、この「微量の魔力を含む水」で丁寧に煎じた。
完璧な薬には程遠いだろう。
だが、今の俺にできる最善の一手だ。
俺はその即席の薬を眠るリナの口に少しずつ含ませてやった。
♢
「……ここは?」
か細い声で、未来の聖女が目を覚ました。
俺の応急処置が功を奏したのか、彼女の熱は少しだけ引いていた。
俺は焚き火で温めていたスープを差し出しながら、できるだけ穏やかな声で答える。
「見捨てられた谷だよ。もう大丈夫。君を縛るものは何もない」
だが、彼女の瞳は怯えに揺れていた。
スープを受け取ろうとせず、痩せた体で後ずさる。
「……どうして、助けたの? 私は……汚れてる。何の価値もないのに」
その言葉が、俺の胸に突き刺さった。
【条件:彼女が自分自身を許すこと】
鑑定で見た彼女が聖女に至るための条件。
その意味の重さを、俺は今、痛感していた。
長年の虐待が、彼女から自分を肯定するという当たり前の感情さえ奪ってしまったのだ。
無理強いはできない。
俺はスープを彼女のそばに置くと、少し距離をとった。
「価値がないなんて、俺が決めないし、君が決めることでもない。今は、ただ生きて。それだけでいい」
俺はそれ以上何も言わず、彼女が自分の意志でスープを口にするまで静かに待った。
この日から、俺たち二人の奇妙な共同生活が始まった。
♢
未来の聖女ことリナは少しずつ元気を取り戻していったが、まだ俺とはほとんど口を利かなかった。
ただ、俺が採ってきた木の実を食べ、俺が汲んできた水を飲む。
その繰り返し。
それでも、俺にとっては大きな進歩だった。
問題は、食料だ。
谷の恵みだけでは、二人分の食料を安定して確保するのは難しい。
塩や、まともな調理器具も欲しい。
俺は、谷の入り口近くにあるという、小さな村へ向かうことにした。
リナには火の番を頼み、俺は一人谷を出た。
村は谷と同じくらい寂れていた。
石造りの家が数軒と、あとは一軒の酒場があるだけ。
人の気配もまばらだ。
俺はなけなしの銀貨で、最低限の塩と干し肉を買うと、情報収集も兼ねてその酒場に入った。
昼間だというのに、薄暗い店内には数人の男たちが酒を飲んでいた。
その中でも一際、やさぐれた空気を放つ男がいた。
テーブルに突っ伏し、虚ろな目で杯を煽っている。
年の頃は三十代だろうか。
特徴的なのは、彼の左腕だった。
肩から先がない。
「おい、デュラン! また昼間っから飲んだくれてるのか!」
酒場の主人が、呆れたように声をかける。
隻腕の男――デュランは、顔を上げずに悪態をついた。
「うるせえな。俺がどこで何を飲もうが、俺の勝手だ」
「勝手だが、他の客に絡むのはやめろってんだ。お前がいると、場の空気が悪くなる」
その言葉に、近くの席にいた別の客がゲラゲラと笑った。
「やめとけよ親父。こいつは元・王国騎士様だぜ? 片腕になって国に見捨てられた哀れな英雄様よぉ!」
下品な笑い声が店内に響く。
デュランの右手がピクリと震えた。
彼はゆっくりと立ち上がると、よろめきながらも嘲笑の主へと歩み寄る。
「……今、なんて言った」
「聞こえなかったか? 落ちぶれた隻腕の英雄様だって、言ってやったんだよ!」
男が挑発するように胸を突き出す。
次の瞬間、俺は信じられないものを見た。
デュランの右腕が、鞭のようにしなった。
それは、ただの殴打ではなかった。
重心移動、力の流れ、全てが完璧に計算された武術の動き。
相手の男は反応すらできずに床に叩きつけられていた。
だが、デュランもまた、酒と体力の消耗で足元がおぼつかない。
床に倒れた男の仲間たちが、一斉に立ち上がった。
「てめえ、デュラン! やってくれたな!」
多勢に無勢。
あっという間に、デュランは数人の男たちに取り押さえられ、一方的に殴る蹴るの暴行を受けていた。
俺は、その光景から目が離せなかった。
いや、違う。
俺の目は、デュランという男に釘付けになっていた。
――胸が、熱い。
リナを見つけた時と同じ、「共鳴」が、今、俺の心臓を激しく揺さぶっている。
こんな男が、こんな寂れた村に埋もれているはずがない。
俺は暴行を受けるデュランに意識を集中させた。
【未来価値鑑定】
【対象:隻腕の元騎士 デュラン】
【現在価値:絶望した酔いどれ(戦闘能力C-)】
【未来価値:常識を覆し、歴史に名を刻む《隻腕の剣神》(伝説級)】
――また、伝説級だ。
俺のスキルが、この男もまた「本物」だと告げている。
鑑定のリングが、彼の失われた左腕のあたりで、特に強く輝いているように見えた。
【条件:失われた腕の代わりとなる『相棒』との出会い】
【条件:守るべきものを見つけること】
俺はゴクリと唾を飲んだ。
聖女と、聖泉。
そして、剣神。
この見捨てられた谷は、俺にとって、新しい世界の始まりの場所なのかもしれない。
暴行が終わり、男たちは唾を吐き捨てて店を出ていった。
床に転がったまま、ぴくりとも動かないデュラン。
酒場の主人は、面倒くさそうにため息をつくだけで、助け起こそうともしない。
俺はゆっくりと立ち上がると、床に転がるデュランの元へと歩み寄った。
そして、彼が振り払うのを覚悟で右手を差し出した。
「立てるか?」
デュランは、うっすらと目を開け訝しげに俺を見上げた。
その瞳に、俺は言った。
憐れみからではない、俺だけが見えている彼の本当の価値への敬意を込めて。
「あんたの剣は、まだ錆びちゃいない。そうだろ?」