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罪と贖罪

「……お父様。もう、やめてください」


その声は、まだ病の影響で弱々しかった。

だが、広場に集まった全ての者の耳に、それは雷鳴のように確かに届いた。

声の主は病で塔に幽閉されていたはずの、領主の姫君――セラフィーナ・ド・マーカム、その人だった。


「……セラ、フィーナ……?」


マーカム侯爵が、まるで幽霊でも見るかのような、信じられないという表情で娘の名を呟いた。

広場に集まった領民たちも、固唾を飲んでその姿を見守っている。

彼女が、今、自らの足でここに立っている。

その事実だけで、この場にいる誰もがこれから起こることがただ事ではないと理解していた。


「セラフィーナ……なぜ、お前がここに……。体に障る、早く部屋へ戻りなさい!」


「いいえ。私は、もう籠の中には戻りません」


侍女に肩を支えられながらも、セラフィーナは、ゆっくりとしかし確かな足取りで祭壇へと歩み寄る。

そして、デュランの隣に立ち、父と対峙した。


「私は、全てを知りました。私のこの病が……いいえ、この『呪い』が、お父様の行いのせいであるということを」


「なっ……!何を言うのだ、セラフィーナ! お前は、そこの反逆者どもに騙されているのだ!」


侯爵は、狼狽したように叫ぶ。

だが、セラフィーナは、静かにしかし力強く続けた。


「いいえ。教えてくれたのは、この土地の精霊様たちです」


彼女は、自分の胸元をそっと握りしめた。

その手の中には、俺があの夜に渡した『地根草』の種が握られている。


「この、温かい光が私に夢を見させてくれました。お父様が私利私欲のために『精霊の森』を伐採し、その怒りが、この土地とあなたの血を引く私を蝕んでいるのだと」


「そして、ゴードン様や、『地根草』は、その怒りを鎮め、土地を癒やすための希望の光なのだということも」


その告白は、デュランが突きつけた告発よりも遥かに重く、そして決定的なものだった。

領民たちが、大きくどよめく。


「やはり、そうだったのか……!」


「俺たちを騙して、ゴードン様を悪者に……!」


「姫君様は、俺たちのために……!」


「黙れ! 黙れ黙れ!」


侯爵が、狂ったように叫ぶ。


「こいつは偽物だ! 俺の娘は病で正気を失っている! 衛兵! 何をしているあの娘を捕らえろ! 反逆者どもとまとめて、斬り捨てよ!」


儀仗兵たちが、戸惑いながらも剣の柄に手をかける。

その前に、デュランがアストレアを構えて立ちはだかった。


「……それ以上、一歩でも動いてみろ。その時は、峰打ちでは済まさんぞ」


だが、兵士たちを本当に止めたのはデュランの武威ではなかった。


「やめてください!」


セラフィーナの、悲痛な叫びだった。

彼女は兵士たちの前に、自らの衰弱した体を投げ出すようにして立ちはだかった。


「もう、誰も傷つけないでください! 悪いのはお父様なのです! あなたたちではありません!」


「お願いです。剣を下ろしてください……! これ以上、この土地を罪で汚さないでください……!」


涙ながらに訴える彼女の姿に、兵士たちは完全に動きを止めた。

彼らもまた、この土地で生まれ育った人間だ。

精霊を敬い、領主の姫君を心のどこかでは敬愛していたはずだ。

その姫君自身の、魂からの叫び。

それに逆らえるほどの忠誠心を彼らは持ち合わせていなかった。


一人、また一人と兵士たちがその手から剣を落としていく。

カラン、カラン、という、金属が石畳に落ちる音が広場に響き渡った。

それは、マーカム侯爵の圧政と、嘘と欺瞞に満ちた支配が完全に崩壊した音だった。


侯爵は、その場にがくりと膝をついた。

全ての者に背かれ、彼はただ一人になったのだ。



その後、事態は急速に収束へと向かった。

領民たちの支持を失い、兵士たちにまで背かれたマーカム侯爵はデュランによって身柄を拘束された。

ゴードンもまた、砦を見張っていた兵士たちが戦意を喪失したことですぐに無事に解放された。


砦の門が開かれ、ゴードンが姿を現した時、彼を迎えたのは侯爵への怒声ではなく、彼への謝罪と感謝の声だった。


「ゴードン様、申し訳ありませんでした!」


「俺たちの土地を、救ってくだせえ!」


ゴードンは、深々と頭を下げる農民たちを、ただ黙って、しかし温かい目で見つめていた。


その日の夕方、村の広場では収穫祭が本来あるべき姿で再開されていた。

そこにはもう偽りの儀式も領主への恐怖もない。

ただ、自分たちの手で勝ち取った豊作への感謝と、未来への希望に満ちた笑顔と活気が溢れていた。


俺は、広場の喧騒から少し離れた場所で焚き火を囲む仲間たちの姿を眺めていた。

デュランは、子供たちにせがまれ、アストレアの指を動かして見せている。

その表情は、かつてないほど穏やかだ。


アイリスは、解放されたゴードンと収穫された麦の品質について専門的な議論を交わしている。

その姿は、もう落ちこぼれの司書見習いではない。

若き賢者の風格すら漂っていた。


そして、リナ。

彼女は、セラフィーナの手をとり、その呪われた体を聖なる光で優しく癒していた。

セラフィーナの呪いはまだ完全には解けていない。

精霊の森が再生しない限り、根本的な治療にはならないだろう。

だが、リナの光は彼女の苦しみを和らげ、その心に寄り添っていた。


「……ありがとう、リナさん」


セラフィーナが、穏やかな表情で言った。


「私、決めました。私はこの土地に残って、お父様の罪を償います。この土地に森が蘇る日まで、領主代行として、皆さんと共に汗を流します」


その瞳には、もう迷いはなかった。

彼女もまた、自らの意志で未来へと歩き始めたのだ。


「……ユキさん」


アイリスが、俺のところにやってきた。


「アウディット様への、報告の草案ができました。ご確認を」


「ああ、ありがとう。仕事が早いな」


俺は、羊皮紙を受け取った。

そこには、今回の事件の顛末とマーカム侯爵の罪状、そして今後の東部の統治案までが完璧なまでに記されていた。

これを王都に送れば、侯爵の失脚は確定するだろう。


俺たちの最初の戦いは終わった。

それは、剣と魔法の戦いではなかった。

人の心と、嘘と真実を巡る情報戦。

そして、俺たちはそれに勝利したのだ。


俺は、仲間たちと共に、この東部の土地の再生を見届けた後、王都へと戻ることになるだろう。

そこでは、きっとさらに大きな困難が待ち受けている。


だが、今の俺にはもう何の恐れもなかった。

俺には、最高の仲間たちがいる。

聖女、剣神、大賢者。

そして、大農聖をはじめとする多くの協力者たち。

見捨てられた者たちが集って生まれた、俺たちの「国」は、まだ小さいがどこよりも強く輝いている。


俺は、黄金色に輝く麦畑の向こうに、俺たちの、そしてこの国の輝かしい未来の設計図を確かに見ていた。

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